28 紫の光
数粒の涙が、私の目からこぼれ落ちた。
静かだった。大勢の人間が私の周囲を取り囲んでいるはずだったが、なんの物音も聞こえなかった。
その静寂の中、凪いだ心で私はただ、振り上げられたクラリスの剣が私の首を切断する時を待つ。しかし、その時はなかなかおとずれなかった。
暖かい風が、私の頬を撫でる。
私はゆっくりと目を開いた。
目の前の光景に目をみはる。
リュディーの体が紫色の光に包まれていたから。彼女の胸に突き立っていた幾本もの矢は、いつの間にかそのすべてがかき消えていた。胸や口から溢れ出ていた血も消えている。あたかもそんな怪我など最初からなかったかのように。
「リュディー。痛みは、ない?」
私が呼びかけると、リュディーはうっすらと目を開け、ほほ笑んだ。
「よい心地です」
彼女の声に、私は心の底から安堵する。それにしてもなんだろう、この光は。リュディーだけを包んでいるのではない。私は自分の両手に視線を落とす。光は私の手にも宿っている。いや、手だけではない。足にも、おなかにも、胸にも……。この不思議な紫の光は、私の体のいたる所から発していた。そして私の体を中心として、ゆるやかな風に乗り、きらめきを発しながら渦を巻いているのだった。
「おお……。これは」
私の隣でロッシュが声を震わせる。
「ジョセフィーヌ様……」
たった一言、私の母の名を唱え、祈るように手を組み合わせた。
「な、何よその光。ふ、ふん。ハッタリなんか効かないんだから」
呆然と私を見下ろしていたクラリスが、ようやく我に返って剣を振り下ろす。
しかし、その鋭い鋼鉄の刀身は、光に触れた途端、砂のように細かく砕け散った。
「クソっ。弓隊。射殺しておしまい! ありったけの矢を注げ」
前に出てきた弓兵が、至近距離から私めがけて矢を放つ。しかし、何十本という矢はひとつとして私達に届くことなく、瞬時に蒸発した。
「どんどん射るのよ。矢のつづく限り、撃ち続けるの」
クラリスはムキになって金切り声を上げる。弓兵もそれに応じてありったけの矢を放ち続ける。しかし意味はなかった。どれだけ射ようが、一斉に打ち込もうが、私に向けられた矢のことごとくは空気に溶けるように霧散するのだった。
やがて本当に敵の矢は尽きた。射る武器がなくなった弓兵たちは、恐怖に顔をこわばらせて後ずさる。弓を捨て、逃げ出そうとするものもいる。
「ここまで好きにやっておいて、ただではすまさない」
私は紫の光宿る右手をあげ、扇で仰ぐように大きく空気をはらった。
紫色の風が巻き起こる。それは私の体の周りを一周してから、巨大な剣による斬撃ように弓兵たちをひと薙ぎする。
数十名の弓兵の体は一斉に空中に巻き上げられ、群衆のはるか後方まで吹き飛ばされた。
クラリスを睨みつけると、彼女は震えながら、なおも群衆に号令をかける。
「ま、魔女だ。みんな。やっぱりこの女、魔女だわ。殺さなくちゃ。みんなで寄ってたかって、殺すのよ」
「やかましいわ、この、クソ女!」
私は憎悪のすべてを込めて叫ぶと、今度は両腕を広げて空気をかき回した。私のこの身から発する光を周囲にまくように。私を中心にして大きな渦をつくるように。
風が……紫の風が、広場のいたるところから吹き上がる。ゆっくりと静かに、群れをなすクラリスの信奉者たちの足元を払うように。ほどなくそれは速度を増し、合流し、勢いを強め、巨大な流れへと変貌する。
群衆はなだれをうって逃げ出した。しかし彼らはもはや地面をかけること叶わず、ある者は宙に飛ばされまたある者は地面を引きずり回され、渦を巻く風にもてあそばれた挙げ句に、御苑の森の彼方へと群れをなして飛ばされてゆく。
それはクラリスとて例外ではなかった。ステージの足にしがみついてなんとか耐えているものの、干された洗濯物みたいに強風にあおられている。
「こ……の……魔女……め」
最後の力を振り絞って私を睨みつけた彼女は、捨て台詞を絞り出して力尽きた。ステージの足から引きはがされた彼女の身体は、あっという間に空のどこかへと姿を消した。
◯
静けさの戻った広場に残ったのは、私とリュディーとアラルとロッシュの、四人だけだった。私達はしばらく言葉をかわすこともなく、ただ並んでぼんやりと、誰もいなくなった広場と御苑の風景を眺めていた。
今や本当に、世界は静かだった。
醜悪な人間たちのかもし出す騒音はどこからも聞こえない。ただ、小鳥のさえずりが時々頭上から注ぎ、木々のさざめきが風にのって流れてくるだけだった。
その川のせせらぎのような音に合わせて、広場の先の森の木々が、穏やかに揺れている。高く晴れ渡った空から注ぐ、秋の陽を散らして。それが一瞬、アラルの屋敷の庭のそれのように見え、私の胸は詰まりそうになる。
