第三章
18 舞踏会②
金の装飾のほどこされた大きな扉を開くと、楽団の演奏と衣擦れの音とざわめきが、奔流のようにあふれだした。
王宮の舞踏会場は今日も前回と同じように大勢の人でにぎわっている。金色の光の中で、ほほ笑みながらスカートをひるがえす貴婦人。彼女たちの手を取りダンスをリードする紳士たち。
扉の開く音とアナウンスされた私たちの名前に反応して、会場の人々が次々とこちらを向く。そして、私たちの姿をみとめた彼らの表情が様々に変化する。
驚く者。眉をひそめる者。笑みを固まらせる者。舌打ちする者……。千差万別だ。ただし、好意的な表情になる人だけはいない。
「大したお出迎えですこと」
私のつぶやきに、アラルは苦笑しながら答える。
「ああ。僕たちは人気者だね。さあ、行こうか」
そして私に腕を差し出した。
私は憮然としたままアラルにうなずき返し、彼の腕に自分の腕を絡め、彼と歩調を合わせて舞踏会場へと踏み出した。
私たちが一歩足を踏み出すごとに前をふさいでいた紳士淑女が左右にさがり、道を開けていく。その人だかりの向こうにひときわきらびやかな集団が見える。大広間の左側と右側に一組ずつ。宰相と、侍従長の一団だ。今日はただの舞踏会ではない。彼等に、私とアラルの結婚の可否を判定してもらう日。私たちの婚約が破棄されるのか、それとも結婚へと進むことができるのか、その運命を決する日だった。
私は一歩一歩、ゆっくりと足を踏み出す。宰相令嬢らしく、威厳をこめて。偉そうに見えるように。余裕があると思われるように。しかし実際は紫のドレスのスカートの中の私の足は緊張でガチガチ震えている。
「よろしくね。アラル」
絞り出した声もふるえている。私はアラルの腕をとる自分の手に力を込める。おそらく冷えきっているであろう私の手に、アラルのあたたかい手が重ねられる。
「ああ。とっとと終わらせて、月を観にいこう」
前を向いたまま、興味がなさそうに言う。いつもと変わらぬ飄々とした彼の態度だった。
〇
今日の舞踏会で仲睦まじい姿を見せること。それが私とアラルの婚約が破棄されないための、侍従長マクシミリアンが示していた条件だ。
仲睦まじい姿……とはずいぶんあやふやな条件だが、具体的な課題が一週間前に提示されていた。
ひとつ。宰相と侍従長の両方にふたりで挨拶する。
ひとつ。三曲、ふたりでダンスをする。
そしてもうひとつ。ふたりが皆の前で求愛行動をする。
ただ、形式的にすればいいのではない。それぞれの場面での、私とアラルの表情と声と態度……。それらすべてを総合して判断が下される。判断を下すのは宰相でも侍従長でもない。主観や利害を排するために、中立の人物にしてもらう。
正直言って、うまくいくという自信は全くない。
その三つはどれもアラルが苦手とすることだ。その行為をこなすだけでも彼には苦痛だろう。それをみんなの前で楽しそうになんて。およそ不可能なことに思える。
しかも私となんて、絶対いやだよね。
私は思ってしまう。キャロルとだったらできるのかもしれない。でも、私ではだめだろう。私は自分が、彼にその苦手なことを楽しそうにしてもらえるほどの相手だと、思うことはできない。
アラルと毎日一緒に時間を過ごし、彼とそれなりに親しくなったとは思う。だけど、それだけだ。彼の優しさや勇気に触れて、私は彼のことを好きになったけど、彼の気持ちはわからない。彼が私のことを好きかどうかは。わかるのは彼が幼馴染のキャロルのことを思いやっているということ。束縛が嫌いで、自由を愛する人だということ。そのアラルが今、二カ月前に出会ったばかりの私と結婚したいとまで思っているだろうか。むしろこんな婚約など早々に破棄したいと思っているのではないだろうか。
それならそれでしょうがない。
私は今宵、紫のドレスに身を包んでから覚悟を決めていた。もし、アラルが嫌なのなら、私は彼の気持ちに殉じよう、と。たとえ今日が貴族としての最後の日となっても。
私は、私の気持ちとは別に、アラルの意思を尊重したい。彼を無理やり私の夫にしようとは思わない。その結果自分が貴族の地位を追われても、それでも私は恨まない。彼のことが……好きだから。
私はただ、運命にこの身をゆだねるだけだ。
〇
楽団の音楽が止んだ。
会場内の紳士淑女のすべてが、カーテンをひくように大広間の左右にさがる。
ひらけた視界の先、広間の正面奥には大きな椅子が設置されていた。椅子の左右にはそれぞれ宰相に率いられた一団と、侍従長を中心とした一団がひかえている。侍従長マクシミリアンの隣には水色のドレスに身を包んだクラリス。相変わらず周囲を圧倒する美しさを放つ彼女は、椅子の前に進み出た私たちに、よく通る声で告げた。
「こちらにおわすは、国王陛下にあらせられます。本日の審査をしてくださいます」
玉座に座る白い髭を生やした老人は、クラリスの紹介に合わせて温厚な顔に笑みを浮かべた。
