出立

「あの子は、先ほど連れて行かれましたよ」


「そうですか。教えてくださってありがとうございます」


 本格的な夏の時期を迎えたその日は朝からとても静かだった。だから嫌な予感はしていたけど、補助員さんの声がささやかな夢の終わりを告げる。


 せめて最期に一度触れさせてほしかった。けれど、息を引き取った後は速やかに死体を加工しなければならないらしく、願いを聞いてもらうことはできなかった。


『処理』されてしまえば、骨のひとかけらも残らない。見知らぬ誰かの永遠のために、ぼくらは存在した事実ごと砕かれてしまう。ぼくも、彼女も、確かにここに在ったのに。


 部屋に一人にされると、急に寂しさがこみあげてくる。視力を失ってしまっても、まぶたの裏に浮かぶのは彼女の顔ばかりだった。


 こうして同じ運命に乗り合わせていなければ、きっと出会うこともなかった人。ただ傷を舐め合うだけの関係だったかもしれないけれど、人生の最後にあたたかな時間をくれた彼女を、ぼくは心の底から愛していた。


 弔いをと思ったけど、ぼくは彼女に手向けられるものなんて何も持っていなかった。それでも何かをしなければと、彼女が歌っていた歌をできるだけたくさん歌い、見送ることにした。


 かつての習い事漬けの日々に生まれて初めて感謝した。一度聞けば覚えられる能力はその時に養われたものだからだ。


 ありったけの力を振り絞ると、なんとか立つことができた。一歩、また一歩。二人で並んだ長椅子を目指したけど、目が見えなくなっているのでたやすいことではなかった。手探りでドアを開いたところで足の力が抜けてしまい、その場にくずおれてしまった。


 それでも諦めずに歌い始めたけど、思うように声が出てくれない。彼女に捧げる大切な歌なのに、意思に反してどんどん音程がずれていき、息を吸うたびに胸が悲鳴を上げた。情けなさで涙があふれてきて、喉を何度も詰まらせる。


 降り注ぐ夏の日差しは確かにまぶしいのに、なぜかとても冷たかった。


 いったいどのくらいの時間が経って、何曲歌えたのだろう。耳が遠くなってしまって、意識もしだいに暗く濁っていく…………。


 そうして、ぼくは底のない眠りに落ちていった。

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