黒崎陽芽莉と白雪ことり③

 二限の講義が終わり、昼休み。

 飯だ飯だと叫びながら講義室を飛び出していく男子の声や女子の冷ややかな笑い声、質感もテンポもバラバラな足音なんかが実に賑やかで講義中の静けさが嘘みたいだ。机に耳を張り付けるようにして聞いているから、どれも普段の音と違うように感じられて何だか面白い。

 隣では、ことりが講義の板書をちょうど終えたところだった。進むのが速い講義だから私含め多くの学生が板書を諦めているのに、そういうところはなんだかんだ真面目だなぁと感心する。

「九十分の講義は長すぎるぽよ」

 土日明け最初の講義で必ず言う台詞だ。語尾は毎回変える。ことりがその語尾から適当にキャラクターの名前を連想するという件が、一年生のいつからか月曜日の恒例行事となっていた。

「今日は月曜日かー」

 ペンやらノートやらをキャンバス地のトートバッグにしまいながら、ことりが素気なく返す。

「ごめんって」

 一年生の終わり頃には、ことりのネーミングは機械的に語尾を反復して「侍」をつけるだけになっていた。今回なら『ぽよぽよ侍』。

 だから、一年生最後の月曜日、ほんの出来心で語尾を「ちん」にしてみたのだった。ことりの口からあんなに珍妙な言葉が飛び出すのは最初で最後だったに違いない。

 とはいえことりも本気で怒っているわけではないから、すぐにいつもの人懐こい笑みを浮かべる。今朝は私が恵比寿様なんて言われたけど、普段の表情からいえば間違いなくその言葉はことりにこそ相応しい。

 トートバッグを肩にかけて、ことりがゆらりと立ち上がる。フローラルな匂いに鼻腔を蕩かす。

 私もスライムの如く机に張り付かせていた上体を起こし、勉強道具が入りっぱなしのトートバッグをぶら下げてことりに倣う。

 窓からさす日差しで暖かい廊下を進みながら、ことりが徐に口を開く。

「陽芽莉、今日はテイクアウトの気分でしょ」

「うん」

「晴れてるもんね」

 全部見透かされていてきまりが悪いような嬉しいような。

 ことりは事あるごとに私の内面を言い当てる。気分屋で見通しが立ちにくい性格をしていると思うのだけど、ひょっとして私単純なのか。

 まあ、大学で昼食を摂る時は学食か生協運営のコンビニ、テイクアウトショップの三択。コンビニは高くつくという理由でお互いあまり使いたがらないから、実質二択だった。

 病院の売店みたいなテイクアウトショップに着くと、保温ショーケースの上中下段にそれぞれロコモコ丼、キムチビビンバ丼、鶏そぼろたまご丼が陳列されていた。三つともそこそこ好きだから、今度は間違いなく三択だ。

 視線を上下に動かしてしばし逡巡。

 ロコモコ丼かなぁ。

「ロコモコ丼でしょ」

 三択もあっさり的中。手強い。

「……今日は鶏そぼろの気分かな」

「じゃあ私ロコモコにしよっと」

 我ながら天邪鬼だなぁと少し後悔する。自覚はあるのに学習しないところまで含めて私の悪癖だ。

 購入した丼型の弁当を抱え、ハイキングコースにもなっている遊歩道を歩いていく。

 こういう時、私たちはお互い無言になることが多いけど、私はその時間が好きだったりする。何というか、感覚とか感情みたいに曖昧なものは、言葉として出てくるまでの間にその姿を変えてしまうものだと思うから。だからこそ、他人のそれには言葉を通してでは届かない。

 今、こうして私の隣で歩いていることりは、何を感じ、何を思っているのか。そういうことを考えて、存在そのものと触れ合う。私にとって、これはそのための時間だ。

 しばらく歩いていくと、市民プールくらい大きな池が見えてきた。そこを覆うようにウッドデッキが張り巡らされていて、そのあちこちに椅子付きのガーデンテーブルが設置されている。講義棟から離れているおかげでこの場所はほとんど無用の長物と化していて、普段から利用する物好きは私たちくらい。その秘密の庭みたいな雰囲気が私はたまらなく好きだった。

