アンド・デッド

平山芙蓉

carnival

 月曜の憂鬱が沈殿する教室の空気は、喫煙所のそれと変わりなかった。詰め込まれた誰もが好き勝手に、重たい呼吸をする空間。息苦しい。教壇に立つ担任の声でさえノイズと変わらない。そのせいで、内容は右から左へと流れていく。多分、頭が勝手に不要だと判断しているからだろう。窓際の席に座るわたしは、少しでも綺麗な空気を求めるように、外の景色を眺めた。


 どこか湿っぽい教室に差し込む陽光は、月曜に相応しくない眩しさだ。正真正銘の日本晴れというやつだろう。そんな空の蒼を引き裂くように、飛行機の白い尾が伸びていく。開いた窓から吹き込む風も柔らかくて、気持ちいい。週の初めとしては清々しい景色だ。だけど、わたしにとっては無味乾燥な写真と同じで、陽の光は届いてくれない。


 今頃、香稲かいなはどこで何をしているのだろう。ぼんやりとそんな疑問が脳裏を掠めた。


 親友である彼女が行方不明になってから、今日で一週間が経つ。いなくなったのは恐らく、先々週の土曜のこと。その日から突然、香稲と連絡が取れなくなった。最初こそおかしいと思いつつも、体調でも崩しているのだろう、なんて考えていた。でも、いざ登校して担任から発表されたのは、行方が分からないという事実。土曜の夜中に出かけてから、それきりらしい。香稲のご家族は捜索願いも出したらしいけど、一向に手掛かりを掴めていない。

 初めは担任も、彼女と関わりのない生徒も、心配そうな顔を浮かべていた。なのに、日が経つにつれて、彼女を純粋に心配する声は萎んでいった。代わりに挙がったのは、死体も見つからない場所で自殺したとか、援助交際をしていたとか、そんな噂だけだった。


 遠くを飛ぶ烏が、嘲笑にも似た声で鳴く。視界の隅に入るクラスメイトの背中に、苛立ちを覚えた。

 馬鹿げている。香稲は今だって、危険な目に合っているかもしれないのに。ましてや、本人のいないところで、デタラメな話を口にするなんて。その憤りが爆発したのは金曜の話だ。蔓延る噂に耐えかねて、柄にもなく大声でクラスメイトを責めた。

 お陰で今朝からわたしは腫れ物扱いされている。もちろん、気にしていない。わたしとしては、少しでも香稲の噂がなくなればいいし、こんな下世話な人間たちと関わりたくもなかったから丁度いい。わたしを理解できないなら、わたしがしたように、糾弾すればいいだけだ。

 それに、完全に孤立しているわけでもない。クラスには結乃ゆのもいる。彼女はわたしと香稲と、いつも一緒にいる友人だ。香稲のことが心配なのは確かだけど、今は結乃がいてくれるからありがたい。


「……本日の連絡は以上です。それじゃあ、号令を」


 担任の声に従って、日直から号令がかかった。いつもの何倍も長ったらしく感じた時間から、ようやく解放される。まだ朝の眠気が付きまとう身体を立たせた。椅子が床を擦る音が耳障りだ。貧血持ちには毎度辛く、少し倒れそうになってしまう。

 そんな立ちくらみにやられていると、不意に廊下側の席の方から鈍い音と共に悲鳴が上がった。ぼうっとしていた頭の中が、スイッチでも押されたかのように切り替わる。


「ちょっ……!」


 慌ててそちらへと駆け寄る担任を目で追う。周りの生徒は背伸びをしたりして覗いていたけど、わたしは咄嗟に音の鳴った席へと駆け寄った。


 だってそこは結乃の席で、

 倒れたのもやっぱり結乃だと分かったから。


 彼女を囲む生徒たちに割り込んで見下ろすと、床に結乃がうつ伏せで横たわっていた。机の角にぶつけたのか、頭を押さえながら唸っている。幸いにも血は出ていない。担任は屈んで彼女を揺らさないよう、慎重に名前を呼びかけ、立てるか、などと聞いていた。


