22 罠

 緋色の絨毯の敷かれた階段をのぼりながら、私は感慨に浸った。

 王太子府に来るのはこれが二度目だ。

 なんだか懐かしいな、と思う。

 初めて来た日からそんなに日はたっていないはずなのに、あの時のことがずいぶん昔のように感じられる。あれから随分いろんなことがあって、いろんなことが変わった。あの日が私にとっては特別で美しい日だった。アラルの勇気と優しさに触れた日。本気で彼と結婚したいと思った日。

 私はあのまま、幸福な人生を歩んでゆくのだと思っていた。


 しかしあの日彼と下った階段を、今私は、違う覚悟を持ってのぼっている。


「本当に、何かあったら私にかまわず逃げてね、ヴィオレーヌ」


 振り返って深刻な表情でそう念を押すキャロルに、私は苦笑いを返す。


「考えすぎよ、キャロル。でも、何かあったとしても、あなたを見捨てたりしないから大丈夫」

「油断しないで。ヴィオレーヌのことは頼みましたよ、リュディーさん」

「もとより承知です」


 キャロルの忠告にもかかわらず、私はこうして彼女とリュディーを伴い王太子府に出向いた。それには訳がある。

 キャロルの言う罠というのが、信じられなかったからだ。

 彼女が言うには昨日ウィンター本家を訪問したとき、たまたまその陰謀について耳にしてしまったらしい。なんでも、廊下の隅でクラリスが誰かと、私を陥れる計画について話していたとか。よく聞き取れなかったので細かい内容についてはわからないが、断片的に聴こえた単語からそれがわかったという。


 その話をきいて私は安堵した。それはきっとキャロルの勘違いだと確信できたから。ほかの人ならともかく、あの聖女のようなクラリスがそのような陰謀をめぐらせるはずがない。きっと聞き違えたのだ。キャロルはクラリスにいい感情を持っていないから、そのような勘違いをおこしたのだと。


 私は罠については心配していなかったが、それでもキャロルはついてきた。

 しかも、王太子と面会するまでの道中、私の身代わりをすると言って。

 正直そこまでさせるのは気がとがめたが、彼女がどうしてもと譲らないので言うとおりにした。今は彼女がヴィオレーヌ役で、私は侍女の役。私のふりをするために、彼女は黒いかつらをかぶって、顔を白く化粧して、紅い口紅をつけている。目の色だけは違うけど、意外と似ているのが驚きだ。


「ねえ、どうしてそこまでしてくれるの」


 侍女役のため目立たぬようにフードを目深にかぶった私は、偽ヴィオレーヌの後について歩きながら、彼女の背に問いかける。


「あの人を……アラル様を、悲しませたくないから」

「でも、私がいなくなれば、あなたはアラルを独り占めできるのに」

「心にもないこと言わないでよ。自分の欲望のためにあなたを見捨てたら、私は金輪際アラル様のそばにいられなくなる。あなたもきっと、そうでしょう」


 私は言葉を詰まらせた。私だったらどうだろう。私がキャロルの立場なら、今の彼女のようにライバルのために身をなげうつことができるだろうか。

 できるかもしれないし、できないかもしれない。わかるのは、キャロルもまた愛する人のために勇敢になれる人だということだった。

 今の私にできるのは、そんな彼女を危険から守ることだけだ。


 何があっても、あなたを守るからね。


 声にならない声で、私は私の身代わりに語り掛けた。


     〇


 階段をのぼったところにある待機の間に、今日はグレゴリーはいなかった。彼は王太子の護衛なので、王太子のいないところにはいないようだ。案内に立ったのは知らない顔の男で、彼は正面にある飛天の間ではなく、右側の廊下へと私たちをいざなった。


