9 襲撃者
親愛なるタケル。
アラルの屋敷に通うようになってから二週間。少しは彼とまともに時間を過ごせるようになってきたわ。といっても、一緒にいて邪魔物扱いされないという程度だけど。読書のお陰ね。私も彼の本を読ませてもらえるようになったから。
アラルの蔵書は本当にたくさんある。多いのは物語。恋愛ものばかりでなく、歴史物や冒険もの、ノンフィクションなど多岐にわたっている。物語以外にも、法律や歴史や哲学や科学の本もある。まるで図書館みたい。意外と彼は勉強家だということが最近わかったこと。あなたとは大違いね。
キャロルとの戦いも今は小康状態を得ている。和睦はしていないけれど、大きな戦闘も最近はない。アラルの本を持ち歩いてるからでしょう。たまに苦いお茶を入れてくれるけど、水はかけてこなくなった。
その代わりに最近私を悩ましていることがある。
お話ししたかしら。私が以前ホテルで襲撃されたこと。あれ以来襲われることはなくて安心していたのだけれど、最近また、怪しい影が私の近辺をうろついている、らしいの。
らしい、というのは、リュディーがそう言っているから。私は何も気づいていないのだけど、また、襲われたりするのかな。ちょっと、怖いなぁ……。
~ ~ ~
その日は、珍しくアラルから夕食を一緒に取るように誘われた。
正直意外だった。アラルは絶対にひとりで食べるのが好きなタイプだと思っていたから。少しは私は彼の信頼を勝ち得ているということなのだろうか。だとしたら大変喜ばしいことではある。
……と思っていた矢先に、キャロルからその理由を告げられた。
「今日はウィンター家で晩餐会があるの。それに参加するのが嫌だから、その口実にあなたを誘っただけよ。調子にのらないことね」
フンと小憎らしく鼻を鳴らしてそっぽを向く。通常運転のキャロルだ。突然優しくなるよりむしろ安心するよ。
アラルの屋敷に勤めているのはキャロルと、あとは馬丁のおじいさんだけだ。掃除洗濯、みんなキャロルがやっている。もちろん、食事も彼女がつくる。
夕食は大貴族の御曹司にしては質素だった。
かぼちゃのスープに、夏野菜を使ったサラダ。ジャガイモのパンケーキに鶏肉の蒸し焼き。
悔しいけれど、どれもおいしい。美味しいけど……。
「どうしたんだ、ヴィオレーヌ。怪訝そうな顔をして。口に合わないかい」
「い、いいえ。とっても美味しいですわ」
「そうだろう。キャロルは、料理も得意なんだ」
そう。アラルの言う通り、美味しい。だけど物足りないというか、おかしいと思うところがあった。
それは、どの料理もまともすぎるということだ。美味しすぎる。入っていないのだ。あの得体のしれない薬草が。キャロルならば絶対どれかに入れてくると思っていたのに。ドレッシングもソースも、普通においしい。ジュースもちゃんとオレンジジュースの味がする。こんなのおかしい、絶対に。
不審に思っている間に料理は終わり、ついに残すはデザートのみとなった。
ここにきてようやく、私はキャロルの恐ろしい計画に気づく。ああ、神様。この世にかくも恐ろしいことを考えつく人間がいるなんて。
絶望に打ち震えながら、私は運ばれてきた小さなお皿の中を覗き込んだ。
やはり。
そこにつつましく鎮座している可憐なケーキには、見るも無残なほどに紫色のパウダーがふりかけられていた。見るからに毒々しくて、まずそうだ。
「私自慢の、特製ケーキですわ。どうぞお食べになって。ヴィオレーヌ様」
キャロルが気持ち悪い猫なで声でそう言いながら、私の顔を覗き込む。この絶望に満ちた表情を楽しむように。何と悪趣味な。そしてなんと悪逆非道な。このような卑劣な行為に、屈するわけにはいかない。
「え、ええ。とても美味しそう。いただくわ」
そして私は震える手でフォークをつかみ、そのおぞましい紫色の塊をすくって口に入れる。
口の中に一瞬甘さがひろがったかと思うと、想像を絶する苦みがそれを塗り替えていく。
甘……いや、苦い。あま……苦い! あ……に、にがーい!