「保健室から担架持ってきて!」


 その指示で誰かが教室から出て行く。他人が動いたお陰か、みんなが近寄って彼女を見下ろしていた。小波のようなざわめきが教室を満たす。ついさっきまでの緩慢だった空気が噓のようだ。クラスメイトは結乃を取り囲み、小さな声で彼女の様子を語るだけだ。もしかして、わたしがいるからだろうか。もしそうだとしたら、非情にも程がある。そんな風にクラスメイトたちに苛立ちながらも、結乃の傍へと屈んだ。

「結乃、どこが痛い?」と、わたしも声をかけた。

「あっ……、頭」

 わたしに気付いた彼女は頭を押さえながら、一言呟いた。結乃はなかなか立ち上がろうとしない。やっぱり、打ちどころが悪かったみたいだ。何も出来ない焦燥感が、じりじりと心を焼く。担架を取りに行った生徒はまだ来ない。背後のクラスメイトと言い、状況に感情が重なるせいで、何だかわたしまで気分が悪くなってきた。


「もうすぐ担架くるから、待ってて」そう言って、彼女の背中に手を宛がう。結乃の身体は小刻みに震えていた。その振動が手の平を伝ってくる。外目には気付かなかったけど、異常な量の発汗をしていて、シャツはじっとりと湿っていた。


 熱があるのかもしれない。

 とにかく、彼女を起こそうと脇腹に手を突っ込んだ時、


 結乃が急に暴れ出した。


 床の上をのたうち回り、机を蹴飛ばそうが、椅子が倒れようがお構いなしに手足を動かす。傍にいた担任もわたしも、驚いて飛び退く。だけど、一番近くにいたわたしは、顔面に思いっきり拳が当たってしまった。クラスのあちこちから、男女構わず悲鳴が上がる。わたしは尻餅をついて鼻っ面を押さえながら、暴れる結乃が担任に押さえられる様を呆然と眺めていた。

 ただ、それだけなら、もがき苦しんでいるからだと、まだ納得できたかもしれない。


 つまり、それだけじゃなかったということ。


 結乃は担任に押さえつけられながらも、大声で笑っているから。涎を垂らし、目を動かしながら。ホラー映画でも観ているかのような気分だ。昔の人がこんな異様な光景を見たら、確かに悪魔や霊を信じてしまうだろう。


 狂った声が教室中に響く。彼女を取り囲んでいたクラスメイトの輪は、いつの間にかかなり広くなっていた。担任も押さえるだけで精一杯のようだ。呪いとか祟りとか、そんなものを信じたくなるくらい、異様な場面に、わたしは腰が砕けていた。


「どうしたんですか!」


 担架を持ってやってきた看護教諭が、急いで駆け寄る。とにかく運び出そうと担架に乗せたけど、それでも結乃は止まらずに暴れ続けた。ようやく立てるようになり、ぐちゃぐちゃになった机を支えに立ち上がる。

 やっとの思いで先生たちが担架に乗せても、結乃は暴れ続けた。わたしは即座に彼女の腕を掴み、保健室まで運ぶ手伝いに回る。


 クラスメイト達が見守る中、わたしたちは保健室へと急ぐ。暴れているとは言っても、力はそれほどでもない。ただ、廊下に反響する笑い声が、異様さを引き立てていた。痛みの引いてきた鼻を異臭が衝く。振り返ると、リノリウムの床には点々と雫が垂れていた。どうやら、結乃は失禁してしまったらしい。わたしは恐怖を誤魔化すように、彼女の身体を押さえつけることだけに意識を向けた。


 保健室に着き、ベッドの上へ運んだ。しばらくは暴れていたけど、疲れきったのか、彼女は電池が切れたかのように力なく止まった。虚ろに目を開き、汚物に塗れた結乃の姿は、わたしの知っている様とはかけ離れている。担任と養護教諭は背後で何やら話をしていたけど、内容は分からなかった。わたしは傍に腰かけ、彼女を見つめることしかできない。


