白雪姫と陽芽莉の秘め事④
その後は、ことりが料理する様子をカニバリズムみたいだと思った話をしてことりを笑わせ、ケーキを用意していなかったことに気づいて私たちらしいと笑い、お酒の席らしく罰ゲームありでリバーシを楽しんだ。
リバーシは二回対局した結果一勝一敗。罰ゲームは『渾身の変顔を披露』が私、『相手の一番好きなところを暴露』がことり。
変顔は顔中全ての筋肉に精一杯力を入れたけど、実際どんな顔をしていたのかは分からないしあんまり考えたくない。ちなみにことりには大ウケだった。ことりのに関しては、私のギャップが萌えると言っていた。牛の着ぐるみや変顔を引き合いに出して、クールっぽいのにノリが良いと。二十歳の方向性が決まった。
ことりの作ってくれた料理がどれも本当に美味しかったからワインも自然と進み、会話するのもいつにも増して楽しく感じた。これこそお酒の醍醐味だと、大人気分を早速満喫した。
食事の後片付けを二人で済ませた後は順番にシャワーを浴びて、牛の着ぐるみパジャマが暑くなったからお互い普通の寝巻に着替えた。
ただ、この「普通」というのがお互いの個性をよく表していて、私が着ているのは男の人が着ても違和感のなさそうな全身黒のぶかぶかジャージ。一方のことりはといえば、白くてふわふわもこもこしたパーカーに太ももの見えるピンクのショートパンツ。お泊まりは何回かしているから今となっては特に何も思わないけど、初めてお互いの寝巻を披露した時はジェンダー論まで持ち出して私たちにしては珍しく喧嘩に発展した。
そして私たちは今、そんな犬猿の仲にある寝巻に身を包みながら——しかしそれとは真逆の面持ちで——テーブルの横に座って向かい合っている。
手元には銀色のリボンで結ばれたネイビーのラッピング袋。その正面には日中お預けを食ったピンクのギフトバッグがことりの太ももの上にちょこんと座っている。
ことりが綺麗に正座しているのに気づいて、私もアヒル座りから少しお尻を浮かせて正座する。少し顔を上げると、ことりが照れ臭そうに顔を赤らめながら伏し目を右へ左へ彷徨わせていた。きっと私も、ことりから見たら似たような反応を示している。
しばらくの間そんな沈黙が二人を包み、お互いの視線がぶつかったのをきっかけに均衡が破れた。
「……改めて誕生日おめでと、陽芽莉」
こういう時思い切りが良いのはことりだ。顔はまだ少し桃色だけど声はふんわりとオレンジ色で、表情は聖母のように優しい。
「……うん。ありがとう」
寝た子を抱くようにそっと差し出されたプレゼントを、両手で包み込むように受け取って一度足元に座らせる。
「ことりも、おめでと。これからもよろしく」
絵に込めた気持ちとともに、膝の上に寝かせていたプレゼントをことりに渡す。
「ありがとう。こっちこそ」
大きくて少し重いそれを、ことりが嬉しそうに抱擁している。
「……開けてみても良い?」
さっきはことりが先だったから、今度は私から。
「……うん」
返事を待って、テーブルの上で徐に中身を取り出す。それは、花柄の包装紙で綺麗にラッピングされ、絵本のような形をしていた。
金色のシールを丁寧に剥がし、ことりの微かに乱れた呼吸を意識しながらゆっくりと包装紙を広げていく。
そうして現れたのは——
「……っ、」
声になり損なった感情のかけらが、喉から微かに漏れた。目頭が、じんわりと熱い。
そっと、虹を描くように、左手を右から左へ動かす。目の端に映ることりは何も言わず、ただじっとしている。顔は直視できないけど、きっと優しい表情を浮かべて見守っている。
見慣れた講義室、何度となく行ったカラオケ、落ち着いた雰囲気のお洒落なカフェ。
殺風景な私の部屋、花火を観に行った河川敷、きらきら眩い海。
広過ぎて驚いたことりの部屋、一面寒色の水族館、湯煙と紅葉が風情を感じさせる温泉街。
初めて綺麗だと思えたイルミネーション、初詣で賑わう神社、講義のレポートを書くために訪れた博物館。
そして、この前花見をした公園。
四季折々の、懐かしい景色。
それらを背景に、困ったり、ぼんやりしたり、恥じたり、ひきつったり、かっこつけたり、変顔したり、驚いたり、ちょっと拗ねたり。色々な表情の私たちがいて、けどほとんど笑っている。
そんなカラフルな写真たちが、小指サイズの本やハート型の窓、めくると大きくなるお城やくるくる回る観覧車など、様々な仕掛けとともに現れる。
——私たち二人の思い出を詰め込んだ、手作りのアルバム。
一つ一つ、思い出を噛み締めながらページを捲っていく。
思えば、何事にも関心を持てず何者も受け入れなかったかつての私には、こんな時間を、こんな存在を、想像することすらできなかった。
そんな何もなかった私に、ことりが全てを与えてくれた。
だから——
「……ほんとに、ありがとう」
最後まで心に焼き付けたところで、アルバムを優しく抱きしめる。静かに、涙が溢れないように瞑目する。
温かくなめらかな輝く粒子が、ふわりふわりと、瞬く間に私の身体を包んでいく。
幸せな時間を分かち合える、私にとってこの世界でたった一人のかけがえのない存在。
そんな、友達。それがことりだ。
——これで良い。そう心のどこかに潜んでいる想いに言い聞かせる。
「……うん。……私も、開けて良い?」
未だ顔を合わせられず、遠慮がちな声だけが聞こえる。
「……ちょっと待って。心の準備したい」
言いながら、アルバムを優しくテーブルに置く。
