17 アラルの勇気
沈黙が、大広間を支配する。王太子様もクラリスもそれからキャロルも、口を開けたまま固まったように表情を動かさない。
しばらくして、その反動のように大きな笑い声が響き渡った。
笑い声の主は、王太子様だった。腹を抱えて、身をよじらせて、彼は笑い続ける。そんなに面白いことを自分は言っただろうかと戸惑うほどの、それは笑い方だった。
「汚い石だなあ。いらないよ、そんな変なネックレス」
それが、笑い終えた王太子様の発した言葉だった。宰相令嬢となってはじめて彼からかけてもらった、言葉だった。
全身の血が、冷え固まったような気がした。その気持ちを整理する暇もなく、彼は言葉を続ける。
「まあ、あの土鍋もいらないんだけどね。汚いし。でも、侍従長の顔を立てなければね。君も大変だよなあ。宰相の命令とはいえ、あんな根暗のアラルなんかと婚約しなきゃいけないなんて。そうだ」
そして王太子様は言った。テーブルに頬杖をついて、とびきりの笑顔で、パチンとウィンクまでして。数分前だったら私はメロメロになったろう。しかしあとに続く言葉は私にとっては平手打ちよりも乱暴だった。
「僕の妾にしてやってもいいぜ。それなら宰相も納得するだろ」
私は彼に言葉を返せなかった。戸惑ったからではない。そんなことは飛び越えて、怒りのあまりに、声が喉に詰まってしまったのだ。
「ふ……ふ……」
ふざけるな! と、言いたかった。タケルを侮辱したこと、アラルを侮辱したこと、私を侮辱したこと、そして私の今までの純な憧れを壊したこと、みんなみんな、謝れ。
しかし、私の怒りの「ふざけるな」は、ついに言葉として発せられることはなかった。
その前にバンと大きな音がして、大広間の扉が開け放たれたのだ。
◯
入ってきたのは、なんとアラルだった。
いつもとは違って厳しい表情をした彼は、なんのためらいもなく王太子の席の脇まで進み出る。
薄笑いを浮かべている王太子と眉を逆立てたアラル。ふたりは大広間の中心でしばらくにらみ合う。
やがてアラルが王太子を睨んだまま、おもむろにその場に膝をついた。
「王太子様。我が屋敷の者が失礼をいたしました。父の申し出の通り、我がウインター家の家宝はあなた様にお譲りいたしますゆえ。この者たちの申し上げたことはどうかお忘れを。もちろんヴィオレーヌもお渡しいたしません」
一気に言い切るとすぐに立ち上がり、唖然とする王太子とクラリスをその場において踵を返す。私とキャロルの横で一回立ち止まった彼は、さっきとは打って変わった優しい声で言った。
「さあ、ふたりとも。帰るよ」
そして私達三人は一緒に大広間をあとにした。
飛天の間の外では、まだリュディーがグレゴリーと睨み合っていた。
「ありがとう。リュディーさん。おかげで二人を取り返せたよ」
アラルが声をかけると、リュディーはこちらを一瞥してひとつうなずいた。グレゴリーとの対峙をやめ、私達のあとにつく。
「それではごきげんよう。下郎殿」
そんな捨て台詞を残して。彼女が余計なセリフを吐くのは珍しいことだ。よっぽどこの男が嫌いなのだろう。私もそうだけど。
◯
王太子府を出てから、私達はアラルの4頭立ての馬車に乗せてもらってアラル邸にむかった。彼の馬車はもちろん私のボロ馬車のようなむき出しの客席ではない。箱型の豪勢な車両の中にアラルと私とキャロル、そしてリュディーの四人がゆったりと座れた。
「それにしても……」
しばらく客席のソファと快適な乗り心地を堪能したあと、私はおずおずとアラルにたずねた。
「どうして、来てくれたの?」
そう。今日王太子府に行くことはアラルには内緒だった。キャロルも買い物に行くということにして、町中で待ち合わせたのだ。それなのになぜ、彼はあの場に登場できたのだろう。
「ロッシュさんが教えてくれたんだ。キャロルと一緒に王太子に謁見するらしいと手紙で知らせてくれてね。もしかしてと思った」
「ヴィオレーヌ様のお覚悟については、私があの場でお話させていただきました」
そう告白したのはリュディーだ。
こいつめ。と、私は彼女を軽く睨む。意外だ。どうせ誰にも言わないだろうと思って、前の晩に自分の作戦をペラペラと彼女に喋ってしまったのは、うかつだったか。
「申し訳ありません」
リュディーは深々と頭を下げる。そんなふうにしおらしく謝られたら怒ることもできない。彼女なりに私のことを思ってくれたのだろうし。
「いいよ、リュディー。ありがとう。それにしてもアラルはよくあの扉を突破できたね」
