12 義兄ミカエル
親愛なるタケル。
記念すべき初めての手紙をアラルに出したわ。書くのに二時間もかかった。なれないからだろうけど、文を書くのって簡単なようでなかなか難しいね。こんなこと書いては失礼だろうかとか、これで伝わるかとか、考えるうちにわけがわからなくなる。書いては読み返し書き直すうちに時間はあっという間にすぎてしまった。
あののんびり屋のアラルが返事をくれるかなと、ちょっと心配だったけど、驚くべきことに私が出した翌日にアラルからの手紙が来た。すごい。しかも、几帳面な字でたくさん書いてある。文章もとても上手。大人びていて、でも木訥で彼の顔が浮かぶよう。
彼には文才があるのかも。私とは大違い。
それはそうと、彼の手紙の中に彗星のことが書いてあった。あなたは知ってる? 何十年かに一度、夜空に浮かぶ青白い光なんだって。それが明日の夜空に見ることができるらしい。私は見たことがないし、よくわからないのだけど、月とも星とも違うのだとか。想像もつかないわ。
明日の夜はぜひともそれを観たいと思う。そしてアラルにその感想を書いて伝えよう。その前に、予習をしておかなくちゃ。屋敷の図書室に行けば、なにか関連する書籍があるはず……。
〜 〜 〜
図書室は、私の住む東棟の一階の一角にあった。
図書室、というよりは図書館といったほうがいいだろう。吹き抜けの二階構造になっていて、壁一面見埋め尽くした本棚に、ぎっしりと本が詰まっている。
本棚の隙間に僅かにある窓から午後の光が差し込んでいる。敷き詰められた紺色の絨毯に這うその光を踏む者はいない。館内には誰もおらず、非常に静かだった。
「まいったわね。こんなに本があると、どこを探していいかわからないわ」
本棚を見上げて歩きながら、私は誰にともなく呟いた。今日は珍しくリュディーが一緒じゃない。彼女は最近私に付けられた掃除係の新人メイドに、仕事を教えているのだ。
もっとも、彼女がいても本の場所なんかわかりはしないと思うけど。「どこにあるのかしら?」「存じません」というやり取りができないのは何だか物足りない。
そんなことを考えながら棚から適当な本をぬいて、開いてみる。「薬草学と美容」これじゃない。
「なんの本を探しているんだい?」
という声が突然頭上から降ってきて、私は手にした本を取り落とした。
背の高い脚立が隣にあって、見上げるとその上に男の人がひとり座っていた。
「珍しいね。ヴィオレーヌ。君がこんなところにくるなんて」
そう言ってほほ笑んだのは、義兄のミカエルだった。
◯
私より五歳年上のミカエルは、政務官として宮廷に仕えている。二十ニ歳といえばアラルと同い年らしいのだが、偉いものだ。普段は王宮に出仕しているので、なかなか宰相邸で遭遇する機会がない。
私が図書室に来るのが珍しいと言われたが、こうやって館で会って言葉をかわすこと自体、珍しいことだ。
「……彗星について、調べようと思ったのだけど、どこにその本があるかわからなくて」
私が今しがたの彼の問いに答えると、ミカエルは前髪をかきあげて何かを考えるように目を閉じた。
アンヌと同じ少し癖のある金髪は、しかし妹のそれよりくすんで見える。それは彼の顔色の悪さのせいかもしれない。ミカエルの顔の色は透きとおるように青白く、目の下には疲れがにじみ、頬はこけている。はかなげで、まるで病気の人みたいだ。
「ああ、それなら……」
目を開いたミカエルは、咳き込んでからゆっくりと脚立から降り、奥の棚へと歩をすすめた。
彼が足を止めたのは、同じ壁側の一番奥の列だった。しばらく棚に並ぶ本たちとにらめっこをしていた彼は、やがて一冊の厚い本を取り出す。
「天文学の入門書だ。これになら載っていると思うよ」
受け取ったその本はずしりと重かった。ページを開いてみると、目次に彗星の項がちゃんとある。
「ありがとう……」
私が礼を言うと、ミカエルはそのコケた頬に笑みを浮かべた。
「天文学に、興味があるの?」
「ええ。明日の夜、彗星がみれると、アラルが教えてくれたので」
「ああ。アーニャ彗星のことかな」
「知ってるの?」
「まあ、詳しくはないけど。ロマンチックだよね」
意外だった。宰相の跡取りであるミカエルは、やっぱり政治や権謀のことしか興味はない、と思っていたから。まさか彼の口からロマンチックなどという単語を聞くとは。