何日もかけて辿り着いた絵を思い出す。私が満足できるクオリティには仕上げたけど。
大きく深呼吸する。果たしてことりは、そんな半ば自己満足の絵を喜んでくれるのか。
もう一度深呼吸して顔を上げたら、ことりと目が合った。思い浮かべていた通りの優しい表情で私を見守っている。
「うん、もう大丈夫」
絶対に大丈夫だ。だって、ことりだから。
ことりがゆっくりと頷く。
袋をテーブルの上に置いてシュルシュルとリボンを解き、徐に袋の口を開く。
袋の中に忍び込んだ右手がその中身を少し浮かせ、左手が袋を脱がせていく。明るい木目調の額縁が徐々に露わになっていき、ついにその正体を現した。
鴎の鳴き声が聞こえてきそうな、晴れ渡る空ときらきら眩い海。俯瞰すると雪のような白さでありながら、目を凝らすと仄かに多彩な色を写し出す、繊細なニュアンスで描かれたことり。そんなことりと私が五本の椰子の木を背景に肩を組んで、笑い声が聞こえてきそうなくらい生き生きと、全く同じ屈託のない笑みを浮かべている。
その絵をテーブルに置き、ことりが静かに眺める。それを、息を殺して見守る。
その沈黙によって、私たちまで絵になったような感覚に包まれる。
ことりの横顔を隠しているアッシュグレーの長髪が——
「……っ、」
——勢いよくふわりと宙に舞ったかと思うと——
「陽芽莉っ……」
「こ、とり……?」
——その時にはもう、ことりに息が止まるほど強く抱きしめられていた。
「……分からないの。自分でも分からないけど、こうしたくて……」
右耳に、小刻みに震えたことりの息遣いを感じる。シャンプーで私と同じ匂いになった滑らかな髪が、私の口元を覆っている。
……これは、謝意の表現であって、私の気持ちとは違う。辛うじて残っている理性でそう自分に言い聞かせ、昂る想いを抑える。
「……うん」
行き場を失っていた両手で、力なくことりの背中に触れる。
その感触を確かめるように、ことりが少し身じろぎした。
「……お願い、もっと……。もっと、ぎゅってして……」
え……。
私の知らないことりに、脆弱な理性がたじろいだ。
想うままに、両腕で強く、ことりを抱きしめる。私の心臓に、ことりの鼓動を感じる。
「……痛くない?」
「……うん、——」
私の背中を撫でるように、ことりが手の位置を少しずらした。
「——嬉しい」
ああ——
心の底に沈んでいたどろどろの赤黒い想いが真っ赤に滾り、身体中にさらさらと流れ出す。
——私、ことりが好きだ。
私の想いが決定的に恋情となり、私の存在理由が不可逆的にことりという存在になったのだと、そう確信した。
目の端に、二人のアルバムが映っている。移ろいゆく季節の中で、変わらないものは何一つとして存在せず、私とことりもまたその流れに翻弄される。そうした時間の中で、ことりに芽生えた気持ちの正体はまだ分からない。
けど。
視界の真ん中に、笑顔の私たちを捉える。私はやっぱり、ずっとああやってことりと笑っていたい。仮面を被った紛い物ではなく、晴れ渡る空にすら恥じることのない、ありのままの笑顔で。
だから、この恋はまだ——
ベッドで眠ることりに被さるようにして、隙のない、神聖さすら感じさせる寝顔を拝む。ベッドにほんのりと残っている私の体温が、手のひらを柔らかく包んだ。
窓から忍び込んだ優しい日差しが七色の風船に命を灯し、私たちの空間を幻想的な風景に彩る。
眩く照らされたことりの寝顔は、もう、どうしようもないくらいに友達のものじゃなくて。
「……ほんとに、白雪姫みたい……」
けど、私はことりの王子様になれない。
……今はまだ。
むしろ、ことりとの友情を殺す魔女になってしまうかもしれない。
……それでも。
未来を手に入れる決意と、過去を失う覚悟を、二枚の唇に込める。
神々しさにひれ伏すような姿勢で、しかし、それを私は冒涜する。
「……っ、ん……」
希望に満ち、欲望を孕んだ、この傲慢な口付けは、
——私だけの、秘め事だ。
あの日。
陽芽莉の描いた絵を見た瞬間、いっぱい時間をかけて描いてくれたのが、点と点が繋がったみたいに分かった。だって、誕生会の話が出て以来、陽芽莉の様子がずっとおかしかったから。
話しかけてもどこか上の空だったり、普段は要領がいいのに課題を失念したり、曜日を間違えて別の講義室に行ったり。シャーペンの持ち方が変に見えたのも、指にマメができていたせいなのかな。
それだけの労力と、ひけらかしても良さそうなくらいすごい才能を、私だけのために使ってくれたのが本当に嬉しかった。
でも、あの時陽芽莉を抱きしめたいと思わせたのは、それとは別の気持ちだった。
間違いなく、恋情だった。
私が、陽芽莉に恋をした。
正確には、もっと前から好きだったのだと思う。でも、あの時初めてその気持ちに気づいた。そうして陽芽莉の愛を、心の底から求めた。求めてしまった。
当然、そんな気持ちのまま陽芽莉と同じベッドでなんて眠れる訳もなくて、あの日は夜通し悶々として結局寝付けなかった。だからあの朝、陽芽莉が私にキスをしようとしたのは気配で分かった。自然に起きたように振舞えば、拒むことだってできた。
でも、そうしなかったのは、身勝手だけど私の中でけじめを付けたかったから。そのキスで、私の恋を終わりにしたかったから。
だから、陽芽莉がしてくれたあのキスは、言わば毒林檎だった。
私の、美し過ぎる恋情を殺すための。
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