海の宮

 今日もまた夢を見た。

ここ最近、夢を見たことを覚えている日には毎日見ている夢だった。私は電灯もない真っ暗な道に立ち、星明かりがそこを照らしていた。そこがどこか、何をすればいいのかはわからなかったけど、どこに向かっても良いという確信がどこからかあったから歩きはじめることができた。すると決まって砂浜に着き、よくわからないが持たされていた杖で砂浜を突いてみると激しい手応えがあって、私が海から許されたことを分かることができる。それでじゃぶじゃぶと海に入って、呼吸も苦しくなく、私はしばらくの間海底散歩を楽しんだりする。どう歩こうと正しい方向なのだから、何も苦はない。

 と、ここで突然これが夢であることに気づく。ふと今回も山をかきわけて行くことを思いつかなかったことに気づき、砂浜の予想外に硬い感触に面食らう気持ちにも慣れ親しんだものであることに気づく。そして水中では息が吸えないことも思い出される。そう、いつもこの場所だ。斜め下に若干尖った大きめの岩がある。息が吸えないのですっと意識が夢から追い出されて、目が覚めた。

 こうして目が覚めるのは、もう何度目のことだろうか。時計は目覚ましをかけた時間の5分前を指していた。たった5分でももったいないが、目が覚めてしまった以上二度寝をするにも難しい。今日は金曜日、学校に行く必要のある日だった。

 昼はやかましい。靴を鳴らす音も聞こえやしない。電車に乗ればガタゴトと鳴って一定音量以下の音をかき消してしまう場ができてしまうし、時折鳴るアナウンスだって私が鳴ってほしいと思った音ではない。イヤホンを耳に突っ込んでいくらかやり過ごす。イヤホンからは私が鳴らしたかった音が留まるところを知らず溢れ出てくるのに、騒音はときどきその上をゆく。辟易する。

 一度学校に付いてしまえばそんなに苦は無い。友達との会話は楽しい。先生たちの言うことも、私はなかなかどうして真面目で聞くに値すると思っている。ところが学校の時間が終われば私はまた電車に乗り、耳を満たす音楽に注意を注いでもその隙間から求めていない音が入り込んでくる。このやかましさだけはどうしても慣れなかった。


 夢の中には音が無い。足音や、風鳴り、波の音、どれも背景に行ってしまい無音になる。あるいは私が声を出したとしても、声があったということがわかるだけで声が聞こえることはない。光は明るくも暗くもなく、記憶から呼び出された水に包まれる感覚もとても弱々しい。ただ在ることだけがあった。

 だからこそ、今立っている場所は夢ではないことを否が応でも分からされる。

 夢の中の景色に恐ろしいほどそっくりだった。それもそのはず、何度も通った道が夢に出ていただけだから。砂浜だってそうだ。この道をあっちに歩けばあの砂浜に着く。そこだけが夢と一致していて、あとは何もかも夢からかけ離れている。月光が眩しい。風が寒い。足音が轟く。まるで幽霊になったみたいに動ける夢の中とは違って、現実とぶつかり合うことがわかるのは少し恐ろしかった。

 砂浜まで歩いてきた。手に杖はない。これでは砂浜を突けず、海から許されることもできない。夜の海はただ暗く、夢の中のように明瞭に見通すこともできない。

 良かった。心底そう思った。私は今杖を持っていない。だから、理由で夢の再現を続けることができない。ふと催眠が解かれたみたいな気持ちになって、踵を返して早足で家まで帰った。


 季節は一周して、また晩秋か初冬かという季節になった。東京の冬は乾いて、雪も雨もあまり降らない。あの日から変わったことといえば、私は高校3年生になって、それが意味するところとして受験生になったということくらい。

 それと、あの日からあの夢が少し変わった。現実で道をたどってみたことで、いつも夢だと気づく場所よりも早く夢だと気づいてしまうことが増えた。海の中で気づいたときはいつものように呼吸ができなくなって目が覚めるけれど、道の上にいるときに気づいてしまったときにはどうすればいいのかわからなくて右往左往するしかなかった。そのうち夢も雲散霧消するので、最後にどうなっているかはわからなかった。

 そんな折に、偶然外国のニュースを見かけた。全部英語で書かれていたので見てうっとなったけれど、よく見ると読めたので、でもところどころ知らない単語もあったので、辞書を引きながらそれを読み進めた。

