第二章 白雪姫と陽芽莉の秘め事
白雪姫と陽芽莉の秘め事①
年中組の頃。家族三人関東でアパート暮らしをしていた頃のこと。初夏に入ったあたりから、私はアパートの目と鼻の先にある公園によく一人で遊びに行っていた。気まぐれにブランコに乗ったり、砂場遊びをしたり、蟻の巣を埋めてみたり。
幼稚園でもそんな調子だったから、友達なんて全くできなかった。物心ついた頃からぼっち街道まっしぐらとは、我ながら居た堪れない。
けどそんな引っ込み思案な私にも、一人だけ心を許せる男の子がいた。公園で遊んでいると、ふらりと現れてはかけっこをしたりかくれんぼをしたりして遊んでくれる、公園限定の友達。今にして思えば、いつ来てくれるかも分からないその子に会いたくて公園に行っていたのだと思う。
そうして夏になったある日。いつも底抜けに明るいのに、すごく真面目な顔をしてその子が切り出した。
「……オレ、ひめりのことすき」
「ひめもすきだよ?」
「そうじゃなくって! けっこん、したいってこと!」
「……うん。ひめも、けっこんしたい」
「ほんと! ほんとの、ほんとに?」
「ひめうそつかないもん」
「じゃありょうおもい! オレたち、りょうおもいだよ!」
「りょうおもい」
「そう! すきなのが、いっしょってこと! これからもよろしくな、ひめり!」
「うん、よろしくね、——
——あの子の名前は、確か。そうだ、『俊足』のしゅんくん。かけっこが早くて、いつも『俊足』のシューズを自慢していたっけ。
夏の終わりに引っ越すことは前もって分かっていたけど、何となく言い出すのが怖くて結局別れも告げられないまま離れ離れになってしまった。あの子は今頃どこで何をしているのやら。未だに『俊足』を履いていたりして。
けど、なぜ今になってそんな在りし日の夢を見たのか。半分眠った状態でも分かる。原因はことりだ。ことりに対して抱いているのが、友情なのか、恋情なのか。より正確に言えば、ほとんど恋情のように思えてならないけど何とか友情だと思える根拠はないか。そういうことばかりを悶々と考えているから、あんな夢を見たのだ。
そしてまたぐるぐると考え出す。あれが私史上唯一の恋であり統計上私の恋愛対象は百パーセント異性だからことりは恋愛対象ではないと考えたいけどことりと間接キスをした日からというものふとした時にことりの唇を意識してしまう上に最近はことりが誰かと交際し出したらと考えて気が気でなくなることも往々にしてあるからこれはもはや恋と呼ばれるべきものなのではないかと思うけど元々は異性が好きだったはずだし……と、寝ぼけながら何度か堂々巡りを繰り返したところで。
充満した絵の具の匂いに咽せてはっとする。
そんな場合じゃない。
ベッドから飛び起きた勢いそのままに、散乱したくしゃくしゃの画用紙を気にも留めず部屋の端から端へ移動する。椅子に腰掛け、暗いウッド調の机と向かい合う。
机の中央には、A3サイズの木製パネルに水張りして乾かしておいた水彩画用紙。左側には長細いパレットと丸い筆洗いが無造作に置かれ、その奥に鉛筆と大小様々な水彩筆が汚れた雑巾を下敷きにして並ぶ。
ここ一週間私は、普段気まぐれにやっている日雇いのバイトもせず、睡眠時間も削り、空いた時間ここでひたすら水彩画を描いている。
なぜ私の生活感のなかったワンルームが、突如として熱心な素人画家のアトリエと化したか。それは、花見の時にことりとした約束に端を発する。
花見をしながらお互いの星座の話になった時。ことりから、今年は二人の誕生会をしようという案が出た。私の誕生日は五月十四日で、ことりはその一週間後の五月二十一日。ちょうど二十歳になるからお酒も飲みたいねということで、ことりが誕生日を迎えてから最初の土曜日である五月二十三日に、私の家で執り行うことに決定した——ちなみに私たちがお互いの誕生日を知ったのは去年のクリスマス。キリストの誕生日がどうのという話で思い出したように尋ねるあたりお互い変わっている。