苦味一辺倒ではなく、それは甘さと苦さのコラボレーション。一瞬甘いかと思わせ、こちらの覚悟をゆるませたうえで、壮絶な苦みが怒涛のように押し寄せる。緩急織り交ぜた甘みと苦みの波状攻撃。ケーキの甘さは、その紫パウダーの苦みをより効果的に作用させるための道具にすぎなかった。
普通に食事をさせておいて、もっとも心華やぐデザートでこの仕打ち。おのれキャロルめ、お前の血はいったい何色だ。そっちがそう来るなら、私も手段を選ばない。
「ちょっと、リュディー」
私は口の中の一切れを何とか飲み下すと、背後にひかえていたリュディーを呼んだ。私の隣に進み出た彼女に、ケーキの皿をつきつける。
「これあげるわ。食べて」
「あ、ずるい。侍女を使うなんて」
「私とリュディーは一心同体なのよ」
「ふ、ふん。その特製ケーキは、その侍女でも無理よ」
私とキャロルの子供っぽい言い争いをしり目に、皿を受け取ったリュディーは、何のためらいもなくケーキの残りをつまみ上げて口に入れた。
私もキャロルもしゃべるのをやめて、かたずをのんでリュディーを見守る。
眉一つ動かさずに咀嚼をし、それを飲み込んだ侍女は、何事もなかったようにつぶやいた。
「ごちそうさまでした」
これにはさすがのキャロルも、開いた口がふさがらない様子だった。そして私も。食べさせておいて言うのもなんだけど、リュディーよ、あんたに味覚はないのか。
◯
夏のフリュイーは日が長い。だけど夕食を終えて屋敷を出る頃には、お日様はもう街の中心に立ち並ぶ塔の陰に隠れていた。空にはまだかろうじて昼の明るさの名残があり、西側に浮かぶ雲もかすかに茜色を残していたが、街路は薄い闇に包まれつつある。行き来する人の姿もない。もう少しすればすっかり夜の闇に沈んでしまうだろう。
そんな寂しい街路を私達を乗せた馬車はのんびりと進んでゆく。ちなみに私が普段使用しているのは一頭立ての小さな二輪馬車。宰相やほかの兄姉たちの乗っている車みたいに箱型にはなっていない。いわゆるオープンカー。かろうじて座席の上にフードをかけることができるようになっている。晴れた昼間は気持ちがいいけれど、今みたいなたそがれ時は、なんだか心もとない。
「ちょっと、リュディー。あんまり速くしないでよね。車酔いでさっきのケーキが出ちゃうから」
私は隣の席で手綱をとっているリュディーに声をかけた。彼女は御者も兼任している。さすがに馬の世話は別の人がしているらしいが、一体この侍女はひとり何役させられているんだ。っていうか、宰相はなんてケチな男だ。
それはそうと、私がリュディーに声をかけたのは、ただスピードをあげてほしくないからだけではない。あの夕食のときからずっと、彼女が黙り込んでいるから。無口なのはいつものことなんだけど、いつにもまして。目つきもなんだか鋭い気がする。ひょっとしたら変なもの食べさせたから怒ってるのかな。
「あ、あの。リュディー。ゴメンね。まずいケーキ食べさせて。悪気はなかったのよ。私だけじゃあ手に負えなくて、だから助けてもらおうと……」
その時だった。突然馬が激しくいなないて、馬車が止まった。
「どうしたの」
私の問いに、久しぶりにリュディーが返事をする。
「襲撃です」
なんとも不吉なことを言ったかと思うと、その台詞と同時に手綱を放り投げ、私の腕を掴む。そんな彼女に文句を言う暇もなく私の身体は抱え上げられ、馬車の外へと連れ出された。
視線を巡らせると、確かに数人の男が街路にいて、私達の後を追っていた。その気迫からは明らかな害意を感じる。あれはどう考えても通りすがりの市民ではないだろう。
