24 クラリスの正体

 居間の隣にある小さな談話室に入ると、クラリスは窓辺に寄り、庭を眺めながら大きく伸びをした。


「ああ。窮屈だった。やっと心置きなく話せるわ」


 その口調は自室でくつろぐ子供のようで、それまで目に涙をためていた淑女のそれとはとても思えなかった。


「本当は私、堅苦しいのが大嫌いなの」


 そう言って振り返り、私を見つめてニヤリと微笑む。さっき泣いていたのが嘘のような、屈託のないその笑みだった。


「ねえ、ヴィオレーヌ様。キャロルさんのこと、助けてあげましょうか」

「本当に?」

「まずはそちらにお掛けになって」


 私は促されるまま、部屋の中央にある小さな丸テーブルにつく。クラリスも私の向かいの席に座る。ほどなくクラリスの召使が入ってきて、私と彼女の前に紅茶をおき、去っていった。


「どうぞ召し上がれ。これはシュツーカ産の良質な紅茶ですわ」


 言いながらクラリスは優雅な仕草でお茶をすする。甘い香りが辺りに立ち込める。彼女に倣って私もカップに口をつける。香りから想像していたより、なんだか苦い。しかもどこかで味わったような気が。気のせいかな。


「いかがです。お口にあいますか」

「え、ええ。おいしいわ」

「よかった。あなた様のために取り寄せた、特別な紅茶なのよ。どうぞ、もっとお飲みになって」


 そうか。じゃあ、味に覚えがあるのは気のせいだな。そもそも、紅茶の味の違いなんてよく分からないんだ。田舎の道具屋育ちでそんなに飲む機会もなかったから。そんなことを想いながらもう一口、言われるままにゴクリと飲む。のどが乾いていたのでちょうどいい。それにしてもまずいな。高級なお茶って、こんなにまずいの? 私の舌がお子様なだけだろうか。


 そんな私の様子を眺めていたクラリスは満足そうにうなずくと、話をすすめた。


「ヴィオレーヌ様。先ほども申し上げましたが、キャロルさんは解放して差し上げてもいいですよ」

「本当に? でも、できるの」

「ええ。だって、実はあなた様が思っている通り、あれは私が仕組んだことなのですもの。ただし、標的はキャロルさんじゃなかった。本当はあなたを狙っていたの。だから、キャロルさんはいらないの」


 沈黙が流れる。

 胸が苦しい。やはり、クラリスは私を罠にかけようとしていたんだ。僅かな希望が打ち砕かれたことが、ある程度覚悟していたこととはいえ、悲しく、残念でならなかった。憧れていたのに。信じていたのに。信じたかったのに。


「どうして」

 私は胸を抑えながら問う。どうして、あなたは私を陥れようとしたの。

 最後まで絞り出せなかった私の疑問に、クラリスは何くわぬ顔で答える。

「これ以上、宰相の力が強くなっては困るからよ。あなたは彼の手駒。宰相の勢力伸長を防ぐには、その手駒を消すほかないと思った」


 彼女の言葉に、私の胸はさらに重くなる。それは、彼女が私を狙ったのが先日の罠だけではないことを示唆していたから。

「それじゃあ、ひょっとして……」


 クラリスはちょっと首を傾けて、にっこりとほほ笑む。舞踏会場で紳士淑女に挨拶して回るときのように、楽しそうに、たおやかに。後光がさしているかのような聖母のごとき表情。蚊も殺さぬような優しい表情。その表情を私に向けて、彼女は告白した。


「そう。あなたが宰相家に入ることになってから、私はずっとあなたの命を狙っていた。ホテルや夕暮れの街や、舞踏会で。でも、みんな討ち損じたわ。運のいい人」

「なぜ、そこまでしてあなたは、宰相を。たしかに彼はくえないジジイだけど、彼が悪政を敷いているようには見えなかった」

「彼が善か悪かなんて、どうでもいいのよ。私の前に立ちはだかる奴はみんな邪魔者。だって、私が、この国を支配したいんだから」

「そんなことのために……」


 タリスマンホテルからここに至るまでの、いろんなシーンが私の脳裏を駆け抜けていった。

 ホテルの部屋での乱闘。

 夕暮れの路地での立ち回り。

 私の代わりに毒の杯をあおったアンヌの、苦しそうな表情。

 涙をぬぐったリュディーの後姿。

 朱雀堂に入る前、私に目配せしたキャロルの悲しい笑み……。


 運がいい……ですって?

 私の胸に重くのしかかっていたものが、蒼い炎と化す。それはふつふつと、私の体内にある優しい感情を焦がしてゆく。

 ええ、そうよ。そしてそのために、犠牲になった人たちがいる。それが、個人の欲望のためだったなんて。いや、何らかの大義があったとしても、私は納得できない。それなのにクラリスよ。あなたはどうしてそんなに笑顔でいられるの。パーティーの時みたいに。ゲームをしているみたいに。


「クラリス。私はあなたを許さない!」


 そしてテーブルに手をついて勢いよく立ち上がる。

 しかし、それと同時に突然激しいめまいが私を襲った。視界が傾いたかと思うと、衝撃と痛みが体にはしる。目の前にはこぼれた紅茶でぬれた床。割れたカップの向こうにクラリスの足が見える。


「私の特性の紅茶。効果あるでしょ」


 見上げると、クラリスが後ろ手を組んで嬉しそうに私を見下ろしていた。口の端をゆがめて、喉の奥でクククと声を漏らす。窓を背にして影のかかったその表情にはもはや、かつての彼女の面影はなかった。今や聖女の仮面をかなぐり捨てた、背筋も凍るようなそれはクラリスの歪んだ素の表情だった。


「生かしておくわけないじゃない。あなたはこれから死ぬのよ。だからいろいろ話してあげたの。別に話して聞かせる義理もないけど、悔しがるあなたの表情を見たかったから。思った通りの反応。満足だわ」

「ま……待ちなさい」

「私、申し上げましたよね。貴族として生き残りたければ、常にだれが何をしようとしているのか、目を光らせておくことです。と。あなたはそれができなかった。さようなら」


 憐れむように私を見つめるクラリスに、私は必死に手を伸ばす。しかし手は彼女に届くことなく、力なく床に落ちる。私の意識はそこでふつと途切れた。

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