11 手紙

 親愛なるタケル。


 執事のロッシュさんに誘われたので、今日は彼の部屋を訪問した。

 変な勘違いもしちゃったから、謝らなきゃとも思ったしね。私がつけていたことにロッシュさんは気づいていたんだって。どうしてそんなことをしていたのかきかれたけど、うまく答えられなかった。「執事の仕事に興味があったの」とごまかしたけれど、信じてもらえただろうか。


 まったく恥ずかしい。リュディーも黙ってないで私を止めてくれればよかったのに。そのための侍女兼護衛兼教育係でしょうが。え? 止めてもどうせお前はきかずに突き進むだろうが、ですって? そ、そうかもしれないわね。そしてあなたがいたら、きっと面白がって私をけしかけたかもしれない。そして失敗した私を見て、意地悪く笑ったことでしょう。


 ロッシュさんに話を戻しましょう。私が彼の部屋を訪ねたのはお昼の休憩中。実は、この館に来て自分以外の誰かの部屋を訪ねるのは初めて。ちょっと楽しみだった。きっとみんな豪勢な部屋を持っているんだろうなと想像していたから。彼の部屋に入ってびっくりしたわ。だって……。


   ~ ~ ~



 ロッシュの部屋に入った私は、その内装の想像とのギャップに言葉を失った。


「どうぞ、奥までお入りください」

 床に置いてあった箱をどけて椅子を出しながらロッシュはにこやかにきいてくる。

「いかがですか、私の部屋は」

「なんていうか……」


 次の言葉が見つからなくて、口を開けたまま私はもう一回室内を見渡した。なんていうか、質素だ。そして狭い。私の部屋にあるベッドを三つも並べたら足の踏み場もなくなってしまうくらい。そこに簡素なベッドと本棚と机が置いてあるだけだ。装飾もない。街のアパートの一室と言われてもわからないだろう。


 すすめられた椅子に座るとギシギシ音がした。そろえた膝の上で両手を合わせ、緊張する私の前にロッシュがポットから入れたお茶を出してくれた。机の上にも書類が山積みで、お茶のカップを置くともう他のものはのせられない。


「すみません。散らかっていて。汚い部屋でしょう」

「ええ……。いや。いいえ。でも、意外です。だって天下の宰相家の執事が……」


 こんなみすぼらしい部屋で暮らしているなんて、と言いかけて私は口をつぐんだ。これ以上失礼なこと言って恥の上塗りをするまい。もう私は口を開かない方がいい。

 自分を戒めながらお茶に口をつける。しおらしい娘を装いながら。なんだか気まずい。やっぱり来るんじゃなかったかな。


「大切なのは、装飾ではありませぬゆえ。たとえみすぼらしい住まいに暮らしていたとしても、心が高貴であれば、それは貴人と言えます」


 思わず私は顔を上げて彼を見る。その言葉は私もよく知っている言葉だった。小さいときから、よく聞かされてきた言葉だったから。


「これは、若い頃さるお方から言われた言葉です」

 そう言ってはにかんだようにロッシュは笑う。一瞬……一瞬だけだけど、彼の姿に父のそれが重なったような気がした。貴族の世界が性に合わなくて、宰相家から出ていった父……。そういえばこの人は、父にも仕えたことがあるのだろうか。


