19 本音

 軽やかなワルツの旋律が流れていく。金色のシャンデリアの下を。ピカピカに磨き上げられたモザイク模様の床の上を。会場の壁際でかしこまる紳士淑女の前を。そして私とアラルの鼻先を。まるで春一番の南風が駆け抜けるように。


 しかし、私もアラルも、春風どころではなかった。

 風に乗って舞うどころか、突風にあおられて右往左往する無様なカップルだった。


「いたいっ」

「ご、ごめんなさいアラル。また踏んでしまって」

「いいんだ。これくらい何ともない。それより君も……。あっ。ごめん」

「いったーい。……大丈夫痛くないから」


 この二曲目の途中までにいったい私たちはお互いの足を何回踏んづけたことだろう。十回から先は覚えていない。


 思えば私はダンスなんてろくにしたことがないのだった。ブルジヨン村にいるときに領主の娘アニエスに少し習ったことがあったけど、踊る相手なんかいなかったから。これなら、タケルに練習台になってもらえばよかった。

 苦手なのはアラルも同様のようだ。そりゃそうだろう。もともと舞踏会や宴会が嫌いなんだから。私と踊ってくれるだけでも奇跡的なことなんだ。それなのに……。


 私は不器用にターンをしながら大広間を見渡す。

 今、この会場内で踊っているのは私とアラルの一組だけだ。みんな壁際によって、興味深そうに私たちの醜態を眺めている。


 これって、何の嫌がらせだろう。みんなで私たちを笑いものにして。これじゃあ、まるでさらし者だよ。私はともかく、アラルが可哀そう。せっかく勇気を振り絞ってここまで来ているのに。


「アラル。無理しないで。もう、やめてもいいよ」


 やっと二曲目が終わったとき、私はたまらずに彼に提案した。

 しかしアラルは首を振る。紳士淑女の失笑を背に荒い息を吐きながら、冷や汗を流す顔に苦しい笑みを張り付けて。


「大丈夫。コツがつかめてきた。あと一曲だ。あと一曲、やりとおそう」

「でも……」


 でも、ここまでで十分だよ。アラル。あなたは十分頑張ってくれた。私はいいから。もう、これ以上、自分を傷つけようとしないで。


 そう言おうとしたとき、ひとりの淑女が玉座わきの集団の中から進み出てきて私たちに声をかけた。


「もう一曲。ちゃんとやらなければだめよ」

「あなた。アンヌ……」


 そう。それはアンヌだった。

 私は恥ずかしさと悔しさで唇を噛みながら、彼女から顔を背ける。


「何よ。間近で笑いに来たの?」

「ちょっと、ポーズをとって」


 私の被害妄想はスルーして、アンヌは真剣な目つきで私とアラルの姿勢を確認した。私の腕や肩や腰に手をあて、アラルの足を覗き込む。


「ふたりとも、力が入りすぎよ。もっとリラックスして」

「しかし、こんな状況では落ち着けないよ」

「みんな野菜だと思えばいい。大丈夫。誰もあなたたちなんか見てないわ。自分のおめかしのことで頭がいっぱい。さあ、息を深く吐いて」


 私もアラルも、思わずアンヌの言うとおりに長く息を吐いた。不思議と高ぶっていた心が落ち着きを取り戻していく。無心になって息を吸い長く吐くことを繰り返す。こころなし手の震えも足の震えも収まっていく気がした。


「大丈夫のようね。さあ、ラストダンスよ。楽しんで」


 私たちの様子を見ていたアンヌは、そう言ったかと思うと、私とアラルの肩をポンと叩いた。


「あ、アンヌ。あの……」


 ありがとう。そう言葉をかけようとしたとき、三曲目の演奏が始まった。アンヌはほほ笑みながら私に手を振り宰相の一団へともどっていった。


     〇


 なんでアンヌが私を助けてくれるのだろう。そんな疑問は、ダンスがはじまると風に吹き飛ばされるように私の頭から消えてしまった。


 無我夢中だった。

 私もアラルも、曲から振り落とされまいと、風に乗ろうと、必死にステップを踏み体を回転させた。


 アンヌのアドバイスのおかげか、体は軽い。二曲目までとは大違いだ。もちろん技術的には未熟で、見ている人たちからはやはり拙いダンスに見えるのだろうけど。でも、楽しかった。体の力を抜いて、リラックスして。曲に乗って体を舞わせる。

 いつの間にかアラルの表情が笑みに変わっていた。きっと私の顔も。もっと。もっとこの時間が、続けばいいと思う。


 ターンをしながら会場内を見渡す。私達を嘲笑する人の姿など目に入らない。一瞬、固唾をのんで見守るアンヌの姿が映る。金色のシャンデリアが、ゆっくりと回転していく。天井に描かれた天使が、翼を羽ばたかせながら空を舞う。


