カナディアン・アイス・カヌー

 自分と彼女の間の空気が物理的に凍っていた。彼女の手の軌道を追って、少しするとこれ見よがしに何か空色か灰水色かぐらいの光を放つ球のようなものが浮かぶのだ。動かし続けてもらうとだいたい4秒と少しで出現して、そこから2秒きっかりで消えていた。温度の方は、触ってみた感じではかなり冷たかったので、水を染み込ませたティッシュをかざしてみたところすぐに凍り、すると氷点下であることがわかった。そのぐらいを確かめて、夏の空気に冷たいものがあるのは助かるが、それはそうと飽きた。

「それ、どうしたの?」

「いやー、実はね。ほら、一昨日は奈良に泊まったんだけど、そのときについでに京都観光してね。で、そのときに今は真西の方に方位神がいるらしいって知ってさ。ほら、賀茂神社の近く通ったときになんかあって。あ、方位神ってなんか避けなきゃいけないんだって。方違えして避けるやつ。そんで、へー、って思って、昨日はなんともなかったんだけど今日朝起きたらこうなってた」

「……そんなことある? 確かに奈良から真西だけどさ。というか、真西がだめだったら自分もだめじゃない?」

「わかんない。でも思い当たる節がそのぐらいしか無いからさ」

「そっか。ま、涼しくていいけどね」

「いやーでも私は困る、てか困ってるよ? コーヒー冷めちゃうしさ、シャワーが冷たすぎるしさ」

「いいじゃん、アイスコーヒー」

「私は良くない。いやそうじゃなくて、どうせだから方違えっていうのやってみない? って言おうと思ってたの。カヌーやって、そこからまた北西に行くの。急だけど、きっと楽しいよ、たぶん」

そう言って彼女は地図を広げた。一枚はもともとやる予定だったカヌーでの川下りの観光案内マップ、もう一枚はもう少し広域の地図。後者には赤い線が書き込まれていたので、察するにこれが予定ルートだろう。海岸沿いに北西に回っていくルートだ。

 何であれ、自分は反対しない。何せ惚れた弱みがある。どんなに辛くても彼女と一緒にいるだけで楽しいというものだ。

「いいよ、川を下ってからはこっち?」

「うん、海沿いを走るバスがあるからそれに乗って、それでこっちにいい感じのホテルがあったから行きたいなって。どう?」

「いいんじゃない?」

「おっけー、じゃあ予約しとくね。……あっ」

彼女の左手には薄い氷の欠片に覆われた彼女のスマホが握られていた。生活防水はあるはずだから壊れはしない……と思う。まあでも今使えないという事実は動かない。申し訳無さそうにこっちを見て頼んでくる彼女の顔を見られたので自分にとってはすっかりラッキーだった。彼女の顔が近づいていい匂いもしたし。彼女が困っていることをラッキーだと思ったことに多少の自己嫌悪が……無いことは無いと思うんだけどな。それよりも嬉しくて、あったとしても認識できなかった。

 泊まった民宿を出て電車に乗り、大きな駅で降りてバスに乗り、降り、別のバスに乗り換え、山道を揺られること合計50分ほど。そこで降りて歩くこと10分、山の中を進んで目的の建物まで着いた。同じバスに乗ってきた人たちもオフシーズンなのに数人いる。繁忙期はどれだけなのか推して知るべしといった感じだ。それを示すように、建物も今いる人数に比べると威圧的に大きい。川のせせらぎが建物の向こうからかすかに聞こえてくるが、話し声でときどき聞こえなくなってしまう。こんな山奥まで来るならもっと静謐な環境を期待していたが、バスの時間を調べなくともなんとかなる本数があるような観光地ではそんな期待もお門違いということなのだろう。山奥は山奥だ。

 そういえば、バスでは自分も彼女も最後部の座席に座っていたのだけれど、道中彼女の左手の冷たさがバス車内には見当たらなかった。謎の超自然的現象があの一瞬の間起こっただけなんじゃないか、と思ったのだけど、今見たところやはり彼女の左手は淡く水色に光っていた。山道には信号も無く、すると移動し続けていれば害は無さそうに見えた。