「父を……覚えていますか」


 ロッシュは優しげに目を細めて私を見、そしてうなずいた。


「覚えておりますよ。ミシェル様も、奥方様……あなたの母上ジョセフィーヌ様も」

 思わず私は身を乗り出す。

「どんなふうだったの?」

「お二人とも、とてもお優しい方でした。……貴族の世界に身を置くには、優しすぎました」

「あなたも……」

 うつむいて目をしばたたかせるロッシュの姿を見つめながら、私は思わずこぼしてしまう。

「あなたも、とても優しそう。宰相の家来は、つらくない?」


 するとロッシュは、私をみて笑った。

「私はこの宰相家にお仕えできることを、光栄と思っておりますよ。あなた様のこともお守りする所存です。そうそう……」

 そして机の引き出しをあけて、中からたくさんの紙を取り出した。

 私に差し出してくれたそれは、封筒だった。そのどれにも同じ筆跡で、同じ宛名が書いてある。

「私は今日、これをあなた様にお見せしたかったのです」

「これは、何?」

「手紙です。娘からの」


 ロッシュは優しい声でそう言うと、その封筒の一つ一つを丁寧に撫でた。慈しむように。まるでそこに娘さんがいるように。


「娘は今、寄宿しながら地方にある学校に通っていましてね。彼女と時々手紙のやり取りをしているのです。これは、私の宝物ですよ」


 そして封筒に落としていた視線を私に向ける。その慈愛を宿したまま、そしてそこにひとつの意思を込めて。


「ヴィオレーヌ様。アラル様と会えないお辛さ、お察しします。いかがでしょうか。アラル様にお手紙を書かれては」


 手紙を書く……。アラルに向けて。それは私の思ってもいなかった提案だった。確かにそれは面白いかもしれない。この屋敷から出れない今、やることもなく退屈な時間を過ごしている私に、それはひとつの活力を与えてくれるかもしれない。でも……。

 私は浮かびかけた笑みを陰らせて、うつむいてしまう。


「私の手紙なんて、もらって嬉しいかしら。何書いたらいいかもわからないし」

 私からの手紙なんか、きっと誰も待ってはいない。アラルだって今頃、私のことなんか忘れて今まで通り読書をしているのでしょう。

 席から立ち上がりながら、私は付け加える。

「……父からだって、もらったことがないの」

 そう。誰も、私と手紙のやり取りなんかしたいと思っていない。私は誰からも、愛されていないのだから。


 忘れかけていた孤独感が私の胸をつかむ。私のこの気持ちはきっとロッシュにはわからない。大勢の使用人に慕われ、娘と仲良く文通している彼には。

 やはり来るんじゃなかった。そう後悔しながら、私はロッシュの部屋を辞去した。


     〇


 それからまた数日、私は退屈な日々を過ごした。

 結局手紙は書かなかった。書こうとしなかったわけではない。リュディーが珍しく教育係の面をして私に勧めてきたから。ロッシュの言う通り、書いてみたらどうですかって。だから、机に向ってはみたのだ。でも、書くことができなかった。便せんを取り出し、筆をとってみるものの、やはり言葉は私の頭に浮かんでは来なかった。書けない。例えば王太子がアンヌに書いたような、流麗でロマンチックな言葉なんか、何一つ私の頭の引き出しには入っていないのだから。


 そして筆を投げ出し、私は今日もベッドに寝そべって、怠惰な午後を過ごす。


「今日は、お書きにならないのですか」


 リュディーの問いに返事をせず、私はそっぽを向くように顔を窓の方に向ける。窓辺には小さな白塗りの机が置かれていて、その上には失敗して丸められた紙がいくつも転がっていた。


「書けない。……私には」


 誰に言うともなく私はつぶやく。書けない。私には。そして、アラルと心通わせることも。

 このまま私はこの館から出られず、もし出られたとしても、アラルの屋敷に通って何が得られるのだろう。彼と一緒に読書をして、それでどうなるのだろう。アラルはキャロルのことを思いやっていて、キャロルはアラルのことが好き。そこに結局私の居場所はない。もしうまく結婚までこぎつけたとしても、それで私は幸せなの? そこまでしてしがみつく価値が、貴族の地位にあるのだろうか。


