かぐや姫と不死の薬②

「ことり、これ」

 左隣に座っていることりに体を向けると、窓からさす日差しに目が眩んだ。

 ことりが指示語の内容を確認するようにこちらを向く。ずいと差し出したペットボトルの底の方では、水が生きているみたいにゆらゆらしている。

「……アイドントサースティ、ノーセンキュ」

 右手で門前払いしながら、英語の講義後なのを受けて文法の怪しい片言で返す。申し訳なさからかその視線は私を捉えず、ペットボトルの方に逃げている。

 久しぶりの晴れにはしゃぐ蝉と学生を、遠くに意識する。七月になったばかりで本格的な暑さではないものの、ことりの顔は少し赤らんでいた。

「熱中症になっちゃうから。飲まないとだめ」

 生き急ぐような蝉と学生に感化されて、熱中症ってゆっくり言わせてキスみたいな訳の分からないことも一瞬過ったけど、幸いそんな蛮勇は持ち合わせていなかった。

「じゃあ……。ありがと」

 不承不承ながら自然と嬉しそうな笑顔で返してくれるあたり、本当に気立てが良い。

 堅くパーにしていた手にペットボトルを寄せると、ことりが力なく受け取った。躊躇うようにキャップを開け、ぎこちなく机の上に置く。少しは意識してくれているだろうか。

 ことりがゆっくりと、ペットボトルに瑞々しい唇を近づけていく。その飲み口に自分の唇の面影を重ねつつ、熱を帯びた目で食い入るように見つめてしまう。

 間接キスまであと拳一つ分。

 キャップ一個分。

 爪一枚分。

 あれ? 

 いつの間にか、腿の上にある自分の手を視界の中心に捉えていた。

 あ。

 これ私が意識しちゃってダメなやつだ……。

 ミイラ取りがミイラと言うか何と言うか。ことりの唇に夢中で気づかないうちに、心臓が張り裂けそうなくらい大きく早く跳動していた。

 とてもじゃないけどことりの表情を窺えない。当然ことりが間接キスを意識してくれているのかも判断できないし、これでは水の泡——

 ——いや。

 いや、違う。意識してくれているかどうか確かめることが目的ではない。目的はあくまで最終的に間接キスを意識させること。それなら顔を見なくたってできる。

 及び腰になっている場合じゃない。言え、私。口から発した音が偶然にも人間の言葉で、それがたまたまこのシチュエーションに合致するだけの話だ。

「…………間接キスだね……」

 ことりがケフケフと苦しそうに咽せた。サディズムがはしゃぐ。

 張り詰めた空気が和らぐのを感じて、自然とことりの顔を見上げる。恥ずかしそうに顔を赤らめて、むぅ、と可愛らしく私を睨んでいる。

「その、……偶然、」

「……偶然?」

 咎める涙目が幼気で愛おしい。笑顔のバリエーションは豊富だけど、怒った顔はあまり見せてくれないからつい見惚れてしまう。

「いや、たまたま、」

「たまたま?」

 いやそれにしてもこの顔堪らない。今回は豊作だなんて自分の立場を度外視して悦に入る。

 けど筋は通さないと。

「……ごめんなさい」

「……分かればよろしい」

 ことりがキャップを無造作に閉めながら無罪放免を言い渡す。けど顔はそれらしからず、まだ取り乱した形跡が頬にほんのりと残っている。

 ことりから受け取ったペットボトルに確かな手応えを感じていると、窓から一際強い日差しが忍び込んで講義室全体を金色に染めた。酸味の中にどこか甘い香りを感じられるような、そんな柔らかい静寂。ことりを友達として見ていた時の何気ない沈黙とは一線を画し、この間みたいな閉塞感からくる居心地の悪さとも雲泥の差がある。

 これはいわゆる、良い雰囲気というやつかもしれない——



 誕生会をした日以来、今度は別のベクトルで陽芽莉の様子が変になった。

 いや、まあ、何というか。私が言うのはあれだけど。キスをした相手に何も思っていない方が不自然だとは思うし、陽芽莉が私に友情ではない気持ちを抱いてくれているのかな、というのも何となく分かる。