「司法長官が言っていたよ。キャロルには減刑措置がなされるだろうって」
一番最初に言葉を発したのは、アラルだった。
「重くても、流罪だろうということだ。よかったよ。命がたすかって。生きてさえいれば、また会えるから」
私は振り返って彼を見た。
アラルは、泣きそうな顔をしていた。笑みを作ろうとしながら、それがうまくできずにいる。そんな表情だった。愛する人の命が助かった喜びと、彼女の罪を消すことができず離れなければならない悲しみが、その表情には如実に現れていた。
その時、私は決心を固めた。それは舞踏会の事件があってからずっと考えていたことだった。それが正しいのか、本当にそうするべきなのか悩んでいて、口から出すことができなかった。でも今、私はやはりそうするべきだと思う。間違えているかもしれないけど、これが彼らの幸福には一番いいいと思うから。
「アラル。お話があるの」
声をかけてから私は彼と向き合った。
「私。あなたとの婚約を破棄します。アンヌに代わり、王太子妃にならなければならないから」
アラルはしばらく何も言わずに私を見つめていた。その目で私の心を探ろうとしながら。
彼の瞳はこんな事件のあった後でも、変わることなく秋晴れの空のように澄んでいる。その瞳から視線をそらさずに、私は心の中で彼に謝る。ごめんなさい。と。ごめんなさい。キャロルのことで傷ついているあなたを突き放すような真似をして。でも、信じて。これは、あなたのためを思ってのことなの。
やがて、広場の先の森に視線を向けたアラルは、目を閉じて語り始めた。
「実は、僕も考えていたことがあったんだ。キャロルが捕まったときから自問していた。自分にとっていちばん大事なのは何なのか。そして一つの結論に達した。君とも一緒に進めたらいいと思っていたけど……。わかっていたよ。きっと君は、この道を望まないと。君は、修羅の道をゆくんだね」
アラルは目を開け、私を見た。その表情を引き締めて、力強くうなずく。
「わかった。君の幸運を祈るよ」
そして目をぬぐい、笑顔を……今度こそ、晴れ渡るような笑顔を見せてくれた。
「今までありがとう。君のことは忘れないよ。ヴィオレーヌ・ド・ポンデュピエリー」
私はすっかり汚れたスカートのすそをつまんで身をかがめ、彼に最敬礼をする。
「私のような者に目をかけてくださり、ありがとうございました。あなた様のこれからのご幸福を、心よりお祈り申し上げます。アラル・ド・ウィンター様」
顔をあげてからまた、私たちは見つめあう。ふたりとも、これが一緒にいられる最後だと分かっているように。
「ロッシュさん。アラル様を送って差し上げなさい」
ロッシュは何か言いたそうにしていたが、リュディーに目配せされて、渋々私の言に従った。
彼の言いたいことはわかった。私の命を狙っていたのがクラリスだと判明し、そのクラリスを打ちのめしたのだから、私とアラルが別れる理由はもはやないのではないか。と、彼は考えたのだろう。
しかし、私はそうは思わなかった。クラリスと戦って分かったのだ。クラリスはヴィオレーヌという人間そのものを抹殺したいのだ。それは私がどこにいようが変わらない。私とアラルが一緒にいれば、また、今日のようにアラルが危険にさらされてしまう。今日はたまたま不思議な力が働いてクラリスを撃退できたけど、今度はうまくいくとは限らない。だから……。
「だから……」
アラルとロッシュの姿が見えなくなってから、私はつぶやいた。
「私は離れた方がいいのよ。彼が……大事だから」
私の背中にあたたかい感触がのせられる。振り向かなくてもわかった。それは、リュディーの手だ。彼女はゆっくりと、あやすように私の背中をさすってくれた。
その手のあたたかさが、それまで張りに張っていた私の緊張の糸を、ぷつりときった。
涙がたちまち目にあふれ、あっという間に視界が曇った。
私は泣いた。声をあげて泣いた。泣くときに声をあげるなんて初めてのことだった。そんなこと自分は決してしないだろうと思っていたが、胸にしまい込めないほどのものがあふれるとき、たしかに声をあげずにはおれないことを私は知った。哀しいとか寂しいとか、うまく処理できない感情が理性の速度を追い越して噴出するとき、それは泣き声となって喉から絞り出すほかないのだ。だから私は泣いた。理性を停止させて。感情が沸くに任せて、私は泣き声をあげつづけた。
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