 三曲目が終わると、静寂が大広間を支配した。拍手は沸かなかった。私達をあざ笑う声も。


 ただひとりだけ、ゆっくりと手を打ち鳴らしている人がいる。国王陛下だ。その隣の集団の中で、アンヌが小さく手をたたいていた。

 私はアンヌにほほ笑みかけてから、ゆったりと玉座に向かってお辞儀をした。


     ◯


 残る課題はひとつ。求愛行動だけだ。これは舞踏会のラスト。閉会直前にすることになっている。


 我が国の求愛行動には一つの形式がある。

 まず、男の人が女の人の両手を取り、右膝を地面につく。

 次に、女の人が男の人の両手を重ね、かがんでそれに額をつける。


 最後の難関を前に、私達ふたりは少し休憩することにした。賑やかな舞踏会場で注目を集め続け、アラルも私も疲れ切っていた。


 王宮の裏庭に出ると、爽やかな空気が頬を撫でた。九月の宵の空気は、二か月前よりも涼しくて心地よい。夜空にはあの日と同じように満月が浮かび、石畳の小道を照らしている。その光はこころなしか、あの時よりも澄んでいて明るいように感じられた。


「懐かしいね」

 月を見上げて歩きながら、アラルはつぶやいた。

「あの日、君は僕に言った。そんなに夜空が好きなら、私の田舎に引っ込めと」

 私の頬が恥ずかしさで少しあつくなる。

 そういえば、出会ったあの夜、私たちはいきなり喧嘩腰だった。でもしょうがない。あの時はお互いのことがよくわからなかった。先入観も誤解もあった。

「悪気はなかったの。あれは……あなたが私をバカにしたと思ったから、つい……」


 アラルは笑った。そよ風が吹くように。嫌な笑い方ではなかった。私を包むような、私の肩を優しく抱くような、その笑い方だった。


「僕は、それもいいかなと、思ったんだ。でも、それは叶わぬことだとも知っていた。きっと君は、僕のことを好きにはなるまいと、思ったから」


 そしてアラルが立ち止まる。そこは小さな噴水の側だった。あの日私達が……というか、私が一方的に彼にくってかかった場所。月の光を散らしながらほとばしる水の音が、今日もこんこんと闇の底を流れている。


「……君は、いいのかい? こんな僕と結婚してしまっても」

「もちろん!」


 私は反射的に答えていた。そこには一片のためらいもなかった。


「あなたは私に貴族としての生きる道を示してくれた。私はあなたと一緒にいたい。いつまでも。あなたこそ……」


 頬にそばかすのある、赤毛の少女の姿が脳裏に浮かぶ。


「あなたこそ、いいの? 私で……」

「キャロルのことかい?」

「ええ……」


 沈黙がおりる。しばらくしてから彼はまた星空を見上げ、語り始めた。


「彼女は大切な人だ。だけど、結婚はできないんだ」

「なぜ?」

「彼女の祖父はかつて国王に反逆を企てた人だった。そのせいで彼女の家は没落してしまった。彼女に罪はない。しかしルーマンの血は、反逆者のそれとして忌み嫌われているんだ」

「それでも、好きなのなら……」

 私は言いかけて口をつぐんだ。好きという気持ちだけで一緒になれる……。貴族の世界はそんなに甘くないのだろう。彼は侍従長家の跡取りだ。背負っているものが違う。

「ごめん」

「いいんだ」

 そしてまた、彼は軽く笑った。自嘲的な笑い方だった。

「彼女と結婚するには、僕はウィンター家の人間であることをやめなければならない。みんなそれを許してくれないし、僕自身、自分の家を捨てるわけにはいかないんだ」


 そっか。そうだよね。

 私は思わず顔を伏せる。

 最初からわかっていた。家のためなんだ。これは政略結婚。アラルのほうがしっかりしている。夢なんか見てはいけない。好むと好まざるにかかわらず、受けなければならないことなんだ。


 暴走しようとする私の被害妄想を破ったのは、アラルのキッパリとした声だった。


「勘違いしないでほしい。君と結婚したいと思うのは、しょうがなくではないよ」


 その言葉に反応して、私は彼の顔を見つめる。彼の真意を伺うように。その思考を覗こうとするように。しかし、そんなこと、する必要はないことにすぐに気づく。彼の瞳は今日も、この夜空のように一点の曇りもなく澄んでいた。


 私と向かい合ったかと思うと、アラルは私の両手にためらいがちに指をかける。


「君なら、いいと思った。君が、いいんだ。キャロルのことは幼馴染として愛している。だが君のことは妻になる人として愛している。こういうのは、不誠実だろうか」


 私は彼の手を握りしめる。


「いいえ。キャロルもきっと、理解してくれているはず。私はキャロルと一緒に、あなたを支えます」

「ありがとう。ヴィオレーヌ……」


 そしてアラルはその場にひざまずいた。月の光を宿す、その澄んだ瞳で私を見上げながら。


「ええ。アラル……」


 私はその行為に応じて、彼の手を重ねる。そして腰をかがめる。我が国の求愛行動。私達は今、お互いの気持ちを通わせている。誰も見てない夜の庭園で。でも、偽りのない心からの私達の気持ちを。


 私の額がアラルの手に触れようとした、その時だった。


「ヴィオレーヌ様。大変です!」


 女の人の叫び声が、静寂を割いて飛んできた。あれは、リュディーの声だ。いつも冷静な彼女があんなに大きな声を出すのは珍しい。


 行為を中断した私は、顔を上げて彼女に抗議をする。

「ちょっとリュディー。私達、今、いいとこだったんだけど」


 しかしリュディーはそんなことは意に介さず、こわばった表情で私に告げた。


「大変です。アンヌ様が、お倒れになりました」

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