 でも、それにしたって。六月の初めの頃を思い出すと、陽芽莉には悪いけど可笑しくて笑ってしまう。講義中目を合わせるとウインクしてきたり、メッセージがおじさん構文になっていたり、M1王者でも反応に困りそうなボケをしたり。お化粧が変わってますます可愛くなったというのに台無しだった。

 ただ、七月に入ってからは状況が一変した。常々思っているけど、陽芽莉はここぞという時の行動力は凄まじいし飲み込みも早い。おかげで油断しているとすぐに陽芽莉への気持ちでいっぱいになる。このまま幸せになれたらって、そんなことばかり思ってしまう。

 でも、その先に未来はない。それは私の生きる理由を否定することに他ならないから。

 だから、それを肯定するために、私の気持ちを否定する。

 私なりの「贖罪」のために。



『——と思ったのですが結局何もないまま帰り、それから二週間近く進展がありません』

 初めて利用して以来たまにお世話になっている匿名掲示板に、ある程度ぼかしながら近況を書き込む。こんなドラマあったな。

『ヘタレ』

『童貞を拗らせた女』

『電車女』

 ノートパソコンの画面に映るのは概ね予想通りの回答ばかりだ。ただ、臥薪嘗胆だと意気込んではみたものの、私もうら若き乙女。体たらくを自覚しているだけに心にくるものがある。

 七月も残すところ一週間。長い梅雨のトンネルは出口に差し掛かり、蝉の鳴き声が空気の組成を変える勢いで轟く。知的生命体のそれではないとまで揶揄された私の求愛もまた、最近は蝉に負けず劣らず熱烈なものになっている。はずなのだけど。

 こちらもこちらで苛烈を極めている罵詈雑言の嵐から逃げるように、動画サイトに移動しておすすめの動画を流すだけ流しておく。

 想いを告白する絶好のタイミングを逃してから、ことりが私に対して明らかに壁を作っている。いや、最近は壁というより有刺鉄線だ。ちょっと冷たいとか、もはやそういう次元の話ではない。明らかに私を拒絶する意図で避けている。

 遊びに誘っても断固拒否、スキンシップはどれも冷たく遇われ、色恋沙汰の話題に持ち込むと「その話やめない?」と真顔で返される。他愛無いメッセージは全部無視だし、電話をかければ半日置いて『ごめん寝てた』のメッセージのみ。

 思い出す度に、その一つ一つが惨たらしく私の心を切り付ける。その悲痛な叫びが涙になって溢れそうになる。

 けど、泣かない。泣くわけにはいかない。泣いた瞬間、きっと私の中の決意と覚悟が均衡を失ってしまうから。絶対に、涙を流す訳にはいかない。

 そうして、ことりがくれたアルバムに縋る。

 最近は常に机の上にあるそれを、もう何十回眺めたか分からない。ひょっとしたら三桁を優に越しているかもしれない。どのページにどの写真があるか、どんな顔かまで具に覚えてしまって、カラフルな写真がセピア色に霞む。きらきらしていたはずの思い出そのものまで作り物のように思えてしまう。常の如く見せていた笑顔さえ私に向けてくれなくなったから、アルバムで笑っているのがことりではないようにすら映る。

 だから、こうして無意識にアルバムを開きながらも、その実私が振り返っているものは別にあった。それは、誕生会の日にことりが私を抱きしめてくれたという、その事実。

 けど、いよいよそれさえも無価値に思えてくる。最初はそれで前向きになれたけど、もう分からなくなった。何が分からないのかすらよく分からないし、それを分かるべきなのかどうかも、そもそも分かり得るものなのかどうかも、そしてなぜ分かろうと思ったのかも分からない。思考回路が秩序を失って、本当に、何もかも分からなくなっていく。前に進もうと現状を見つめれば見つめるほど凄惨な泥沼に引き摺り込まれて、どんどん全身の感覚がなくなっていくような、そんな虚無に支配されていることだけしか分からない。

 ついには意識が霧散し、呆然と前を向く。目の前でずっと流れていた動画が、一度無になった意識に朧げに形を与えていく。

『……なーんかうまくいってたのに、急に! そう、ほんとに急に! カレがそっけなくなっちゃって……』

 ……おい、その先は地獄だぞ。

『もうほんっとに、ほんっとだよ? うそじゃないよ? 一時期はまじ病みしたんだけど……!』

 ……だけど?

