救世主
ブチン―――と中で何かが途切れる音がした。それは物理的にではなく精神的なものだった。音は右腕を起点とし、次第に体中のあちこちに響き渡っていた。痛いはずなのに痛くない。熱いのに寒い、死にたいのに死にたくない。そんな、訳の分からない感情が右腕から通じて、自分とは違う何者かによって襲ってくる。思考はおろか、ただただそこに立っていることさえ、気持ち悪いと思えた。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
自分とは思えない発狂に自分でも驚いた。まだこんな声出せるんだと、変に高揚してしまった。もう自分でも何なのかが分からない、なんで苦笑してるんだ。痛みに耐え切れず、遂には膝をついてしまう。
「ァー.........」
あぁ、本当に人がいなくてよかった。歩道に膝をつき、よだれを溢れんばかりに垂らすこの姿を誰かに見られていたら色々と終わっていた。だが、そんな僅かな幸運と呼べるものに縋ったのは一瞬だけ。だんだんと視界がぼやけていいく、呼吸すらまともに出来ていない。必死になって立ち上がろうとするも、生まれたての小鹿のように痛みのせいで足が震えて、立つことはおろか、膝をついている事すら困難になってきた。あの人達が通り過ぎただけなのに、なんで...
「――――っ.....」
この痛みはあの2年半前の火事を連想させる。一酸化炭素を吸うことで頭痛、吐き気、炎によって焼け爛れていく右腕。思い出したら余計に気持ち悪くなってきやがった。今にも吐瀉物を出しかねない口を左手で覆う。左腕を口に押えた反動で、遂に膝が役目を終えたようにして折れてしまった。気を失いそうになりながらも、右腕を庇うようにして、左腕の方に倒れた。すまない、吐瀉物を出さない役目と衝撃を和らげるためのクッションとして扱ってしまって。意識が飛びそうになりながらも体の中を通して左腕に謝った。倒れた体はもう起き上がることはない。助けを呼ぶ声も、空を仰いで命乞いすることだってできやしない。痛みに悶える声は振り絞れずに、やがてそれが涙となる。目尻から滴る涙が顔を伝って右腕に触れるたびに痛みが増す。それを理解した時に、もっと涙が溢れてしまった。なんで、なんで――って、涙をぬぐうことすら許されないこの状況に苛立つばかり。あぁ、今気を失えばどんなに楽になれるのだろうか.....こんな死に際のような時に何を考えているのだろう。
「―――ぉ~い」
「―――ょうぶですか」
横たわってからたった数秒、先程通りがかった緋色の髪をした男と水色の髪の女は、俺の発狂で気づいたのか、急ぎ足でこちらへと駆け寄ってきた。男はこっちに向かって何かを喋っているが、右腕を永遠とぶっとい針で刺されるような痛みのせいで、正直何を言っているのか全く聞き取れない。取り敢えず意識が飛ぶ前にお礼でもいわなきゃと、口を開けるが、声帯にまで焼けるような痛みが走って、声が出せない。これじゃまるで助けられることを自ら拒んでいるようなものじゃないか。
「――――――ぃ」
「――――――ぁ~」
いたいいたいいたいいたいいたいたいいたいいたいいたいいたいいたいたい。その人達が一歩また一歩と俺に近づくため走っているのか、一歩ずつ噛みしめる大地の揺れの響きが、全身を通して伝わっていき、揺れたという情報よりも先に痛みが優先される。その響きをどうしても逃れられないかと、体の触覚を遮断するため少し起き上がろうとするが、だめだ、もう全身の筋肉までもが硬直してやがる。
「大丈夫か!、少年」
その人物達が俺の元に辿り着く数秒の間に、オレはもう俺ではなくなっていた。右腕から起因した痛みは拷問そのもの。過去のフラッシュバックによる頭痛、吐き気は、精神をも蝕む。四肢なども自分のものではない感じで、乖離しているように感じる。
「どこか、痛いのか」
流石にこれだけの距離となれば音は聞き取れると安心している最中に、男は俺の全身をくまなくチェックするが、触られている感覚などもうありはしない。男の視認では異常がないのか、痛みは何処から?と、死に体にそう問うてきた。
「―――――――――――う........で......」
声帯を突き刺すような痛みを押しのけ、僅かに動く声帯筋と喉頭筋を使って、搾りかすのような声を出す。自分でも驚いたさ、何だこの声は、本当に俺の声なのかって、また涙を流しそうになったが、涙腺の機能までも壊れてしまったのか、もう涙はでない。あぁ、もうこれ以上の行動はできない。これ以上何か行動をとってしまえば、間違いなく後遺症が残ると、痛みによって亀裂が入った頭で思考する。
