かぐや姫と不死の薬③
来る八月三日、月曜日。
今日は一限の講義で試験を受けたらすぐに放課だ。他の講義は全て七月いっぱいで終わっているのに、月曜一限の講義だけが一度休講があったせいで八月までもつれ込んでいる。
そんな泣き言混じりに学生たちがついたであろうため息を象徴するように、梅雨明けの空は湿っぽい雲に蝕まれている。それに見下ろされながら、しかし私の心はその先にある澄み切った青空を見通すようにからっと晴れやかだ。支度に手間取ったせいで少し遅刻だけど、そんなことは歯牙にも掛けず誰もいない坂道を歩く。
今日を最後に、波乱の二年生前期は閉幕。それは同時に長い夏休みの幕開けを意味する。私とことりが今のまま二ヶ月もある休暇に突入すれば、私たちの関係は間違いなく停滞し、衰退する。それは少なくとも私にとっては致命的だ。だから、何としても今日この日に、今の状態に終止符を打たなければならない。
そして、私は今まさにそのための足掛かりによって、気持ちとは裏腹に辿々しい足取りで坂道を上っている。そんな私は客観的にどう映るのだろうと、ふと思う。
普段より重い大きなかごバッグに、コンシーラーを使わずに仕上げたナチュラルメイク。後頭部にお団子を遇ったハーフアップの髪型は後れ毛多め風にアレンジして、外ハネというアイデンティティを残している。
ここまでは、いつもの私と少し違う程度。私を知らない人が見ても特に何も感じないと思う。けど、大学に向かっているという状況を踏まえると、誰の目にも異質なところがある。
浴衣と下駄だ。
私は今、鮮やかな赤と青の朝顔が散りばめられた紺地の浴衣に身を包み、鼻緒が紺色の黒い下駄をカラカラと鳴らしながら大学への坂道を上っている。
そしてこれこそが、ことりを強引に花火大会に連れて行き、現状を打開するための足掛かり。こうもめかしにめかし込んできた相手の誘いを、そうそう容易く断れるものではない。少なくとも、ことりはそこまで非情になれない。ことりの優しさに付け込むようで少し罪悪感はあるけど、好き避けであれ何であれ、私はことりとしっかり向き合いたい。そのくらいのわがままは許される関係のはずだ。
もちろん、その先にあるのが誰の望む未来なのかを考えるとやっぱり怖い。私の望む未来とことりの望む未来は両立できないものかもしれないし、最悪の場合お互いが望まない未来になってしまうかもしれない。
けど、それでも。私はことりが好きで、ことりにも私を好きになって欲しい。その気持ちに嘘をついてまで手に入れる未来に価値なんてないから。
だから、今は進む。ことりのもとへ。着慣れない浴衣に足を取られながら、履き慣れない下駄に指を痛めながら。嘲笑うような曇り空の下、険しい坂道に躓きそうになっても。
この逆境に、立ち向かう。
試験が終わり、無事二年生前期が終了した。試験は分量が少なかったおかげで遅刻した影響も特になく、今期も単位は落とさずに済みそうだ。
当然、講義室に入る時色々な意味で注目を浴びたり先生に嫌味を言われたりはしたけど、そんなことはどこ吹く風。むしろ、冷ややかな視線を汗ばんだ体に心地よく感じながら、私はいつもの席にいたことりだけを見ていた。ことりの方も下駄の音に反応したから目が合ったけど、ことりはその途端顔を赤くしてすぐ机に目線を戻した。ただ、それが恋愛感情によるものなのか共感性羞恥によるものなのかは微妙なところ。
とはいえ、問題はこれからだ。
蚊柱のような有象無象の視線をきっと睨んで散らしながら、講義室を出てことりを待つ。空調で冷え切った体に夏の湿気が暖かい。
白い壁に背を向けつつ、ことりにどう声をかけるか考える。試験中に一度決心していたけど、いざその段になって吹いた臆病風に、心の底で沈着していた考えが迷いとなって巻き上がった。
けど考える間もなく、講義室から流れ出す人波に混じってことりが現れた。犇く蚊の一匹一匹にすら気を払うように視線を彷徨わせていて、一切衆生悉有仏性と言わんばかりだ。あの御心を前に、お為ごかしは通用しない。そう直感して、上の方に舞い上がった軽はずみな考えには目もくれず、心の奥底でじっとしている本心に手を伸ばす。
ことりが戸惑いからかぼんやりとこちらに向かって来る。私より高い位置にあるはずの瞳は私の目線より下——腰のあたりだろうか——に向いていて、さっきと同様に顔が赤い。対照的にノースリーブのシャーリングワンピースからは日焼け知らずの真っ白な肌が大胆に露出している。
気持ちがうかうかしていられないと逸り、ことりが歩みを止めるのを待たずして勢いよく喉から飛び出す。
「ことり、デートしよ」
それを受けてピクリとことりの足が止まる。握手するには少し近くて、抱きしめるにはまだ遠い、そんな絶妙な距離だった。
すんなりと出てきた言葉に自分でも驚いたけど、幸先が良い。かごバッグを握る左手にグッと力が入る。
「……いきなりだね」
ことりはなお俯いたまま、感情を咀嚼するようにゆっくりと瞬きをしている。