「ねえ、リュディー。私……」


 いっそもう、すべてをあきらめて、故郷に帰ろうかしら。

 そう、口に出しかけたときだった。

 部屋の扉を、誰かがノックした。

 ベッドに寝そべって窓の方を向いたままの私をおいてきぼりにし、リュディーが扉へ向かう。扉を開ける音と小さな話し声がし、そしてすぐに部屋は静かになった。

 扉が閉じる音に続いて足音が近づいてきたかと思うと、私の目の前でメイド服が止まった。

 見上げると、リュディーが例の無表情で私を見下ろしながら、白い封筒を突き出した。


「あなた様にお手紙です。お父上からの」


 私の心臓が大きく鼓を打つ。それを受け取った私は、ベッドの上に身をおこし、中の紙を震える手で引き出した。


   * * *


 親愛なるヴィオレーヌ。


 元気にしているかい。屋敷での暮らしにはもう慣れたかな。わしは、お前のいない生活はいまだに慣れないな。でも、モルガンやアルベルトといった友達が助けてくれるから、大丈夫だ。


 先日、アルベルトに誘われて、湖で釣りをしたよ。全然釣れなかった。お父さんは釣りが下手だな。でも、晴れた日に船に揺られているのは気持ちがいい。そしたら、ふと、昔のことを思い出した。お前がまだ小さい頃のことだ。一緒に舟遊びをしていたら、買ったばかりのお前の帽子が風で飛んでいってしまったことがあったね。お前は泣きもせず、唇を噛みながらじっと湖面を見つめていた。


 お前は泣かない子だった。今も、きっと泣かずに頑張っているんだろうな。そう思うと、お父さんのほうが泣けてきた。

 ヴィオレーヌ。たまには泣いてもいいんだよ。それは恥ずかしいことじゃない。


 それでは、体に気をつけて。フリュイーの夏は暑いだろう。勉強に夢中になりすぎず、ちゃんとご飯を食べて。水分も適度にとってね。

                                           

                     ミシェル


   * * *


 読み終わった私は、折りたたんだその手紙を胸に抱きしめた。腕がふるえている。胸もふるえている。……いや、それよりももっと奥の部分がふるえている。そのふるえる己を抱くようにして顔を伏せ、私は目を閉じる。


 こんなにも……。


 ベッドの上に座り込み手紙を胸に抱いたまま、私は思う。

 こんなにも、手紙をもらうということは、嬉しいことなのか、と。

 それは決して上手な文とは言い難かった。王太子のそれのようなロマンチックな言葉も、流麗な表現も使われてはいない。だけど、間違いなく父からの手紙は、その言葉は、私にはかけがえのない美しいものだった。


 今になってわかる。王太子の手紙を読みきかされた時にうらやましくも感じなかったのは、それが私に向けられたものではなかったから。そして、通り一遍の常套句ばかりだったから。アンヌにとってどうなのかはわからない。しかし私にとってあれはただの言葉の連なりだった。


 でも、父からの手紙は違う。ここには彼の心がこもっている。彼の私に対する思いやり、慈しみが、あふれている。その一文一文に。一語一語に。

 そして唐突に私は理解する。そうだ。このように書けばいいのだと。私もこのように、飾らぬ言葉で、自分の気持ちを込めればそれでいいのだと。


 もちろんまだアラルに家族に対するような感情は持てていない。そのような間柄になれるのかもわからない。でも今はそれでもいい。たとえ家族のような慈しみでなくても、恋人のような愛情でなくても。それでも、今の私の今の出来事や気持ちを、気負わずに、飾らぬ言葉でつづろう。ひょっとしたらその先に、自分の居場所を見出すことができるかもしれない。

 やってみよう。あきらめるのはまだ早い。できることがあるのなら、まだ。


 私はベッドからおりると、窓辺の机へと向かった。


「リュディー。手紙を書こうと思うわ」


 振り返って彼女に笑いかける。

 リュディーは私のその言葉を予測していたかのように、新しい便せんを捧げ持っていた。何も言わずにそれを私に差し出す。

 気のせいだろうか。

 少し……ほんの少しだけ、人形のようなリュディーの表情が、笑みのような形をつくりかけたようにみえた。

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