行中模索
夜の海の上、どこを見回しても陸地も見えない闇の中に、人が一人立っていた。その周りは死んだように静かで、波は立たず、風も止まり、もしその人影が動かなければそこだけ時が止まっているのではないかと錯覚するほどだった。
遠くに見えていた光の点が、急にその強さを増した。星か何かだと思っていたそれが点から形を持つなにかになって、それに向かって足が動いた。思ったよりもずっと遠いようだったけれど、足は動き続けたし、その光源も遠くへは行かなかった。だから、満月が天頂を通り過ぎて空が白み始めるまでずっとそれに近づき続けても大丈夫だった。
この人影の主は知らないことだったが、このあたりの海域は強風と海の荒れでよく知られていた。だからそれが漁船であることも知らなかった。わざわざ来る船など無かったのだった。
そんな海域に来られる漁船なのだから、水面から跳び乗るなんてことは普通できない。ダツのように勢いのある泳ぎをできる魚であれば別だろうが、人間はそうではない。そんな常識をまるきり無視して、人影が浮かび上がり、数秒かけて甲板の上に降り立った。甲板の端にずらりと並んだ電灯のまばゆい光に照らされて、その首元に禍々しい煙のようなものがまとわりついているのがわかった。
甲板にはその人影を除いて誰もいなかった。足元から伝わる振動と、その足元自体が大きく揺れることに困惑していた。揺れに耐えかねて壁にでも寄りかかろうと一歩前に進むと、その瞬間に一番近い電灯が光を失い、さらにその一瞬後に甲板の光が無くなった。あたりは薄明の明るさを取り戻した。
どたどたと騒がしい足音がして、寄りかかっていた壁が震えた。ギギイと音が鳴った。
「えっ、誰?」
ドアから飛び出してきた男が尋ねた。人影は答えなかった。正確には、質問に対して答えることができなかった。
「遭難者……ではないかな。ま、なんでもいいや。寒いでしょ、中入って入って」
そして、姿かたちのこともよく捉えず、甲板の別の方へ走り去ってしまった。
「あちゃー、フィラメント切れちゃってる」
彼の声が聞こえた。また彼が走って戻ってきた。ずっと感じている振動とは別の種類の振動が足に伝わった。
「ちょっ、なんでまだ突っ立ってるの、ほらこっち来て!」
通りかかるところで彼が急減速し、私の左手首をがっしり掴んで、私は船内に連れて行かれた。
案内されたのは無機質な部屋だった。客間ではなく、ただのリビングらしい。椅子も机も床に固定されていて、座った場所と机との間に微妙な距離があった。案内したらすぐにまたあの彼は出ていってしまい、しばらく待ちぼうけを食らった。そして今さっき帰ってきたところだった。彼と私は向かい合って座っていて、場には沈黙があった。彼が先に沈黙を破った。
「えっと……魔女さん? それとも魔術師さん?」
「……わからない」
自分の声に驚いた。自分の声を最後に聞いた記憶は……わからない。少なくとも、自分がイメージしていた地獄のような声は出なかった。代わりに、男のものとも女のものともつかないが若々しい声が出た。
「わからない、って……もしかして記憶喪失?」
「……そうじゃない。自分が男か女かなど、とうの昔に忘れただけだ」
「てことは少なくとも本物の魔女か魔術師かってわけだ。お名前は?」
「ローパ・ホウマティヤスン・ア…………」
「……?」
「……家の名前を言おうとすると、呪いがある」
首元の煙を指差しながら言った。
「呪い?」
「……多分、私は封印されてから……200年か300年ぐらい経ってるから」
「200か300年前に封印されて、そのときに呪われた? えっ、じゃあ君何かすごい力を持ってたりするの?」
無言でかぶりを振ろうとして、思い当たるところがあったのでやめた。
「あの……ごめんなさい。あの光るもの……たぶん、私の漏れた魔力で……」
「そうなんだ? やっぱり封印って言っても何百年か経つと解けちゃうものなんだね」
「……私が恐ろしくないの?」
「恐ろしがった方がいい?」
「……いえ」
「ま、種明かしをすると、ちょっとやそっとの封印された魔術師や魔女の力じゃ何も恐ろしいことは無いってぐらいにいろいろ道具ができたからなんだけどね」
