20 アンヌの真実

 リュディーに連れられてもどってみると、舞踏会場も、大広間の前の待機の間も、右往左往する貴族たちで騒然としていた。男も女も皆一様に緊張した面持ちで落ち着きなく、寄り集まったり離れたり、耳寄せ合ったりし、それがリュディーの態度と一緒に事の重大さを私に悟らせた。これは、ただ具合が悪くて倒れたとか、そんなことではない。明らかにおかしい。何か大変なことがおこったんだ、と。


「ヴィオレーヌ、そこにいたか。帰るぞ」


 人混みを掻き分けて私に声をかけてくれたのは義兄のミカエルだ。宰相家の他の面々はもうすでに玄関ホールに集まり、馬車の出発を待っているという。


「アラル、ごめん。私、行かなければ」

「ああ、気を付けて。お義姉さんの無事を祈るよ。また会おう」

「うん。ありがとう。またね」


 心配そうに私を見つめるアラルに別れを告げ、私もまた、帰路へつくために玄関へと向かった。


     ◯


 はじめて入るアンヌの部屋は、思っていたよりも狭くて質素だった。

 私の部屋の三分の二ほどの広さのその部屋に集まったのは、宰相ラファエル、義兄ミカエル、執事ロッシュ、私とリュディーの五人。そして沈痛な面持ちの彼らに囲まれるようにして、ベッドにアンヌが横たわっていた。


「一体、何があったのですか」


 息を切らせながら問う私に、ミカエルが答える。


「突然息苦しくなって、胸を押さえて倒れたんだ」

「そんな。さっきまで、あんなに元気そうだったのに」


 つい一時間ほど前、私とアラルにアドバイスをしてくれたアンヌの姿を思い出す。私たちの肩を叩いて励ましたアンヌ。かたずをのんで私たちのダンスを見守っていたアンヌ。曲が終わった後に小さく拍手をしてくれたアンヌ。どうしてこんなことに。


「ダンスの後、酒が皆にふるまわれた。ヴィオレーヌの杯も、用意されていた。アンヌは、それに手を付けたんだ」


 ラファエルは手を握り締め、絞り出すように言った。


「……おそらく、毒が入っていた」


 私は横たわるアンヌの顔に視線を向ける。うつろな目で虚空を見上げる彼女の顔は、死人のように青ざめている。


「私の身代わりになったというの。なぜ……」


 言葉が詰まって、つづきが言えない。なぜ、あなたが私のためにそこまでするの。ダンスの時もそう。アドバイスして、励ましてくれて……。あなたは私のことが嫌いじゃなかったの? 下賤の出身として軽蔑していたんじゃないの。だから私はあなたのことを嫌っていたのに。


「ヴィオレーヌ。アンヌから頼まれて黙っていたのだが、この娘はずっとお前を、守ろうとしていたんだ」


 私の肩に手をおいて一緒にアンヌにまなざしを向けながら、ラファエルが教えてくれた。


「はじめは君が王太子と婚約する予定だった。しかしそれは危険な婚約だった。宮廷の慣習で、王室に嫁げるのは中堅貴族の娘と決まっていたから。それをやぶることになるこの婚約には大勢の反対者がいた。脅迫文も届いていた。しかも王太子は冷酷な性格の人だ。それにひきかえウィンター家との婚約は安全で我が家に利益の大きな政略だった。アラルは引っ込み思案だが穏やかな性格だ。それにウィンターの庇護下にあれば誰も手出しができない」

「じゃあ、アンヌがアラルとの婚約を私におしつけて、王太子との婚約を望んだのは……」

「そう。アンヌは、志願して自分が危険な王太子との婚約者になったんだ。君に危険の少ないほうを担わせるために。田舎から出てきたばかりの、貴族に憧れる無邪気な義妹を、守るために。しかもそのために、それまで自分の護衛だったリュディーまで、君につけたんだ」

「そんな……」


 私はアンヌのベッドの前にひざまずいた。

 ずっと、彼女を憎んでいた。彼女は意地悪な義姉だと思っていた。自分の利益のために望まぬ婚約を私に押し付けて、のうのうと王太子妃の地位を手に入れようとしていたのだと思っていた。

 でも、誤解だった。

 それが私を守るためだったなんて。

 きっと彼女は私がこの二カ月かけて知ったことも、はじめからわかっていたんだ。王太子が下衆な人間であることも。実はアラルが噂のような人物ではないことも。多分アラルと結婚した方が幸せであることも。それを知っていて彼女は、それを私に譲ったのだ。幸せになれる道を私に譲り、自分は苦難の道を進もうとした。彼女は最初から、私を思いやってくれていたのだ。あのダンスの時に声をかけてくれたのは、その大いなる思いやりの一端だったのだ。


「ああ、アンヌ。それならあなたはなぜ、私の杯に口をつけたの? それは私が背負うはずだった苦難よ」

「君が襲撃されたと知った時、彼女はとても後悔していた」


 うなだれる私の背後から、ラファエルの声が注ぐ。


「アラルと婚約した君が襲撃されるのは想定外だった。その時初めて、君も安全ではないと我々は悟ったんだ。アンヌは自分を責めていた。だから、君を襲うかもしれないいろんな危険に目を光らせていたんだ。そして今日も、自分の杯と君の杯、両方に口をつけた。ヴィオレーヌ……」