「ああ。君が宰相のところのヴィオレーヌ君か。アラル君も大きくなったね。今夜はよろしく」
そう、その中立の人とはほかならぬこのアルフール王国の王。ルカ十五世だった。
「きょ、きょくおう、ふぇいきゃにおかれましゅては……」
玉座の前で腰をかがめながら、私は無様に言葉をかみまくった。会場に入る前からの緊張は早くも最高潮に達しつつある。テストはまだ始まっていないけど、すでに泣き出しそう。
「どうしたヴィオレーヌ。顔色が悪いみたいだが」
玉座の左側に座を占めた一団の中から、宰相が、心配そうに私に声をかけてくれる。
私はそんな叔父に一瞥をくれて小さくうなずき、しかしすぐに顔を伏せてしまう。元気よく大丈夫と言ってあげたいところだけど、吐き気がこみ上げて返事ができない。緊張しすぎだ。言葉を発したらついでにさっき食べたサンドイッチも出してしまいそう。
もっとも声を出せたなら、真っ先に宰相を責めたことだろう。あんたのせいだよ、と。確かに中立だけど、国王様とか、ハードル高すぎでしょ。私は今夜初めて実在することを知ったよ。私の中では、歴史上の人物たちと同じくらい遠い存在だよ。
アラルのことを心配している場合ではない。私は自分のこのあがり症について、もっと対策を考えておくべきだった。アラルが声を発する前に、私がもうすでに、この試験をぶち壊しそうではないか。
国王陛下は私が何を言っているのかわからずに、困ったように眉を下げてアラルの方を向く。
「うん。ヴィオレーヌ君はちょっと緊張しているのかな。アラル君は元気かな」
陛下の問いかけに、アラルはなかなか答えなかった。大広間に静寂が降りる。その沈黙に私の動揺は加速する。ああ、きっとアラルも今の私みたいに思考停止に陥って、声を出せずに口をパクパクしているのに違いない。やはり、私たちにはこんな試験は荷が重かったんだ……。
発狂寸前の私が逃げ出そうと立ち上がりかけたその時、意外にも陽気なアラルの声が、思いのほかの大きさでその場に響いた。
「国王陛下におかれましてはご機嫌麗しう。このたびポンデュピエリー家のヴィオレーヌ殿と婚約いたしまして、楽しい毎日を送っております。宰相殿。この縁談をいただけたこと、誠に光栄にございます。貴殿のお嬢様と結婚できる日が待ち遠しいです」
実にはきはきと、明るい声でそう言ってのける。正直別人みたいだ。宰相も、その背後にひかえる人たちも驚いた顔をしている。国王の右側にはマクシミリアンを中心にした一団がいるが、彼らの反応も同じだった。
「アラル。どうしたんだ。具合でも悪いか」
そう、アラルに声をかけた侍従長は、戸惑いの表情すら浮かべている。
しかし、一番驚いているのは私だろう。アラルは本来、こんな愛想が言える人ではない。言ってくれたことは嬉しいけれど、むしろ彼のことが心配になる。いいの? と問いかけたくなる。私との婚約を破棄しなくても、本当にあなたはいいの?
「アラル君。君は……、ヴィオレーヌ君との婚姻を、望むかね」
ルカ国王が、孫に語り掛けるような優しい声できく。するとアラルは、ためらうことなくうなずいた。ほおに笑みを浮かべて。お爺ちゃんからお菓子をもらった子供のように。無邪気に。嬉しそうに。
この時のアラルの表情を眺めながら、ようやく私は理解した。
ああ、この人は、本気なのだと。
それは私だからわかることだった。毎日一緒に過ごし、黙々と彼の表情を見続けてきた私だから。手紙と読書を通して彼と向かい合いつづけた私だから。確信を持って言える。
アラルは嘘を簡単につける人ではない。嘘でこのような表情を作れる人ではない。彼は、本当に私と一緒になってもいいと思ってくれているのだ。
自分の手足に力がみなぎっていくのがわかった。胸の底からこんこんと勇気があふれ出る。
よし。私も。
私は目に意思を込めて顔をあげる。彼の気持ちがわかったから。彼が今、すごく頑張ってくれていることがわかるから。だから私も。私もやらなくては。
私はドレスのスカートのすそをつまみ上げて再びお辞儀をすると、今度はまっすぐにマクシミリアンを見据えて声を発した。
「アラル様にはとっても良くしていただいております。アラル様と婚約できたことはこの上ない幸福です。この先もながく寄り添っていくことができましたら、どんなにか素敵でしょう」
玉座の左右からざわめきがおこる。意外だ。信じられない。そんな声がきこえてきそうだ。ただ、ルカ国王だけが落ち着いた態度を崩さずに、会場に号令をかける。
「さあさあ、皆の者。ダンスの時間じゃ」
その声を合図に、中断していた楽団の演奏が再開された。
さあ、踊りましょう。
意気揚々とアラルの手を取って彼の顔を見上げた私は、しかし息をのんだ。
彼がさっきまでの穏やかな表情とは打って変わって、顔を青ざめさせていたから。
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