「佐伯さん、助かったよ」と、担任が声をかけてくる。放心に近い状態だったわたしは、頷くことしかできなかった。


「ちょっと先生たちは用ができたから、坂井の傍にいてやってほしい。何かあったらすぐ呼んでくれ」

 そう言い残して、二人が保健室から出て行く。どちらか一方が残ればいいのに、と思ったけど、余程の急用なのだろう。わたしが止める暇はなかった。


 ベッドに横たわる結乃は、草臥れたぬいぐるみみたくぐったりとしている。さっきまでのおかしな笑い声を上げていた姿とは、違う人物みたいだ。丸っぽい印象の頬も、削ぎ落されたみたいにこけていた。身体からはまだ、アンモニア臭が漂ってくる。必死に押さえていた手首は、赤紫色に変色していた。ものの十分も経たない内に見るに堪えない姿へ成り果てた彼女を、痛々しい気持ちで見つめていた。


「茉莉……」微かに痙攣する手をシーツの上で動かしながら、彼女がわたしの名前を呼ぶ。

「結乃、どうしたの?」

「全身が痛いの」

「やっぱり、先生呼んでくるよ」

 立ち上がろうとしたら彼女が手を掴んだ。とても弱々しい。力を上手く入れられないのだろうか。目を遣ると、結乃は静かに首を横に振った。その顔には苦悶の表情が浮かんでいて、辛そうだ。わたしは仕方なく、元いた場所に座り直した。


 それから少しの間、手を掴まれたまま無言の時間が続いた。余所の教室はみんな授業をしているから、部屋の中は静寂に包まれている。結乃は、大丈夫なのだろうか。彼女はもう暴れないだろうか。いつ訪れるかも分からない不安が、心の中で渦巻く。憂鬱だ。何だか香稲がいなくなってから、悪いことばかり起こっている。こんな時にこそ、香稲がいてくれればいいのに。


「ねえちょっとさ、私の話、聞いてよ」そんなことを考えていると、マシになったのかか細い声で結乃が話しかけてにた。

「どうしたの?」わたしは聞き取りやすいよう、彼女の方へ寄って耳を傾ける。

「あんたさ、香稲のことどう思ってるの?」

「どうって……、親友だけど」

 香稲の名前が出たせいで、わたしはつい身構えてしまう。改まって、何の話だろう。結乃はわたしの答えを咀嚼するように黙りこくる。それから、小さくなるほどね、と呟いた。

「じゃあ、あんたは私よりも香稲の方が好きなわけだ」

「えっ?」

『香稲の方が』という言い回しに、つい違和感を覚えて、聞き返してしまう。彼女はわたしの手首を握った手に、力を入れた。握力は相変わらずだけど、振り払えないくらいにはしっかり掴まれている。


「バレバレなのよ。あんたさ」結乃は大きなため息を吐いた。「あんたと香稲にとって、私はただの飾りって、さ」

「ねえ、何を言ってるの?」わたしの問いに対し、結乃は天井を見つめるだけで、目を合わせてくれない。

「私ね、あんたたちが憎かった」

 彼女の一言は、わたしの時間を止めた。身体の内側で、何かに罅が入るような感覚が奔る。呼吸だけで胸が苦しくて痛い。動揺が伝わったせいか、結乃は口を閉ざす。

「……どうして?」それでも、彼女の言葉を聞かなければならない気がした。息を飲み、結乃が口を開くのを待つ。


「あんたたちがお互いを求めるから。本当は私なんて要らないクセに、言葉にしないで傍に置いておくから」


 何か口にしようとしたけど、結乃は静かに泣き始めた。瞬きをする度、涙が溢れ、流れていく。

「なんかさ、虚しくなっちゃうよね、そんなの。一緒にいても、心までは共有できなかったんだもん。私はただ、三人で一緒にいたかった。三人で、ずっと一緒に」彼女は虚ろに濡れそぼった目を、ぎょろりとこちらへ向けた。「ねえ茉莉、私はいらない人間なんでしょう? 本当は二人でいたいのに、無理して私を傍に置いてるだけなんでしょう?」