私を抱えたまま、リュディーは薄闇漂う路地を風のようにかけてゆく。馬車よりも速いと思うくらい。口を開いたら舌を噛みそうだ。私は彼女に何もたずねられなかった。ただ、息を殺して彼女に身をゆだねているほかない。
◯
リュディーがようやく足を止めて私を地面に下ろしてくれたのは、高い塀と塀に挟まれた路地だった。見渡してみると、行き先も塀でふさがれている。あいているのは来た方向だけ。
あれ? ということは、つまり……。
「行き止まりじゃない!」
私は思わず小さく叫んでリュディーに詰め寄ってしまう。あんた、どうしてこんなところに入ったのよ。これじゃあ、逃げ場がないじゃない。
「ヴィオレーヌ様。そこから動かないでください」
私を背にかばうリュディーは、相変わらず冷静な口調で言う。しかし私は冷静ではいられない。このまま動かなかったら、あいつらが来ちゃうよ。殺されるかもしれないよ。
動揺しているうちに、男たちが追いついた。彼等は立ち止まると私たちの退路を塞ぐように路地に散らばり、身構えながらこちらの様子をうかがう。一、二……七。七人いる。彼等のそれぞれの手には白いものがきらめいている。あれはナイフか何かだろう。
私の全身に緊張が走り、うなじに汗がにじむ。相手は武器を持った男七人。こちらは丸腰の侍女と私だけ。しかも逃げ場はない。これはどう考えても、絶体絶命のピンチだろう。
男たちの中のひとりが動いた。私にむかってくる。ナイフを持った手を振り上げて。
私はとっさにしゃがみ込む。投石するための石を拾おうとしたのだ。しかし、だめだ。近い。投石は間に合わない。
私は思わず目をつむり、腰につけた巾着を握る。
(タケル。たすけて)
タケルの名を唱えた、次の瞬間……。
男の叫びが辺りに響いた。
目を開け顔をあげると、メイド服のスカートをひるがえし右手を虚空に伸ばすリュディーの後姿がうつった。右手には、どこから取り出したのか細い剣が握られている。その剣の切っ先の下、彼女の足元に、さっきの男が倒れ伏していた。
「しばしお待ちを。すぐに片づけますゆえ」
私に背を向けたまま語り掛ける、この侍女兼護衛兼教育係の声は、こんな時だというのに部屋を掃除するときのように落ち着いていた。
「まずは、あの女からやっちまえ!」
敵が一斉に、リュディーにおどりかかる。
なんの力みもためらいもなく、彼女は音もたてずに敵の真ん中に切り込んでいった。
夜空を流れる流星のごとく、リュディーの細剣が薄闇の中に銀色の光の軌跡をえがく。
正面の敵がうめき声をあげて倒れ伏す。
他の者の白刃が次々にリュディーを襲う。しかしリュディーは水の流れのようにその攻撃をかわし、横に光を一閃させる。またひとり、敵が倒れる。
リュディーの動き、そしてそれに合わせて描かれる光の流れに、私は己の身の危険を忘れて見とれた。それはまるで一連の舞のようだった。斜めに闇を裂き、虚空に半円を描き、あるいは星座のようにいくつかの光の点を瞬かせる。そのたびに一人また一人と、敵の影は地面へと沈んでいった。
気がつけば、路地に立つのは私とリュディーのみとなっていた。
横たわった男たちを見下しているリュディーに、私は間抜けな質問をする。
「その剣は、どこから出したの?」
答える代わりにリュディーは、己のスカートをまくりあげてみせてくれた。
白い太ももに視線が奪われたのは一瞬だった。彼女の左足に、無骨な鞘がくくりつけられていたから。
「ご無事で、何よりでした」
スカートをおろしたリュディーは息一つ乱すことなく、いつもどおりの口調でそう言って、頭を下げた。
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