「甲板で光っていたものも……? 光魔法を使っていたら、全部一斉に消えることは無いはず……」
「おっ、ご明察。あれは電撃魔法みたいなやつを、別の方法で生み出してやってるやつなんだ。いやー科学の力ってすごいよねえ」
「科学?」
「あっ、えーっと……自然哲学とか言ったっけ、200年ぐらい前だと。魔法学は自然哲学に含まれてたでしょ?」
「ええ」
「それで、これからどうする? 呪いの解き方でも探す?」
「……その前に、まずあれを壊したお詫びをしたい」
「いいっていいって。てかお腹空いてない? あーでも船で一人悠々自適のつもりだったから自分の好みの物しか無いな……まあしょうがないか。ちょっとした選択肢ならあるけど、だいたい全部辛いし……」
「一人? この大きさの船を?」
「うーん、まあ僕も結構魔力は強い方だからね。実は動かすだけならだいたい誰でもできるけど」
「……食事は遠慮しておく」
「そう? じゃあ……雑談でもする? もし嫌じゃなかったらだけど」
「……それなら、私の昔話を聞いてくれる?」
日が天頂近くまで登っていた。力が増していたのを感じる。天気は快晴で、やはり昼でも見渡す限り海と空だけがあった。港に戻るのは3日後の予定だという。船主の彼は、この船の操業時間は夜中だけだよ、と言って今は寝こけているはずだった。
どれほど力が戻ったのか、試したくなった。甲板から飛び降りて、海の上に立った。右手を天に掲げ、太陽の魔力を掌に受ける。あっという間に挙げた手の方から不規則な光が迸ってくるようになった。感覚通りならもう相当な光の爆発が起こる、と思って慌てて振り下げた。わずか直径10cmぐらいの光の半球が水面上に現れただけだった。右手にじんわりとした痛みが残って、痛みを感じることも久々だったのでなんとなく嬉しい気持ちになった。
もう一度。もう一度だけ試してみて、もう少し長く魔力を受けてみて、それでまだ同じ大きさの爆発しか起こらないようであれば……まあ、安全に扱える、ということで満足できる。多少気に食わないが。
また右手が太陽に向けられた。掌が熱を帯び、少しのうちにさっきよりもかなり大きな光が湧き出てきた。同じように、慌てて海面に叩きつけた。一瞬で光が大きな爆発になり、爆光が私の周りを通って過ぎ去っていった。
心臓が鼓動するのに合わせて、右の掌が、そして右手全体がずきん、ずきんと痛んだ。右手が燃えるように熱かった。もう一度、と思った矢先に強烈な眠気が襲いかかってきた。しまった。出せる魔力量に対して、入れられる魔力量が呪いで少なくなっているのか。気づかなかった。なんとか海面で眠りに落ちることは避けられたが、船の甲板に飛び乗って、扉を開けてすぐ中に入ったところで意識を失ってしまった。
「……さん! ローパさん! 生きてますか!? ロー……あ、おはよう」
知らない……いや、知っている男の顔が視界の中心にあった。
「明日からはちゃんと用意した部屋か……いやまあ、最悪こういう通路とか甲板じゃなきゃどこでもいいか。飯いる?」
「……いらない」
「強い魔術師は腹が空かないって本当だったんだなあ。んじゃ、僕は動力室の方行くんで」
行くんで、と言われても私だってどこにいけばいいのか。何とは無しに付いていったが、特に彼もノーコメントだった。
扉を開けると、かなり大きな空間が広がっているのを感じた。音がそう反響した。通路もリビングも案内された寝室(使われていない部屋の常として倉庫扱いされていたらしい)も狭苦しく、船内のすべてが縦横に切り刻まれた豆腐みたいになっているのかと思っていたから、こんなに大きな部屋があることに驚いた。
船主の彼が歩くところの後ろに付いていった。デッキのようになっている。部屋は広いが、歩いて入れるところはわずかのようだった。その部屋の大部分をよくわからないものが埋めていた。彼はそれに近づいて、時計のようなものがいくつか並んで埋め込まれているところでいくつか順番に指をさし、こちらに向き直った。
「これが推進機。200年とか前だと、船を前に進めるのにずっと魔法を使ってる必要が会ったと思うんだけど、今はたまに補給するだけで十分だし、ずっと撃ってるよりもずっと速く走らせられる。これが科学の力だよ」