「ごめん、おはよう」
「いや、挨拶がないのを咎めたんじゃなくて……」
私のボケも小慣れたものだ。そんなことばかりが進歩している現状を意識すると少し虚しい。
「しかも今日はおそようだったし」と言いながら咀嚼した感情を飲み込むように少し瞑目した後、ことりがようやく私と目を合わせた。喜怒哀楽の全てを混ぜた結果濁ってしまったような、そんな複雑で暗い表情に覆われている。
「花火だよね」
見るからにと言いたそうな目で、ことりが浴衣を一瞥する。
話が早くて助かるけど、実はそれだけではない。私が今日この日にかける思いはそんな並大抵のものではないのだ。
「あと海も」
「え?」
今度はその格好で行くのと聞きたそうな目で、浴衣ではなく私を見た。
考えていることは手に取るように分かるのに、一番知りたい気持ちだけが見えない。この世界に神が存在するなら、愛というものをよくここまでうまく隠したものだと文句の一つ二つ言ってやりたい。
「夏だから」
それは、考えたくもないけど、最悪の場合二人で過ごす最後の。それでも絶対に後悔はしたくないから、私なりに全力でことりをエスコートして、最後に気持ちを告白する。そんな覚悟と決意とが、辛うじてバランスを保って今の私を支えていた。
「……良いけど、どこの?」
逼迫した心境を感じ取ってか、ことりが観念したように承諾する。それに安堵すると同時にこのやり取りに既視感を覚えて、ことりに花見をしようと言われた時のことを思い出す。あの頃までと見事に逆になった立場を意識しながら、今度は私がことりに与える番だと意気込む。
「去年行ったところ」
「……分かった」
そうしてことりが歩き出す。浴衣のせいで広がった歩幅の差を埋めようと、いつもより速く足を踏み出す。けど浴衣が絡み付くせいで思うように進めず、ことりのほんの少し後ろを歩く。
二つの異質な足音がバラバラのリズムで不協和音となり、軋んだ歯車のように不穏な音を響かせる。それを蝉声に隠すように、足音を殺して歩いた。
危なかった。
試験中に燃え上がった気持ちは何とか鎮火したつもりだったのに、講義室から出て目の端に陽芽莉が映った瞬間に爆発した。理性が吹き飛んで、夏の暑さなのか私の熱さなのか分からない朦朧とした状態でただ陽芽莉を渇望した。
陽芽莉の声で意識を取り戻せたから良かったけど、それがなかったらと思うと恐ろしい——間違いなく、抱きしめていたと思う。そして一度抱きしめたら歯止めがきかなくなって、きっとキスもしてしまっていた。それくらいあの時は余裕がなかったから、陽芽莉が声をかけてくれて本当に助かった。
安堵しながら、右隣にいる陽芽莉を横目に見る。つり革を掴んでいる私の右腕越しに、延々と流れる景色をぼんやり眺めている姿が見えた。こちらもこちらで何やら考え事をしているっぽい。
次の停車駅はいよいよ目的地。大学の最寄駅から二回の乗り換えを経てだいたい一時間くらい電車に揺られた。その間にしたやり取りといえば、浴衣について気になったことを私が聞いて、陽芽莉がそれに答えたくらい。浴衣は一式セットの宅配レンタルで、着付けは自分でしたらしい。今朝遅刻したのもそれでかな。
浴衣は家族で花火を見に行った時に私も着たことがあるけど、その時は母と二人掛かりでも手間取った覚えがある。陽芽莉はまた相当頑張ってくれたのだろうなと胸を焦がしながら、着崩れる気配のない艶姿にうっとり見惚れてしまう。
黒に見えるくらい落ち着いた紺地に、元気な朝顔の花と葉の三原色が鮮やかに映える浴衣。髪型はハーフアップで大人の女性らしさを帯びつつ、小さなお団子と外ハネに無垢な少女っぽさを残している。素材を生かしたメイクは浴衣を引き立てるように控えめで、顔立ちも相まって慎ましさといじらしさの両方が感じられる。そんな、色っぽさとあどけなさが全身でせめぎ合っているような風貌が、恋する乙女の可憐な美しさみたいなものをこれでもかと醸し出している。
自分で決めたこととはいえ、やっぱり私も本心としては陽芽莉に飢えている。だからこの可愛さなら我を忘れて求めてしまうのも無理はないと、そう冷静になった今でも諦観してしまうくらい、今日の陽芽莉の可愛さは圧倒的だ。
でも、屈するわけにはいかない。
陽芽莉の様子を見るに、間違いなく今日が正念場だ。思い上がりかもしれないけど、きっと陽芽莉は今夜の花火大会で告白とかそういう大一番的なものを仕掛けてくる。
そして、これまでは暗に拒絶することで陽芽莉に告白をさせまいとしてきたけど、正直それでは駄目だとも思っていた。そうすることは私への罰にはなっても、贖罪にはならないから。
だから、本当に図々しいけど、陽芽莉の決意に肖る。逃げずに向き合って、元の状態に戻る。そうして一方的に陽芽莉を幸せにし続ける。
それが、兄への贖罪になるはずだから。
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