 カヌー小屋、と言うには大きすぎる建物の中に入る。冷房が効いていて、自販機もあり、2階に上がれば大きなガラス窓から川も見下ろせた。なんかこう……マイナスイオン? を感じた。ガラス越しだけど。化学の知識があるので空気中にイオンはあんまりないし、あっても特に利益になることが無いことも知っているが、それはそれ。あっ、もしかするとガラス越しではないかもしれない。すぐ右に立つ彼女の左手から感じる冷気が、直射日光が差し込んで少し暑いガラス窓の前ではとてもありがたい。手を取って拝んでみた。

「おお、ありがたや……」

「ちょっと、やめてよ、もう」

彼女はそう言ったが、声は笑っていた。

 少しして、カヌーツアーの集合時間になった。係の人からちょっとしたインストラクションを受けて、救命胴衣の付け方を教わる。講習ビデオが流され、事故例と「あのときちゃんとしていれば……」みたいなインタビューが流れ、いざというときには自分が彼女を守って……もとい、その前に自分の身を自分で守らないとな、と思った。

 さてさて退屈な講義も終わり、やっとカヌーに乗れる。カヌーの中でもこれはカナディアンカヌーと言うらしく、パドルが棒の片側にしか付いていない。初心者には少々難しく、なので一人ずつ左右の片方を担当する二人乗りになっている。イメージしていたような両側にパドルの付いたやつはカヤックなるちょっとした別物らしい。他の違いはわからないけど、ともかくこの場に無いので気にしてもしょうがない。

 カヌーに乗り川の中に入ってみると建物の2階で感じた暑さはぜんぜん無く、川がせせらぎ木漏れ日が差し、背中左側に彼女の冷気を感じ、救命胴衣を付ける関係で汗をだらだら流してしまうかと思っていたのだが、想像もかなり涼しかった。

 川下りといえば急流下りをテレビ越しに見たことがあったりするぐらいで、なんとなく実感が全然なかった。それが、今自分は川のど真ん中にいて、出発した船着き場も遥か後ろに流れ去っている。何か不思議な気分だった。

「左曲がるよー」

「おーす」

右を担当するのは自分だ。ざばーんざばーんと水をかく。このぐらいでいいかな、と思ってパドルで漕ぐのをやめても思ったよりかなり曲がりすぎてしまった。

 船尾から衝撃を感じて、船が大きく揺れた。自分の体が投げ出された。あっしまった、と思ったときには重心は船の外に出ていて、水に落ちるのはまあ仕方ないか、となった。

 水には落ちなかった。水濡れの代わりにちょっとした痛みを右肩に感じ、続いて強烈な冷たさを感じた。ぶつかった痛みがすぐに冷たさによる痛みに置き換わり、手をついて肩の代わりに尻を乗せた。カヌーがすっかり氷に座礁してしまっているのが見え、その後部には彼女が上体を変にひねった姿勢で止まっていた。氷に左手が刺さって、強烈な光を放っていた。見る見るうちに彼女の顔が赤くなっていっていた。

「えっと、その、違うの、これは……」

「……ありがとう?」

「……ハイ、うん。危ない、って思ってつい手を伸ばしたら、こうなっちゃった」

もう彼女の顔は赤いスプレーを塗ったみたいに真っ赤になっていた。

 少しして、彼女の左手の明るさが元に戻り、すごい勢いで氷も溶けていった。水しぶきよりも多くの水を浴びることもなく、自分と彼女は下流の船着き場まで着いた。

 あの夏の思い出はこんなところだ。また海沿いを走って、その次の日には彼女の左手の光も冷気も消えていた。真夏なのに熱いコーヒーを飲んで、三分の一も飲まずに暑いと言い出したりもしていたけれど、飲みながらもその笑顔は眩しかった。

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