「あ、あの……。義兄上は、何の本を探していらっしゃったの?」
その時私は、知りたい衝動にかられてしまった。それに、私ばかり目当てのものを見つけてもらって悪いし。だからついつい、申し出てしまう。
「もし、よろしければ、私にも手伝わせてください」
ミカエルはパチクリと瞬きを繰り返してから、私を見つめるその目を細くした。
「じゃあ、手伝ってもらおうか」
〇
メルデンという人の著作を探してくれ。
ミカエルはそう私に言った。私の知らない作家だ。ひょっとしたら政治家とか法律家なのかもしれない。ミカエルは宰相の後継者だから、勉強も大変だろうと思う。
何はともあれ、言われた作家の本を求めて本棚とにらめっこしながら、私はこの普段は接することのない義兄ととりとめもない会話をした。
「屋敷の暮らしにはもう慣れたかい」
「ええ。でも屋敷の広さにはまだ慣れません。どこに何があるのかもわからない。この前ロッシュさんの部屋に行ってびっくりしましたわ」
「ロッシュはいい人だろう」
「ええ。アラルに手紙を書くよう勧めてくれたのは彼です」
「アラルとは、うまくいってる?」
「わかりません。ただ、私も読書は好きなので趣味は合いそうです。彼との手紙のやり取りもおもしろそう。まだ、上手く書けないけど」
「そうか。それはいいことだ。はやく会いたいだろうね。外に出られないのはつらかろう。ブルジヨン村では、こんなふうに部屋に閉じ込められることもなかったろう」
「ええ、まあ……」
そういえばそうだったな。私は故郷での日々を思い出す。勉強や読書のために机に向かっていることも多かったけれど、外出したいときには好きなように出歩いた。仕事や生活のためにということもあったけど、あれはあれで充実していた。森に薬草を採りにいったり。薬草を売り歩いたり。そうそう、そういえばタケルと一緒に山賊をしていたアルベルトに会いに行ったこともあったっけ。
その話をすると、ミカエルは遠くを見るような目をしてほほ笑んだ。
「楽しそうだな。いいね。君は、健康だな……」
そして激しく咳き込む。口を手で押さえてしばらく苦しそうに肩を震わせる。
「……健康であれば、何だってできる」
顔をあげた彼は、絞り出すようにそう言って、深くため息をついた。
「義兄上は、お具合が悪いのですか」
「ああ。生まれつきだよ。生まれつき、身体が弱いんだ」
「そうですか……」
生まれつき身体が弱い。それがどの程度のものなのか、そういう身体でいることがどんな感覚なのか、私にはわからない。あいまいに相づちをうって、また本探しに没頭することにする。
「あ。あった」
まるでそれが会話の打ち切り時だという合図であるかのように、その本は私の目の前にあらわれた。
メルデン著「植物の発生の仕組み」。何、これ?
「ああ。ありがとう」
本を受け取ったミカエルは、愛おしそうにその表紙を撫でた。
「それは……」
「植物学の本さ」
「植物学?」
私は想わず聞き返してしまう。植物学? 政治学でも法律書でもなく、植物学。どうして。
私の疑問は顔に出ていたのだろう。彼は本に視線を落としたまま、私に告白してくれた。
「僕の趣味さ。僕はね。本当は、植物学者になりたかったんだ」
「でも。あなたは宰相の後継者で……」
「だから、望みをあきらめてこの道に進んだ。だけど、捨てきることもできない。ねえ……」
そしてようやく彼は本から目を離し、私に顔を向ける。真剣な、誠実な瞳で私を見つめ、問いかける。
「ヴィオレーヌ。君は、どうして貴族になりたかったの。お父さんや親しい人たちと離れ、自由な充実した生活を捨ててまで」
「それは……」
それは、うまく言葉にすることはできなかった。ただ、昔から渇望していたことだ。のどが乾いたときに水を欲するように。空腹時にパンを欲するように。私はいつもそれを欲していたのだ。なぜ欲するのかと問われても、なぜのどが乾くのかという問いに答えられないように、答えることはできなかった。
私が返答に窮していると、ミカエルはその場の空気をほぐすように表情を和らげた。
「ごめんね、困らせてしまって。そうだ」
そして悪戯っぽくウインクして言った。
「明日、一緒に彗星を見ようか。天体観測にいい場所があるんだ」
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