弁証法の物理的応用――雪にはまった車のタイヤを例にして
ちょっと言い訳させてほしい。
そもそも僕はペーパードライバーだ。たしかに法律の上では車を運転しても何の問題も無いが、僕が最後にハンドルを握ったのは2年前のことだ。なんとか自動車学校で30万円の身分証明書を買うことはできたけれど、車の運転なんて間違ってもできないタイプだと思い知らされた。というか人々はどうやってこんな殺人兵器を悠々乗り回しているのか知りたい。ハンドルを一回切り間違えただけで人が(そして僕が)死にうると思うと体がこわばってしまう。とてもじゃないが運転席には座れやしない。免許とってこの方ずっとそう思って生きてきた。
で、そんな僕が今さっきまでこの半自動轢殺マシーンを動かしていたのには理由がもちろんある。と言ってもそこまで大きな理由ではなく、ある友人に車を回送してくれと頼まれたからだった。僕がペーパードライバーであることも知っていて、ちょっとした額を寄越してくれるとも言ってくれたので、まあ友人からの頼みならやぶさかではないしと思って数年ぶりの運転をすることにしたのだった。まあ怖いものは怖いので人があんまりいないような薄明ぐらいの時間を狙ったりはしたが。
それが裏目に出た。なんと雪が降りやがったのだ。初雪ではないが、少なくとも昨日まではすっかり道路は乾いていた。朝起きてみたらそこそこ積もっていて飛び上がってしまった。道路がこんなことになっては平均時速30kmみたいな馬鹿げたスピードで運転するしかない。冬用タイヤとかチェーンとかの持ち合わせは無いし、あったとしても換装する時間はない。何せ道路が混み始めたら最後、スーパー低速走行の自分は間違いなく追突される。なんとしても朝のうちに届けなければいけない。そういう焦りが良くなかったのかもしれない。
駐車場を出てしばらくの間、暖房で空気が乾くのが嫌いなので寒い空気が充満する車内の中で手のひらだけ汗だくになっていた。20kmほど走って少し落ち着いたかな、と思ったときにやらかしてしまった。地図を確認するために路肩に車を寄せて、走っている道が予定していた通りのものであることを確認し終わり、アクセルを踏んだ。加速度を感じなかった。念の為もう一度踏んでみた。やっぱり進まなかった。
タイヤがすっかり新雪の中に埋もれていた。人力で押すにもまだ6時半、人通りなんてほとんど無い。大人しくロードサービスを呼ぶか、と思って調べたら思ったより結構なお値段だった。友人からもらえるはずの報酬でも足りない。
「スタックした。報酬増額求む」
「えー」
「車が来ないで困るのはお前だろ、いいのか」
「しゃーないな」
手早くメッセージを送って承諾を得たので心置きなくロードサービスを呼べた。
しばらく寒空の下で暇を持て余すことになる。車内に入っても暖房はもともと付けていないし、今付けたらバッテリーが上がってしまう。
通行人もさほど多くない。というかさっきから一人も通っていない。人を眺めて暇を潰すこともできず、景色は雪に埋まった田畑しかない。なにか手慰みにスマホでも、と思って車内に戻った。スマホを取ってまた車から出たとき、結構な至近距離に誰かがいてかなりびっくりした。もう半歩後ろだったら車のフレームに頭をしたたかに打ち付けていたところだった。
「お困りですか、お兄さん」
「……宗教勧誘なら間に合ってますよ、お嬢さん」
「いえいえ、そんな宗教勧誘だなんて心外ですよ。ただ私は困っている人の力になることを喜びとする性の者でして」
「はあ」
「見たところ、雪にタイヤが埋もれてしまったんですね?」
「そうですね」
「それで、貴方は困っている」
「そうですが」
「胸に手を当てて考えてみてください。……本当に、雪に車のタイヤが埋もれて困っているんですか?」
「や、そりゃそうですよ。そんな意味深げに言われても困ってることは変わんないですよ」
「逆に考えてみて下さい。……雪に足を取られても、問題は無い、って」
「は?」
動けなくなって困っているという事実が目の前にあることは間違いない。なので逆にもへったくれも無い。意味がわからなかったので続きを促すために少し待ってみたが、彼女はドヤ顔のまま何も言わない。……奇行すぎて気が付かなかったけれど、よく見ると顔が良い……。
ではなくて。