 そこに踏み入れた私たちの足が、コツコツとリズミカルにウッドデッキを鳴らす。透明な水面に映る小さな太陽が、それを受けてゆらゆら楽しそうに踊った。

 木陰に位置するテーブルに二人で向かい合って陣取る。微かに揺れている木漏れ日模様が木製のガーデンテーブルに似つかわしい。

「いただきまーす」

 声こそ子どものように無邪気に聞こえたけど、ピンと背筋を張ってぴたりと両手を合わせる姿には育ちの良さが染み付いていた。私もそれに倣っていただきますをする。

 鶏そぼろ丼を頬張ろうとしたら、ことりが唐突に立ち上がった。スプーンと丼を持ったまま、さも当然のように私の左隣に歩み寄ってくる。

 目を丸くして成り行きを見守っていると、ことりがスプーンを持った右手で私の座っている長方形の椅子を指した。白いほっぺがリスみたいに可愛らしく膨らんでいる。

「座るの?」

「ん」

 ことりが飲み込んで頷く。

 戸惑いながらも右側に詰めて、仲良く並んで座る。対照的に向かいの椅子がもの寂しく見える。

 上半身をことりの方に向けると、ご飯とハンバーグを載せたスプーンが目の前に浮いていた。

「ほんとはこっちが良かったんでしょ?」

「うそ、なんで、」

 驚きでその後の言葉が続かない。

「初歩的なことだよ、あっ……ワトソンくん」

 手振りでスプーンが傾いてしまって、せっかくのホームズが台無しだった。落ちた先が丼の上なのは不幸中の幸いだけど。

 ことりがスプーンを丼に置いて、「こほん」と口で言った。出会った当初に比べて、最近のことりは随分ふわふわ系に寄っている気がする。そして嫌悪していたはずのそれを好ましく思っている私にも、何かしら変化が生じているのかなとふと思った。

「人間の視線ってゼットに動くんだって」

「ゼット?」

「そう、ゼット」

 言いながら、ことりが私たちの間に大きくZを書く。向かい合っているのに私から見てZになるようにしてくれる気遣いがことりらしい。

「左から右、上から下に動くの。だから一般的に左右だと右、上下だと下で視線が止まって、そこにあるものが選ばれやすい」

 流石は心理学専攻、と他人事のように納得しかけたけど、少し引っかかった。

「ロコモコ丼って一番下だったっけ」

「ううん。上からロコモコ、ビビンバ、鶏そぼろ」

 記憶力には感心するけど、辻褄が合わない。

「さっきの理屈だと鶏そぼろじゃないの?」

 ことりちゃんはうっかりやさんだからなぁ、と揶揄おうと思ったけどどうにもそうではないらしい。ことりが意味ありげな笑みを浮かべている。

「陽芽莉は一番下で止まった後、また上に戻るの。陽芽莉ちゃんは天邪鬼さんだから」

「……なるほど」

 本当に心が読まれているわけではあるまいな。

「あと、私もほんとは鶏そぼろが良かったんだよね」

 ことりがくすぐったそうに笑う。

 ならお互いの買ったものを交換すれば良いとは、考えはしても言葉にはしたくなかった。

「まあ、そういうわけだから……」

 ことりが改めてご飯とハンバーグを掬い、体を屈めてこちらに近づく。少し上にあったことりの顔が私と同じ高さになった。

 ことりの熱を帯びた瞳に私が映り、ことりの繊細な息遣いを肌に感じる。普段ここまで近づくことがないからか、ことりがまるで別人のように見える。

 ことりがすでに一口食べていたことを思い出して、その唇に注意が向く。さくらんぼみたいに艶があって甘そうな小さな唇。

 じわじわと気が遠くなっていく。

 ことりは、こんなに艶かしかったっけ。

 鼓動が速い。

 ことりの目がかわいい。

 ことりの髪を撫でたい。

 ことりの鼻に触れたい。

 ことりと唇を重ねたい。

 ことりと………………。

 私たちは友達なのだという色眼鏡のおかげで普段は抱かない感情が、堰を切ったように脳内を駆け巡る。

 結局、欲望を押し殺すのに必死で、食べたかったはずのロコモコ丼の味は分からず終いだった。

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