「腕か、見せてみろ――――これは.....」
良かった気づいてくれた。無駄じゃなかったんだ俺の嘆きは、と安堵した瞬間に、意識が段々と遠のいていく。あぁ、もういいよな、頑張ったよな俺。己を鼓舞するために称賛の声を体の中に反響させるが、臓器達や血管からの反応は帰ってこない。やれやれ困ったもんだと、自分の子供の用に可愛がる。うん、これ以上意識を保つのはどうやら無理そう。
「ルちゃ....ん....悪い......が.....」
ほら、こんな至近距離でも、声が聞こえないや。どうやら鼓膜の方も完全にシャットアウトする準備に入っているらしい。
「...........け..............」
はは、やっぱりこの痛みには慣れないな。今や一部分を除いて全く痛みを感じないこの体。腐っても人間だと分からせてくれるのは唯一今でも激痛が走る右腕。なんで、こんな事になったんだろう。自重によって閉じようとする瞼を、硬直していた筋肉を使って無理やり動かす。後遺症が残るとさっきまで思考していた頭は何処えやら、そんな事お構いなしに筋肉を使ったが、この際どうでもいいやと自暴自棄になっていた。目を通じて入ってくる景色は何もかもがぼやけていた。時間が経ってきたことをいいことに出てきた日光によって、1秒間しか瞼を開けることは出来なかった。視界がぼやけて見える。たったそれだけでも、今の俺には大きな収穫だと、暗闇の中で”よし”と叫ぶ。きっと予兆だったんだ、一週間前から徐々に痛くなり始めたあの時から今に至るまで、へへ、警告されてたのに病院行かなかった俺が悪いよなそりゃ......その言葉を最後に全ての触覚を遮断しようと、瞼を閉じた。
「はい、もう大丈夫だよ」
機能を失った耳から、女の人の声が聞こえる。
「え?」
何も痛くない、何も気持ち悪くない、何もおかしくない。横たわる自分を見て違和感を覚えてしまうほど、現状を把握するのが難しい。必死に脳へと情報を伝えようとする役目の耳や目などもいきなりの回復に動揺しているのか、意識を持ったように痙攣している。俺は慌てて起き上がろうとした所、女の人の手がそれを阻害するが如く俺の右腕に添えられていた。でも、その手は今添えられていたものじゃない。俺が今こうしている前から添えられていたものに違いない。感覚は無かったが、もしかしてその人が俺の腕に手を当てた事で、治ったのか?と、上手く機能していない脳に直接問いかける。あぁ、瞼を閉じる暇もなく痛みが一瞬にしてなくなった。なくなったのだ、少しずつ和らいでいくとかじゃなくて、最初からそれが無かったかのように感じたと、先程までの右腕の部分のシャツをたくし上げ、見た目の異常がないかと確認する。
「嘘だろ....」
だが、何も変化はなかった。あるのは右腕にびっしりとこびりついた火傷痕だけ。その痛々しい見た目から考えることが出来ない、今のこの現状。
「嘘じゃないよ。でも、その傷跡までは直せなかったよごめんね」
自分の実力不足と言わんばかりに、かがみながら”ごめんね”とお辞儀をする女性。
「いえいえとんでもない、本当に助かりました。ありがとうございます。でもどうやって、あんなに痛かったのに」
この二人がいなかったら俺は確実にここでくたばっていただろう。そんな命の恩人に対してただこうやって頭を下げて感謝する事しかできない自分に嫌気がさす。
「そ・れ・は・秘密だよ」
その女の人は指を自分の唇に当てながら可愛らしい口調で言ってきた。俺も男の端くれ、その女の人の可愛い仕草に、嘔吐を防ぐために覆っていた左手は、慌てて赤らめているであろう顔全体を覆っていた。
「少年もう大丈夫か?」
動揺しながら自分の顔を抑えていると、女の人の声ではなく、最初に声を掛けてくれた男の人の声が聞こえる。
「はい、おかげさまで。ありがとうございます」
数秒前では考えれなく、その緩急に一番驚いてるのは俺だ。こうして会話出来ていること自体の奇跡。俺はもう二人の事を命の恩人としか思えなく、覆う左手を顔から外し、ありのままの感謝の言葉を男の人に伝える。改めて二人の事を直視すると、すれ違いざまに見た時の印象とはまるで違うように見えた。最初に見た時には、髪の毛が派手だなといった印象しか持たなかったけれど、上体を少し起こした状態で見るその二人は、どこか........