当然、誕生日にはプレゼントを渡すものだし、何より私がそうしたかった。ここまでは良い。
問題は、そうしたいという気持ちが、真っ赤に熱を帯びていたことだ。その熱は、相手が欲しがりそうなものをあげて普通に喜んでもらうという、ある種の常識的な感覚をいとも容易くぐにゃりと捻じ曲げた。そんな無機質でありふれたものは、私たちには相応しくないと。もっと私たちらしい、特別で心の籠ったものこそがそれに値すると。
だから、ショッピングモールを隅から隅まで物色してみたけど結局徒労に終わった。そうして肉体的にも精神的にもくたくたに疲労し、モール内のソファーに深く沈み込んで考える。私たちらしさとは、一体何だろうと。
途方に暮れながらメッセージアプリの共有アルバムを眺めると、ことりが事あるごとに撮っては載せてくれている写真で溢れていた。
そんな、きらきらと光る思い出たちに救われたような気分に浸っていると——
「あれ、今の……」
——一際輝くものが見えた気がして、スマホの画面を上から下へ小気味よくスキップしていた親指が踵を返す。
…………見つけた。
……これが。
これこそが。私たちらしさだ。
心臓のあたりでじっと瞑目していた真っ赤な熱が、この時を待っていたかのように全身を駆け巡る。枯れかけていた心が、身体が、その生命力に咲き乱れる。
これを絵にして、ことりにプレゼントしよう。幸い小学生の時も中学生の時も、県のコンクールで入賞者の常連だった。絵心はあるはず。
形にしたい絵のイメージを頭の中で鮮明に映し出す。私はともかく、ことりの透明感を表現するには油絵よりも水彩画がしっくりくる。水彩画で人物を描いたことはないけど、やってできないことはないはずだ。私ならやれる。いや、やってみせる。
そうしてその場で必要なものを調べて一通りのものを買いに走り、動画サイトを通して目についたノウハウを頭に叩き込んだ。
誕生会までは二週間ある。調べた限り、水彩画は乾いたりして色が濁らないよう時間をかけずに描くものらしく、確かに動画サイトで見た動画のほとんどは所要時間が数時間程度だった。なら練習する期間を加味しても十分間に合うはず——
——と、考えていたのがちょうど一週間前。
今日は五月十六日、土曜日。誕生会の日まで残り一週間。
パレットに所々乾いて並ぶ透明水彩絵の具は色相環の順に並んでいて、黄色い筆洗いには絵の具を溶いたり洗ったりするための水と、色として白を表現するための透明な水とで満たされている。それっぽさは、醸し出されている。
けど、現状描けているのは部屋中に所狭しと転がっている紛い物のみ。
誤算はいくつかあった。単純に絵を描くのが四年ぶりだったということ。賞をもらっていた時の塗り方は点塗りがメインで、水彩画らしい伸びのある塗り方はあまり得意じゃなかったこと。諸々のテクニックは知っていることとできることとの間に大きな壁があり、付け焼き刃の状態を脱するのに時間がかかったこと。
一応、これらの問題は努力の甲斐あって概ねクリアしている。
ただ、それでもなお残り一週間での完成を危ういものにさせる、現状唯一にして最大の壁があった。
私の理想だ。
こういうものを描きたいというイメージを、なまじ脳内では鮮明に思い描けているばかりに現実の絵が霞む。理想が高すぎて、あと何枚の贋作を積み重ねたらそこに届くのか分からない。
自己満足なのは分かっている。けどそれでも、私がまっすぐな気持ちで渡すものにこそ、ことりは心の底から喜んでくれると思うから。だから、今はただ描くだけだ。
頬をぴしゃんと叩き、雑念を振り払う。
水張りされた細目の水彩画用紙を横向きにして、鉛筆でうっすらと下書きしていく。最初はスマホで表示した写真を右に並べていたけど、何十枚と描いているうちに見ずに描くようになった。その方が、ことりの内面まで含めた私の中のイメージをより正確に写し出せるから。