 鬱陶しい話し方だと思いながらも、語尾の明るさからその先に希望の光がある気がして固唾を呑む。

『……それが実は好き避けで!』

 女性の顔がパッと綻ぶ。

 ……スキサケ?

 椅子に預けていた身体を勢いよく起こし、新しくタブを開いて検索する。

 その女性が『でも必ずしも』とか何とか言っているけど、明確に形を帯びた意識はびくともしない。何ならその女性の顔ももう思い出せない。そのスキサケとやらが希望に満ちたものらしいというときめきだけを胸にエンターキーを押す。

 スキサケは、好き避けだった。ざっと目を通したところ、オタク文化で言うところのツンデレ、心理学で言うところの反動形成、俗に言うところの嫌よ嫌よも好きのうちみたいなものらしい。要は、好きなあまり相手を避けてしまうこと。なるほどそれで好き避けか。

 心理学専攻よろしく、新たに示唆されたその可能性を踏まえて、改めてことりの行動を分析する。

 海に誘ったら断られたのは何で? ……好きな人に水着姿を見せるのが恥ずかしかったから?

 手を繋いだら「ちょっと暑いかな」と冷たく遇われたのは? ……好きなあまり冗談めかす余裕すらなかったからか。

 どんな人が好みか聞いたら話を遮られたのは、私のことが好きだとバレてしまうからか。

 メッセージを返してくれなかったのは、好きな人に軽率な発言をして幻滅されたくなかったからだ。

 電話に出られなかったのは当然だ。だって、私がかける時緊張していたのだから、ことりだってそうだったに決まっている。

 結論。ことりは私のことが好きである。さらに、その気持ちは私よりも大きいと考えられる。なぜなら行動が素直な私とは対照的に、ことりには好き避けという反動形成が顕著に現れているからだ。

 考察。ことりちゃんは私を好きだという気持ちが大き過ぎるため、私からいっそう積極的にアプローチする必要がある。押して駄目な場合は引くのではなく、押し倒して地面に埋める勢いで押し続けるべきなのだ。そうすれば必ず押し返されることは、物理学的見地からも作用反作用の法則が裏付ける所である。

 と、似非レポートごっこをしている間に、別タブで再生されっぱなしの動画はゲーム実況に切り替わっていた。『ASぶっぱの自信過剰』がどうのと言っているタブを消し、得られた知見から導き出される最善手をじっくり考える。

 スキンシップを拒まれて話題すら遮られる以上、大学で出来ることにはどう考えても限りがある。なら、どうやって遊びに連れ出すかだ。

 幸い、ことりは好き避けをしてしまうような状態でも律儀に大学には来ている。まして、ここから十日間くらいは試験やレポートのラッシュ。万が一にもあのことりが大学を休むことはない。

 家から連れ出すのは難しくても、大学に来たことりを強制的に遊びに連れて行ければひとまずはスタート地点に立てる。けど、まだ免許を持っていないから物理的に縛り上げて連れて行くのは現実的ではない——というより倫理的でもないから却下。

 もっと、心理的に行かざるを得ないと思わせられる何か。ヒントを求めてスマホのカレンダーを開くと、実現しなかった予定と叶いそうにない願望が犇いていた。思わず乾いた笑いが漏れる。

 その中の一つに、えも言われぬ懐かしさを感じて胸が締め付けられた。花火大会だ。

 一年前に河川敷の花火大会に行った時は、人混みで逸れないようにってことりから手を繋いでくれたんだっけ。あの時はまだ友達として見ていたから何も思わなかったけど……。

 感傷に浸っている間に、好き避けだと断定していたテンションがみるみる萎んでいく。もともと気分屋だったとは思うけど、ことりを好きだと自覚してからはますます情緒が安定しない。

「……花火、またことりと観たかったな……」

 未練がましく夢想する。

 けど、しばらくそうしていたら、思いがけず一つの儚い希望が明滅した。

 それを実現させるのに必要な条件を検索する。

 ……これなら、行けるかもしれない。

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