「リュディーさんがグレゴリーの奴を抑えてくれたからね。ありがとう。何から何まで、世話になったよ」
「……アラル様の心意気に、感服したからです」
そう言ってリュディーが、ほんのわずかだけ、頬をほころばせた。
すごいなアラルは。
リュディーのかすかに日がさしたような表情を見ながら、私は感心してしまう。あのリュディーにこんな表情をつくらせるなんて。
それにしても……。
車窓に視線を移して私は小さくため息をつく。過ぎゆく建物の屋根のむこうに王太子府の尖塔がまだみえる。
私はあそこに何しに行ったのだろう。あれだけ大騒ぎして、結局、何も得るものはなかったな。
「良かったの? アラル」
車窓からアラルに顔を向けて、私は問うた。彼に一番聞きたかったこと。
「大事な土鍋をあげちゃって。それで、よかったの?」
するとアラルは、ほほ笑みながらうなずいた。
「いいんだ」
ためらいなく答えると、覗き込むように私の目を見る。はじめてきちんと見るかもしれない、彼の瞳はとても綺麗な青色をしていて、そしてとても澄んでいた。
「誰かの大事なものを犠牲にしなければ手元に置けないのなら、それは僕の宝じゃない。それよりも、君たちが僕のためにここまでしてくれたことが嬉しかった。それこそが宝物だよ。……ありがとう」
その瞬間、王太子の言葉で凍りついていた私の血が、一気にとけて流れ出した。春の日だまりのように暖められた血液は、私の手足を、お腹を、胸を、頬を、頭を駆け巡ってゆく。
意外ではなかった。
ほんとは、私は知っていた。アラルがこういう人だということを。一緒に読書の時間を過ごすことで、そしてやり取りした手紙で。
しかしどこかで信じきれていなかった。王太子への愚かな憧れが妨げていたのかもしれない。クラリスの話や舞踏会で聞いた噂が私の目に膜をかけていたのかもしれない。
しかし今……彼の勇気ある行動を目の当たりにし、彼の偽りのない言葉を聞いた今、私は確信する。
この人は、いい人だ。と。
私は私の全身で思う。この人と出会えてよかった。そして彼と一緒にいられることが、とても誇らしい、と。
◯
その日は、アラルの屋敷でランチをご馳走になって、午後のひと時をいつものように読書をして過ごした。
いつもと違ったのは、キャロルが意地悪をしてこなかったこと。
帰り際、玄関から出ると寂しさが私を包んだ。自由に生い茂る庭木。門まで続く石畳の遊歩道。道の脇の植え込みに咲き乱れる、色とりどりの花。それら全てに午後の光が散り、白く眩しくきらめいている。ああ、いつまでもこの景色を見ていたい。
「ねえ、キャロル。怒らないでね」
私は振り返ると、見送りに出ていたキャロルに声をかけた。
「私、本気で、アラルのことが好きみたい」
キャロルは少し目を見開いて私を見てから、口に手をあて、クスリと笑った。
「やっとアラル様のよさがわかった? いまさらよ」
そして去ろうとする私に手を振ってくれた。彼女がそんなことをするのは、初めてのことだった。
〜 〜 〜
タケル。
今日はとても素敵な日だった。え? 大騒ぎして何も得るものがなかったと言ってたじゃないか。ですって?
……まあ、土鍋を取り戻すことはできなかった。だけどその代わりに私は大切なものを発見できたの。
それはね。アラルという人の勇気と優しさ。
今日は彼と婚約できて本当に良かったと思えた日だった。
私は今、心から、彼と結婚したいと思う。彼と寄り添う人生は、どんなに豊かなものになることでしょう。
私もいつか、そんな彼に同じような勇気と優しさを示せる日が来るのかな。私と結婚して良かったと思ってもらえる日が。
そんな日が来るといいと思う。いいえ、その日が来るよう私は努めようと思うの。
私は今日初めて、自分が貴族になった意味を、貴族としての自分の道を見つけたように思う。
タケル、あなたはどう思う? こんな私を応援してくれたら、とても嬉しい。
まずは舞踏会ね。私の運命を決する日。もうあと数日に迫っている。緊張するわ。とても緊張する。
でも、必ず成功させてみせる。きっと私たちはうまくいく。そう、信じているの。私はアラルを信じる。あなたが私を信じてくれたように。
タケル。どうか私を見守っていてね。
もう寝ないと。それではおやすみなさい。
あなたの友 ヴィオレーヌ
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