 世界史でしか名前を聞いたことのない国についてのニュースだった。戦争……内戦が起こっているらしい。知らなかった、というより実感が無かった。反乱軍の攻撃で68人が死んだ、と素知らぬ顔でニュース記事は言っていた。どうしてそんなことに、と思って別の記事を見ようとすると、更に多い分量の英語が出てきてその日はやめてしまった。

 英語の問題を目にするたびに、そのことを思い出さずにはいられなかった。今までは気にしていなかったけれど、英語の長文問題というものは意外と国際問題とか社会の情勢とかを扱っていることが多い。ドイツの移民の話があった。ポーランドで昔あったユダヤ人差別の話があった。イギリスとアイルランドの話があった。そういうのを見るたびに、やっぱりあのニュースをちゃんと知らなければいけないと思うようになっていった。

 なんとかあのニュース記事を再び見つけることができた。そこからキーワードを拾って、そこまでの経緯について言っている記事も見つけられた。それを読みはじめた。

 経緯は第二次世界大戦まで遡るらしい。なるほど、独立国として再出発した。主要な民族グループが2つあって、ごたごたを抱えながらも……つまり、衛生状況が悪く、人が病気でぼろぼろ死んだりもするような問題があっても……なんとか国家が運営されてきたらしい。それで、あるとき2つの主要民族グループのどちらにも属さないグループの1つが独立戦争を起こした。それに乗じて2つのうちの1つがクーデタを起こして、もう1つの方の民族を虐殺し始めた。……えっ、何で?

 虐殺を始めた理由はそれまでの政府がもう1つの民族を中心にしていたから、とこれも素っ気なく書かれていた。それから20年の間内戦を続けていた、とも。虐殺を受けていた側がクーデタをもう一度起こして、逆に取って変わって、それで報復を受けることを恐れた旧政府側が武装勢力となって内戦を起こし、今に至る、と。

 意味がわからなかった。死者数は少なくとも200万人、と冷血に書かれていた。

 200万人というと、東京23区から4つか5つほど区を選んで、その区の住民の数を全部合わせたぐらいの人数になる。そこでふと授業で扱った東京大空襲のことが思い出された。ふと、住んでいるところが一面焼け野原になり、人が皆死んでしまっているような様子を想像してしまった。

 恐ろしかった。


 土曜日の深夜に家を出た。右手には杖を持っていた。海に許されたかった。

 夢と同じように歩く。前と同じようにやかましく、見ると新月に近い今日は夜道がとても暗かった。どんなに暗くても、夢の中で散々歩いた道だった。

 砂浜の砂は、踏みしめても杖の石突を当てても柔らかい感触しか返してくれなかった。いいから海に行こうとした。海水が恐ろしく冷たくて、反射的に足を引いてしまった。足からは無理なら顔から、と思って腹ばいになって顔を海水に浸けた。口と鼻が塩辛さでいっぱいになって、頭や肩をずぶぬれにしながら上半身を起こした。寒かった。

 どこに行くこともできないような気になって、そのまま固まってしまった。少しして強めの波が来た。膝を波がかすめた。冷たくなかった。はっと思って気にしてみると音も無かったし、夜の海なのによく見えていた。いつの間にか夢の中にいたことに気づいた。

 夢の中なら、どこへだって。立ち上がって、杖を突く。コンクリートに当たったみたいな感触があり、やはり海の中へ足を進められた。意図的にあの岩を避けるために違う方向に進む。海の中は明るい。こんなところには無いはずなのにサンゴがある。遠くの水中に何か宮のようなものが見えた。近づいてみると、人影もあった。

「あの宮には何があるんですか?」

「何もありませんよ」

「えっ?」

「分かっていますでしょう、ここは夢の中です……あなたがあの宮に何かあると思えば初めて、あの宮に何かあることになるのですよ」

「えっ、あっ、そっか。じゃあ、あなたは私のことをわかってる?」

「いいえ」

「うん、うん、そうだよね。えっと……」

言葉に詰まった。なんで人が死ななければいけないのか、なんで私がこんなことをしているのか、なんで、なんで。気持ちがぐちゃぐちゃになってうまく言葉にできなかった。気持ちがそのまま伝わればいいのに、あっ、そうだ、夢の中だから、そのまま伝わる。伝われと思えば。

「ええ、確かに伝わりました。貴方の思いが」

「えっと、その……」

「……どうか、人の愚かしいところにだけ、目を向けていないで下さい」

それだけ言われて、人影も宮も、海も消え去った。

 夜の砂浜で目が覚めた。すごく寒かった。多分風邪を引いてしまっただろうと思いながら、家に帰った。

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