「何言ってんの! 結乃だって……、大事な友だちだよ」


 病人に向かって、つい語気の強い言い方をしてしまう。すぐに失態を省みて、わたしはごめん、と口にした。そんなわたしのどこがおかしかったのか、彼女は口角を上げる。掴まれた手に気味の悪い振動が伝わってくる。さっきの暴れている様子を、否が応でも思い出す。それだけで全身が粟立ってしまった。


「ほら、ね? あんたは香稲のことを『親友』って言ったのに、私のことは『友だち』だなんて言うじゃない。その違いこそ、私が要らないっていう証拠なんじゃないの?」


 責めるように言われて、わたしはまた押し黙ってしまう。そんな情けないわたしを見上げる結乃の顔は、みるみる嘲笑の色を濃くする。さっきから何が可笑しいのだろう。腹の底では静かに怒りの気配が煮えたぎっていたけど、それを表には出せなかった。

「結乃がそう思ってたなら、謝る。謝るから、この話はもうやめにしよう……?」

 どうすれば、結乃は機嫌を直してくれるのだろう。分からない。分からないから謝る。彼女は熱のない軽蔑の目で、わたしを見るだけだ。その視線だけで、胃が針を飲み込んだかのように痛む。

 頭の中には香稲の姿があった。もしここに香稲がいてぬれたら……。責められた傍から、わたしは確かに香稲を求めている。でも、仕方ないはずだ。結乃とこんな険悪な空気になるのは初めてだから。喧嘩するのはいつも香稲と結乃で、わたしは仲裁ばかりだったのに。どうして、こうなったのだろう。わたしに、結乃が言ったような気持ちなんてなかったはずだ。


「本当に、やめてもいいの?」


 しばらくすると、結乃が口を開いた。意地悪のつもりだろう。彼女の笑みには、自分が優位に立っているという余裕が滲み出ていた。わたしはその思惑にまんまと嵌り、また口を噤んだ。

「ねえ、どっちなの?」と、結乃が急かしてくる。

「わたしは、結乃と喧嘩したくないから……」

 慎重に言うと、結乃は興味もなさそうにふうん、と言った。

「じゃあ、あんたはさ、香稲がどこにいるかも知らなくていい、ってわけだ」

 一瞬、耳を疑った。香稲の居場所を知っている。結乃は確かにそう言った。紛れもなくその口で。恐怖を覚えていたはずの彼女の方へ、一歩近づく。

「何?」結乃が浮かべる笑みに、苛立ちが破裂した。

「どういうこと?」取り乱したわたしは、彼女の手を振り払い肩を掴んだ。「ねえ、どういうことなの!」

「病人に手を出すの?」

「はぐらかさないで」飄々とした態度の結乃に、わたしは苛立ちをぶつける。それでも彼女は竦むこともなく、じっとわたしを睨んでいた。「香稲がどこにいるか知ってるの?」


 問い詰めると、微かに目を逸らした。焦らすような彼女のやり口に、本当に手を出しそうになる。そんな衝動を堪えるのに必死だった。どのくらい時間が経ったのだろう。体感時間なんて、もう中てにしてないけど、三十分くらいは経っただろうか。先生たちはまだ戻って来そうにない。寧ろ、今こんな場面を見られたら、疑われるのはわたしの方だ。