「それなら良かった。あんまり無茶しちゃだめだぞ少年」
男は俺の右腕の事を労わってのことなのか、無理はするなとだけ言っている。確かに第三者から見ればこれは過労、右腕の酷使とかそこら辺の事で発症してしまったと思われても仕方ないが、生憎そういった理由は俺にはない。
「はい、なるべく気をつけます」
でも、理由なんてどうでもいい。右腕の激痛から救った緋色の髪をした男と、水色の髪をした女の人二人が、誰もいない早朝に見捨てず助けてくれたのだと、それだけがただただ嬉しい。その事を思い、俺はただ言われるがままに”はい”と返事をする。
「素直でよろしい、そういう奴は俺大好きだぞ」
緋色の髪を縦に揺らしながら、面倒見の良いお姉さんのような事を言ってきた。
「――――――――って、時間が」
急にふと、思い出したかのように、ポケットからスマホを取り出し時間を確認する。痛みの時間は数分と長くはなく、それを裏付けるようにスマホの時計の数字も全然進んではいないのだが、こんな早朝に少しでも帰ってくるのが遅くなると、凜に変な心配させてしまう。
「どうしたの、まだどこか痛い?」
スマホとにらめっこする俺に対し、女の人はかがんでいる体勢を崩し、こちらに歩み寄る。
「いえいえ、別に痛いとかそういうのじゃありませんけど、実はおつかいを頼まれてまして」
「そうなんだ、朝の早くからご苦労様。少しは休憩してほしい所だけど、早くおつかいを済ませて、家に帰った方が体調的にもいいんじゃない?」
「そうですね――――」
女の人の言葉を素直に脳に浸透させ、中途半端だった上体を完全に起こし立ち上がる。
「その.....ありがとうございました。またどこかで」
本当は名前とか聞いたり、お礼とかももっともっとしたいけど、あっちにも都合があるような感じがして、一歩進む勇気が出なかった。
「じゃあな少年、ほんと気を付けるんだぞ」
「はい、本当にありがとうございました」
そうすると二人は、手を振りながら元々行こうとしていた道へと振り返り、歩き始める。俺はその間、その人達が見えなくなるまで、歩を進めることなくずっと二人を見つめていた。
「本当に凄い人達だった」
まるで、魔法を掛けられた感覚になった。腕の痛みが一瞬にしてなくなった時は、痛みのことを忘れそうになった気さえ起きた。でも実際には、痛みの発現から二人が見えなくなるまで、数分しか経っていない。
「二人がいたから良かったけど、もしいなかったら.....」
”もしも”の事として頭の中をよぎる。
「だめだぞそんな事は考えるだけ時間の無駄だ」
と、頭を横に振り、”もしも”として考えていた思考を遮断する。あの二人のおかげで、助かったってのに、そんな助かってない事を考えるなんてあの二人に失礼だ。
「そんなこと考えている暇があったら、用事をすまして家に帰って安静にしよう」
二人とも無理をするなと言ってくれたんだ、たとえこの突然の右腕の激痛が、過労、酷使といったものに該当しないとしても、今は二人の意見を素直に受け入れるべきだと、丁度見えなくなった二人に別れと感謝を告げるように、反対の道へと歩いて行った。
朝の8時45分、俺は人生で二度目の生死をさまよった。
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