 長い廊下を進み曲がったところで私たちはとめられた。


「こちらの部屋で王太子様はお待ちです。どうぞ」


 そう言って案内の男は下がる。


 目の前には、大きな金庫のそれのように重々しい扉が立ちふさがっていた。半開きになったその扉の向こう側は薄暗くて、何があるのかわからない。


 私はキャロルに目配せをした。彼女の役目はここまで。さあ、もとの役割に戻りましょう、という合図を込めて。

 しかしキャロルは何を思ったか、フードをとろうとした私の手を制して首を横に振った。そして私にほほ笑みかけてから、ひとり扉の中へと入っていく。


 止める暇もなかった。すぐに追わなければと足を踏み出したが、扉はキャロルひとりを飲み込んで閉じてしまった。押しても引いても叩いても、開かない。

 私は扉の前で茫然とする。どうしたらいいかわからなくて、とりあえず耳を澄ませてみる。静かだ。扉の向こうで何が起こっているのかわからない。


「ねえ、リュディー。どうしよう」


 振り返ってリュディーにたずねる。周囲を警戒する猫のようにあたりの様子をうかがっていた彼女は、やがて扉の上に目を留めると、わずかに顔色を変えて私の腕をとった。


「まずい。すぐにここから立ち去りましょう」


 言うが早いか、私を引っ張って駆け出す。


「待って。キャロルがまだ……」

「キャロル殿のことはあきらめてください。彼女はもう、助かりません」

「どういうこと?」


 私の問いに答える前に、リュディーは私を抱えて柱の陰に身を隠した。その直後、たくさんの足音が床をとどろかせたかと思うと、何人もの衛兵がさっきの部屋の方へと走っていった。


「あの部屋は、朱雀堂です。軍の最高機密を諮る禁断の部屋です」

「そこに入ることは、悪いことなの?」

「ごく一部の高官のみが入ることを許されています。無断で侵入した者は、死刑になります」


 死刑……。その言葉に私は自分の頭を殴られたような衝撃を受ける。あの部屋に入っただけで死刑になるなんて。それって、つまり、キャロルが死刑になるってこと?


「しかも彼女はヴィオレーヌ様の変装もしている。王太子様をたばかった罪も加算されるでしょう。まず死刑は免れない。それと……」


 リュディーは私の腰を抱えて柱の陰から飛び出した。飛ぶように速い。以前刺客から逃げたときよりも、もっと。一歩一歩、床を蹴るごとにスピードを増し、あっという間に廊下をぬける。


「ここで捕まれば、私たちも、何をされるかわかりません」


 そう言いながら扉を蹴破る。

 扉の先には飛天の間前の待機の間。敷き詰められた絨毯の緋色が目に入る。そして……。


「グレゴリー!」


 私は思わず叫ぶ。待機の間の絨毯の上には、さっきはいなかったグレゴリーが立っていた。

 グレゴリーは私を見ると、こけた頬をゆがめ躊躇なく剣を抜いた。

 おいおい、殺す気か。

 思わず首をひっこめる私の目の前で、火花が散る。見ると、リュディーもまた私を抱えたまま細剣を手にしていた。

 グレゴリーの攻撃が次々に私を襲う。そのすべてをリュディーは軽くはらう。しかし相手も隙はない。くやしいが、グレゴリーもまた、相当の達人のようだった。


「ここで足止めされているわけにはいかない。逃げますよ。つかまって」


 そしてリュディーは、グレゴリーの繰り出したはらいを避けたかと思うと、大きく飛び上がった。

 私とリュディーの身体が大きく宙に舞う。目の前には階下へと続く階段。緋色の絨毯の敷かれたその無数の段の上を、一階フロアに吸い込まれるように飛んで行く。


 階段下の床に足先をつけた次の瞬間にはもう、リュディーは脱兎のごとく前に突き進み、矢のように玄関の間を抜ける。

 一瞬後ろを確認する。グレゴリーの奴は追ってこない。ほっと息をついたところで視界が明るくなる。外に出られたのだ。


 馬車に飛び乗った私たちは、一目散に宰相邸へと向かった。

 後ろ髪をひかれる思いで振り返る。遠ざかる王太子府の建物は、何事もなかったかのように鈍色の空の下に鎮座している。キャロルを飲み込んだそれは、大きく不気味な監獄のように見えた。


「ごめん。キャロル。必ず助けるから」


 私のつぶやきに、隣で馬の手綱をとるリュディーはなにも答えなかった。

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