「お願いだから、教えてよ」わたしは下唇を噛み締めながら、結乃に言う。自然と涙が流れて、彼女の頬へと零れ落ちていく。雫は白い肌の上で、音もなく弾ける。


「香稲なら、ここにいるよ」


「……からかってるつもり?」

「本当だよ」

 結乃は震える手を自分の鳩尾の上に乗せる。ふざけているのかと思った。でも、真剣な顔をしている。だから、余計に意味が分からない。


「香稲はさ――、私が食べたんだよ」


「は?」

「香稲は、私が食べたんだ」聞こえていないと捉えられたのか、彼女はゆっくりと繰り返した。「今朝、ちょうど全部食べ終わったところだよ」

 眼下で悍ましい笑みを浮かべた彼女にゾッとして、わたしは身体から離れる。香稲が死んだ。結乃に殺された。そして、その肉は結乃が食べた。食べた? 脳裏に香稲の顔が浮かぶ。笑顔が。大好きだった親友の笑顔が。死んだ。殺された。死体は、結乃のお腹の中。

「冗談でしょ?」

「香稲の肉は、柔らかかったよ」

 彼女の姿を想像して、わたしは床に嘔吐してしまった。食道が痛い。口内に不快な味が溢れる。上履きは、消化の途中だったもので汚れている。そんな無様なわたしを見て、彼女はケラケラと笑う。

 取り乱している。胸の内側に、何かが痞えている。吐いた後だというのに、また吐き気を催す。何を言っているのか分からない。でも、結乃の視線の奥底にある暗い影が、タチの悪い冗談ではないと訴えかけている。

「何なの……、本当なら、なんでそんなことしたの……」

「ずっと一緒にいるため」結乃は簡単な言葉で答えた。そこに詫びれる様子も、後悔の念も伺えない。寧ろ、不快感がぶり返してしまいそうなくらい、恍惚とした表情を浮かべている。「あんたでも香稲でも、どっちでも良かった。三人で一緒にいれるのなら、どっちでも」結乃はベッドから上体を起こそうとする。だけど、力を上手く入れられないらしい。何度も失敗しては倒れ込んだ。

「狂ってるじゃない……、そんなの」


「それしかなかった! 一つになるためには、それしかさぁ!」ここに来て、初めて結乃は声を荒げる。腕を振り回し、彼女は何度もマットレスを、駄々をこねる子どもみたいに殴る。鈍いバネと、荒い呼吸の音が保健室の中に響いた。それも長くは続かず、彼女は息を切らしながら力なく果てた。

「あんたたちが、私を見てくれないなら、私がどっちかを放さないようにするしかないじゃん。そうするためにはさ、もう食べて取り込むしかないでしょ? 命はそうやって、続いっていくって、小学校でも習ったことじゃん……」

「殺す必要なんて、なかったじゃない……」

「ううん、殺して食べるしかなかった」結乃は目元を腕で隠しながら、わたしの言葉を否定する。


「私はあんたたちと、言葉も時間も共有したって、心は一度だって重ならなかったんだから。ずっと私は、除け者だったんだから。ならさ、何でも溶かして自分のものにしてくれる場所に収めるしかないじゃん」


「結乃、あなたやっぱおかしいよ……」

「おかしいことなんて分かってる」

 怒り、悲しみ、願望。やり場のない結乃の感情は確かに伝わってくる。なのに、その全てを一ミリも理解できなかった。

 すすり泣く声が聞こえてくる。わたしはそれを耳にしながら、彼女を見つめていた。本当に、彼女が香稲を殺したかどうかは確かめようがない。実際のところは、ただの妄想かもしれない。そうだとしても、結乃の語った気持ちは、本心なのだろう。それだけは揺ぎない事実だとわたしには分かった。


「ねえ茉莉」まだ涙の混じる声音で、彼女が口にする。

「何よ」わたしは恐る恐る近付く。何をされるか分からないから、手の届かない場所に私は立った。


「私を食べてよ」


「これ以上、意味わからないこと言わないで」

「駄目なんだよ」彼女はわたしの言葉に耳を傾けることなく続ける。「全身に力が入んないの。なんかさ、人の肉を食べたら病気になるって言うじゃん。詳しく知らないけどさ。多分、それじゃないかなって」結乃は引き攣った笑みを浮かべた。狂気じみた双眸を向けられると、何だかこっちまで気が狂いそうだ。