 穏やかだったその声のふるえが次第に大きくなり、やがて湿り気を帯びる。

 音と気配がしたので振り返ると、ラファエルが床に膝をついていた。宰相が、だれもが恐れるこの国の最高権力者が、床に手をつき祈るように私にむかって首を垂れていた。


「ヴィオレーヌ。君に頼みがある。君に、アンヌを治してほしい」

「で、でも、どうやって……」


 急な宰相の懇願に、私は困惑してしまう。アンヌを治せるなら治したい。そんな力が私にあるのなら。でも、私はただのヴィオレーヌ。医者でも魔法使いでもないのだ。


 そんな私の両肩に手をおいてゆすりながら、宰相は言葉を重ねる。

「君はあのジョセフィーヌの娘だろう。わしは何度も見たんだ。彼女が手負いの動物や病気の人を癒すところを。もちろん薬師達も今、必死に薬を調合している。しかし、もし君にあの力があるのなら……」

 そしてすがるように私の顔を覗き込む。その目は最高権力者のそれではなかった。ひとりの年老いた父親のそれだった。


「でも、私は、母の記憶はほとんどないし……」

 戸惑いながらも私は立ち上がり、アンヌのわきに立つ。そんな力が自分にあるとはとても思えない。だけど、もし、あるのなら私はそれを今ここで何としても絞り出したいと思う。その可能性に賭けたいと思う。アンヌを救いたいから。その気持ちは、ラファエルにも劣らないから。


 私は肩の力をぬき、深呼吸してから両手をアンヌの上にかざした。

 呪文か何かあるのだろうか。でも、そんなものはわからないので、手をかざしたまま瞑想する。治れ……。治れ。治れ! そう天に願いながら。


 いったいどれだけの時間そうしていたのだろう。

 私の願いもむなしく、変化の兆しはみられない。その前に部屋の扉が開いて、私の瞑想は終了した。慌しく入ってきたのは、薬師達だった。


     ◯


 アンヌを最悪の事態から救ったのは、私の力ではなく薬だった。

 薬師たちが調合した薬湯によって、アンヌの呼吸は落ち着き、顔色も少しよくなったようだ。しかし、彼らは暗い顔で私たちに告げた。一命はとりとめたと思うが、後遺症は残るかもしれないと。


「どこへ行くんだ。ヴィオレーヌ」

「ちょっと、歩いてきます」

「危険だ。やめなさい」


 叔父の忠告に振り向かず、私は薄暗い廊下へと出た。

 私はリュディーを引き連れて屋敷の中を歩き回った。動揺した気持ちをどうにも落ち着けることができなくて。危険でも、そうせずにはおれなかった。いつかロッシュをつけ回したときと同じように、私は長い廊下を、階段広場を、玄関ホールを、月見回廊を、あてもなく歩き続けた。


 考えること、考えたいことがたくさんあった。しかし、それは何一つ言葉としてまとまることはなく、歩けば歩くほど私の頭からこぼれ落ちていく。ただ、やりきれない思いと悔しさだけが、沸々と胸の中に積もるばかりだ。


 やがて私たちは裏庭に出た。そこはロッシュが手紙の受け渡しをしていた石畳の広場だった。今日は彼らの姿はない。ただ、煌々と照る満月の光が、冷たい明るさで降り注いでいた。


 誰もいない庭のはずだった。

 しかし、じっと眺めていると、その庭の隅に、いくつかの影が浮かびあがって見えた。気のせいかと思い目を擦ってみるが、影は消えない。それどころか、影は数を増やしながら、それぞれ大きくなっていく。


「どうやら、襲撃のようですね」


 リュディーが私のとなりに出てつぶやく。

 たしかに、言われてみればその影たちは人の形をしていて、私たちに近づいて来るように見えた。それぞれの手もとで何かが光っている。武器なのだろう。そうか。私を毒殺し損ねたから、追い討ちをかけに来たのか。たぶん、「チューリップ」の暗殺者なのだろう。シェイダー卿は追放したのに。この者たちを使った本当の黒幕は彼ではなかったということか。


 突然激しいものにかられて、私は一歩前に進み出、影たちに向かって声を張り上げた。


「ねえ、あなたたちを雇っているのは誰? なんで私を狙うの?」


 当然影たちは答えない。しかし構わずに私は声をあげつづける。


「人の命を奪って、何を得たいの? 人の……アンヌの苦しむ姿を見て、何も感じないの。ただ、脅かすことの、何が楽しいの? 答えてよ!」


 影たちは無言のまま大きくなる。今やそれらが人であることははっきりとわかる。その手にはナイフや剣が握られている。ああ、殺されるな。それを見ながら私の思考は妙に冷静だった。


 突然その私の視界を、リュディーのメイド服の背中がふさいだ。


「言っても無駄ですよ。彼らには、問答は通じません。殺らなければ、こちらが殺られるだけです」


 そう語るリュディーの右手にも左手にも、銀色に輝く細剣が握られていた。影たちを睨み付ける彼女の横顔に、一瞬笑みが浮ぶ。……いや、笑みではない。それはよく見ると笑みではなかった。月光に照らされた彼女の顔は怜悧な刃物のように美しく、そして凄惨なほどの怒りに震えていた。


「ちょうどムカついてたところだ。皆殺しにしてやる」


 低く呟くと、彼女は両手剣を構えた。

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