彼は得意気な顔をして説明してきた。装置の一部分に開閉できそうな取ってが付いていて、その蓋に何か模様があった。
「……これの補給なら手伝える? ええと……こっちが火で……こっちは火の逆位置……?」
「うん。単純な火と、その逆転魔法。逆転をうまく扱えないなら補助器具もあるよ」
「……貴方に馬鹿にできるほど、私は弱まってはいないのだけど」
「はいはい。仕組みも聞く?」
「ぜひ」
大魔法使いというものは異常なまでの勉強家なのだ。とにかく自然の仕組みを頑張って理解しようと理屈をこねくり回し、それを現実に波及させようと努力する。たかが2, 300年眠っていただけでその性まで剥がれるわけはなかった。
「おっけー。って言っても概略しか僕も知らなくて、こっちに触れて温まった空気がこっちに触れて冷える、っていうのを繰り返すと空気が膨らんだり縮んだりするらしくてさ。ああいや、正確には空気じゃなくて水蒸気。基本漏れることは無いから出港前にただの水を注いでおけば動くんだけど……ってそうじゃなくて、膨らんだり縮んだりすると、圧力が変わるわけじゃん。それで運動が発生して、船が水を蹴って進むってわけ」
「……その、その水蒸気が通ってるところって……」
「もちろんそこからだよ」
といって指がさされたのは、私が立っているところの目の前、二つの魔法入れの間のところだった。
「ごめんなさい。もう一度火を入れ直さなきゃいけないかも」
「えっ? ……あっ、やば」
彼が埋め込まれた針を見た次の瞬間、爆発音が聞こえた。金属が弾けたような音だった。
「えっ!?」
「私が近くにいると流れるものの動きが止まるみたい」
それだけ言って爆発音の出どころに飛んだ。反響から部屋の中であることは明らかだった。そのパイプを見つけて、すぐ上に浮いた。すぐに流れ出る蒸気が止まった。
「とりあえず当座はこれでいいでしょう」
「ローパさん、それはまずい!」
「えっ、わっ!」
耳をつんざく大音量があった。推進機が破れて、大量の蒸気が炎と逆位置の炎と一緒に溢れ出てきているのが見えた。そして、それらが船主の彼に襲いかかっていた。穴の空いたパイプを蹴り飛ばして、蒸気と彼の間へ飛んだ。すぐに蒸気が私にまとわりつき、全身に焼けるような熱を感じた。
「ローパさん!」
「私の責任は私が取る!」
声を出すと、口から蒸気が入り込んで臓腑が焼けた感覚があった。そんなことで倒れるものか。大魔法使いをなめるな!
私が立っているだけで彼に向かう蒸気は無くなる。あとは私がこれをなんとかするだけだ。炎、逆位置。両手を体の正面に持ってきて、球をかたどるように手を向かい合わせにする。それが自分で思っていたよりもすぐに体を包むようなサイズになった。灼熱が一気に冷め、常温を通り越して雪氷の空気になる。弾けないように、そっと、生卵を棘の上に置くように冷気の球を降ろした。そして、両手を合わせて固定させた。
なんとかなったな、と思って振り向くとまだ彼がいて、飛び跳ねるくらい驚いた。というか飛び跳ねた。寒いのでまた歩いて戻った。
「いやー良いもの見せてもらったよ、やっぱ魔法って強い人が使うとすごいなあ」
「ど、どうも? ……いえ、そうではなくて」
「推進機なら大丈夫」
「そう……?」
「うん。予備のやつがあるし、結構古くなってたしね。予備のも古いけど……ま、港までなら余裕でしょ。これで保険も降りるだろうし」
「……でも、壊してしまったことには違いが無いでしょう」
「そうだね。って言ってもやってほしいことは本当に何もなくてねえ」
「……なら、次の航海で私が貴方の従者をする。コレでどう?」
「……いいの?」
「このくらいでないと責任を取ったことにならないでしょう。私はそう思う」
「うーん、そうでもないと思うけどな……まあいいか、じゃあよろしく」
「ええ、期待しておいて。……そうだ、貴方の名前は?」
「僕? 僕は……サミュエル・マクマホン。改めてよろしく」
「ええ、よろしく」
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