「本気で言ってるの?」

「本気」結乃は食い気味に言った。「それにさ、あんたが私を殺して、私を食べたら、ずっと三人一緒だよ」人の神経を逆撫でする声が、鼓膜にへばり付く。こちらへ真っ直ぐ向けた瞳には、わたしの知らなかった結乃の仄暗さが滲んでいた。何なのだろう。彼女は加害者のはずなのに、どうしてここまで被害者面をできるのか。どうしてここまで、自分が悲劇のヒロインだと信じ込めるのか。


「……やるわけないでしょ、この異常者」冷たく言い捨てて、わたしは後退りした。


「どうして? 私の中には香稲もいるんだよ?」否定されたのがショックだったのか、結乃は悲愴な顔を浮かべた。その表情も何だかわざとらしく見えてしまう。


「やらないって言ったら、やらない」

「憎くないの? 私のこと」

「憎いよ。あなたが香稲を殺したことが本当ならね。殺してやりたいくらいに憎い」

「だったら……」

「でもね」わたしは彼女の言葉を遮る。「わたしはあなたと違って、真っ当に生きていたいの」

 目の前にいるのは人間じゃない。人間の形をした、わたしの知らない、別の生物だ。そんな人間をいくら諭したところで無駄だし、分かり合えるはずない。


「仮にでも、あなたを殺して食べるくらいなら、死んだ方がマシ」彼女に背を向けて、わたしは出口へと向かう。

「待って! どこに行くの!」

「付き合っていられないから、先生呼んでくる」


 背後で彼女が、ベッドから落ちる音が聞こえた。その拍子に処置台が倒れるけたたましい音が響く。彼女が四肢に力を入れられないことだけは、どうやら事実みたいだ。床にはわたしの吐瀉物があるし、きっと身体は汚れたことだろう。だけど、わたしは振り返らない。何か叫んでいるけど無視をする。本当に呆れてしまった。狂った様子を見た後だと、やっぱり彼女が香稲を殺したのは、ただの妄想としか考えられない。冷静になると、何だか彼女に対して感情を抱いていたことが、馬鹿馬鹿しく思えてしまう。

 これで決別だ。結局、わたしたちはお互い、理解し合うことなんてできなかった。


 とにかく、先生を呼んでこよう。そう考えドアに手をかけた時、彼女の声は急に一変して、喘ぐようなものになった。

 振り向かないと決めていたのに、たまらず振り向いてしまう。


「ちょっと……!」


 わたしはドアから手を離し、結乃の元へと駆け寄る。床には彼女の首から垂れる血が溜まっていた。処置台にあった鋏を自らに突き刺したらしい。

「結乃! あなた何やってるのよ!」頭を持ち上げ、彼女に呼びかける。鋏は喉に突き刺さったままで、息も荒い。声をかけても反応をしない。誰がどう見ても助からないほどの致命傷だ。


 どうしてここまでする必要があったのか。

 どうして自分で可能性を投げ捨ててしまったのか。

 共に生きたいのなら、共に笑うだけで良かったのに。

 共に死にたいのなら、共に泣くだけで良かったのに。

 そんなことに気付けなかった結乃がいた。

 そんなことに気付けなかったわたしがいた。

 それだけが、わたしたちの過ち。

 心が重ならなかった理由。

 結乃の身体から力が抜けていく。

 わたしの腕の中で、狂った人間の命が消えていく。

 ふと、彼女の手の中を見てみると、何かを握っていた。

 それは白くて小さな軽石のようなもので、見慣れない形をしていた。

「結乃……、あなた本当に……」

 気付いた時、結乃はもう息をしていなかった。


 ただ……。


 ただ、鋏が首に突き刺さった結乃の死に顔は満面の笑みで、

 どこか、香稲の面影があるように見えた。

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アンド・デッド 平山芙蓉 @huyou_hirayama

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