下書きを終え、鉛筆から大きめの水彩筆に持ち替える。それに水をたっぷり含ませ、ほとんど透明に近い状態に溶いた絵の具を大胆に塗っていく。それが乾く前に少し濃く溶いた絵の具を重ねていき、陰影を意識しつつ全体に大まかな色をつける。
そうして、ぼんやりと全体像が浮かんできたあたりで少し細い筆に持ち替え、パーツの輪郭を出す。それが終わったら今度はさらに細い筆に持ち替えて……、ということを何度も繰り返し、徐々に細部まではっきりさせていく。
けど——
「駄目だ……」
——いつも、同じところで躓く。
ことりの色だ。
私の中のことりのイメージは、透明だ。ただ、それは色がないという意味ではなくて、あらゆる色をことりを通して感じることができるというニュアンス。だから私の描きたい絵は、そんな観念的な色合いと、写実的なことりらしさとを両立したような絵だ。
けど目の前のことりは透明感のある肌色の域を出ず、どこまでも写実的だ。昨日、一昨日と二日連続で観念的を通り越して禍々しくなった反動で、今回はかえって写実的になり過ぎた。
それでも、めげずにひたすら描き続ける。水張りして、乾くまで仮眠をとって、描く。ボツ。水張りして、仮眠をとって、描く。土日を通して、それを延々と繰り返した。けど、結局思わしいものはできなかった。
それからは、試行錯誤の日々だった。
月曜日。光の部分を赤、橙、黄のグラデーション、影の部分を青、藍、紫のグラデーションで表現して全体として虹のような色味を出した。けどそれぞれの色の主張が激しくてことりらしさを損なった。ボツ。
火曜日。前日の反省を生かしてそれぞれ薄い色にしてみた。けど今度はカラフルさを損なって本末転倒だった。ボツ。
水曜日。肌全体を薄く溶いた赤で湿らせた後、スパッタリングでカラフルな色をあちこちに飛ばし、薄く広げた。色合いはイメージ通りだけど立体感がなくなった。ボツ。
木曜日。火曜日の方法で薄く立体感を出した後、それが乾く前に水曜日と同じ要領でスパッタリングをした。それまでに培った自身の力量と試行錯誤を踏まえて、この方法なら絶対に上手くいくという確信があった。
心臓が、はち切れんばかりにどくどくと躍る。
脇目も振らず描き続けて、ようやく完成した。頭の中にあったものが、形を得た。
「これだ……」
……やりきった。私もまんざら捨てたものではない。
達成感に打ち震え、遅れてやってきた安堵感に包まれる。同時に、それまで万丈の理想によって堰き止められていた眠気や疲れがどっと押し寄せ、流されるようにベッドに飛び込んで泥のように眠った。
金曜日、大学から帰宅後。
十分に乾いた絵を、木製パネルからカッターで綺麗に剥がす。それをあらかじめ買っておいた額縁に入れて丁寧にラッピングし、晴れてことりへの誕生日プレゼントが完成した。
そのための礎となった贋作たちをゴミ袋に詰め込み、二週間で荒み切った部屋を隈なく掃除する。画材はことりに見つからないようにがらんどうのクローゼットに押し込む。元々物が少ないおかげでそこまで時間はかからなかった。
万事順調に済ませて寝ようとしたところで、メッセージの通知が来ていることに気付く。
ことりからだ。
『明日はたのしもー!』というメッセージと、デフォルメされた牛が笑顔でモーと鳴いているスタンプ。私もにこやかな牛のスタンプを返す。
大学で何度も言っていたのにと、ベッドの上にぺたんと座りながら思わず笑みを溢す。
けど、本当に楽しみだ。
見渡せば、普段の落ち着きを取り戻した生活感のないワンルーム。
このまっさらなパレットで、私とことりは明日をどう彩るだろう。そう思いを馳せて眠りについた。
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