「……問題は無い、って何がです」
「あれ、わかりませんか? こうして車を止める羽目になってしまったこと自体は不本意かもしれませんけど、こうしてこんな別嬪さんとお話ができてるんですよ?」
「別嬪さんて」
「事実でしょう?」
「うん、まあそうかもしれませんけども」
「認めましたね。本当にそんな苦虫を噛み潰したみたいな顔する人は初めて見ましたが」
「……困っている人の力になる、ってもしかしてこうやって話すだけだったりします?」
「ええ」
「じゃあ僕は車の中でスマホいじってるんで……」
「待って待って、待って下さいってば。お兄さんこの車でどこまで行く予定だったんですか?」
「道沿いに北の方まで」
「仁井田駅は通ります?」
「そこのちょっと手前までですね」
「じゃあそこまでヒッチハイクさせてもらえません?」
「嫌ですね」
「そこをなんとか!」
「……申し訳ないんですけど、これはちょっと無理です。僕ペーパードライバーですし」
「まさかここまで運転してこなかったわけではないですよね? だったらもうペーパーじゃないので大丈夫ですよ」
「いや大丈夫なわけないでしょ。スリップして人を死なすわけには流石にいかないんですよ」
「……えっ、本当にペーパーだったんですか? それでわざわざ雪の降った日に車を?」
「ちょっとした事情がありましてね。そういうわけで、申し訳ないんですけどあなたを乗せて行くことはできません」
「えー、こんな美人をほっとくだけじゃ飽き足らず、ヒッチハイクさせてあげずに駅まで3時間も歩かせるんですか?」
「……ここからだと多分5時間ぐらいかかりますね。20km弱あるので」
「えっ? いつもだと3時間……あっいえ、なんでもありません」
「長距離選手か何かやってらしたんですか?」
「えっ……はい、まあそんなものです」
「……じゃあ、頑張ってくださいね」
「いやいやいや! 乗せて下さいよ、ねえ!」
隙を付いてもう車に乗り込んでいた。可愛らしいノックの音が車内に響いたが、無視した。
わずか数秒後にノックの音はドアを殴打する音に変化したので慌ててドアを開けた。
「勘弁してくださいよ……この車は僕のじゃないんですから」
「じゃあ乗せてくれるってことでいいですね?」
「……安全運転を心がけますけども」
道の先にロードサービスの車が見えた。暇は潰せたが、代わりに厄介事を抱えてしまった。
それでもなんとか事故らずにたどり着けた。気づいたら彼女は消えていた。友人からよくわからん書き置きがあったぞと知らされて、それで何も言わずに消えたわけではないことは分かった。運転で疲弊したので、まあいいか……とだけ思った。帰りの電車の中で寝過ごしかけ、急行の乗り換え駅で目が覚めたので無事家に帰れた。
で、どうして家の横で朝に会った彼女が20cmほど浮いているのだろう。幻覚を見るほど疲れてはいなかったはずだが……そっと目線を外したらこっちに飛んできた。幻覚だもんなあ、と思って無視していたらそのままぶつかって自分の体は地面に倒れた。頭は打たずに済んだ。
「あの、なんで浮いてるんですか」
「それはですねえ、私がペーパードライバーが運転する車の雪にスタックしたノーマルタイヤの周りの雪の精だからです」
「なんて?」
「ペーパードライバーが運転する車の……」
「一回で十分」
「あら、そうですか。じゃあ泊めてくださいね」
「なんで?」
「私がペーパードライバーが運転する車の雪にスタックしたノーマルタイヤの周りの雪の精で、そんな特殊状況が起こる機会なんてそうそう無いからなんですよ」
「はあ」
「だいたい10年ぶりですかね、顕現できたのは! で、そうは言っても行く先も無いので泊めてもらおうって寸法です」
「はあ……」
最近の幻覚って痛いしよく喋るんだなあ、と思った。
「じゃあ、まあ、僕は寝るんで、適当に好きにしてもらって……」
「ありがとうございまーす!」
翌朝目が覚めて飛び上がったし、軽率な判断をしたことを死ぬほど後悔した。確かめられなくてもう一度浮いてもらったりしたら流石に幻覚ではないと認めざるを得なくなった。こういう経緯で今僕の家には自称精霊が住んでいる。雪に足を取られただけなのに……。
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