8 ライバル

 親愛なるタケル。


 キャロルのことはもうご存知ね。

 アラルの屋敷の管理者を名乗る、赤毛の女。彼女との戦争が勃発してもう一週間がたつわ。日にちが経って収束が見えるどころか、戦いは熾烈を極めている。


 彼女は実に卑劣で、手強い敵だ。様々な手を尽くして私の気力を削ごうとしてくる。掃除をするふりをして水を引っ掛けられたことは数知れず。お茶を膝にこぼされたことも一度や二度ではない。一昨日なんか、珍しくお菓子を出してくれたかと思ったら、私のだけ砂糖の代わりに塩が使ってあった。


 こんな私の姿を見たら、あなたは何と言うかしら。きっと「お前はヴィオレーヌだろうが。しっかりしろ」と、激励してくれることでしょう。


 そう。私はヴィオレーヌ。天下の宰相令嬢なのだから、負けるわけにはいかない。

 ……と、いうことで、塩味クッキーのお返しに辛子入りチョコレートをご馳走してあげた。ザマミロ。


 リュディーは何をしてるかですって? 彼女は護衛のくせに傍観してるだけ。一度その態度を責めたら、「バカバカしい」って返された。何て失礼な侍女でしょう。

 まあ、いいわ。これは私とキャロルの戦いだから、私自らの手で決着をつけないと。


   〜 〜 〜



「それにしても、なんで君はいつも、ずぶ濡れなんだ」


 本から顔を上げたアラルは、そう言って心底嫌そうに眉をひそめた。


「最近とても暑いから。故郷のブルジョン村では、暑いときよく水浴びをしたものですわ」


 そう言ってごまかし、木々の葉に散る眩しい光に目を細めた。庭を望むテラス席。ここ数日はここで彼の読書に付き合っている。私が濡れたまま居間に押し入るので、嫌気が差したアラルがここで過ごすようになったのだ。

 ちなみにここに来るときは、いつ濡らしてもいい適当な服を着ることにしている。今日は涼し気な若竹色のワンピース・ドレス。水をかけられると分かっているのに一張羅の紫のドレスなんか着て来れるもんですか。


 故郷では水浴びしてたなんてのはもちろん嘘。本当は今日もキャロルのやつに、玄関先でひっかけられた。花に水をやってるふりして。ほんとに油断のならないやつ。お返しに、彼女の持ってた桶を奪い取って、中の水を頭からかけてやったけど。


 そんなやり合いを一週間もしているのに、アラルは私達の戦争に気づかないようだ。脳天気なのか、自分にしか興味ないのか、それとも不毛な争いに首を突っ込みたくないのか。いずれにせよ、そんなアラルを巻き込むつもりはない。それはキャロルも同意見のようだ。これは私たち二人の戦争。女の意地のぶつかり合いなのだ。


「あーら、ヴィオレーヌ様。今日もいらっしゃったのね。嬉しいわ」


 キャロルが、白々しくそう言いながら近づいてくる。紅茶をのせた盆を捧げながら。

 まずい。これはくるぞ。

 身構えていたが、今回はこぼされることはなかった。かわりに、私のお茶だけ変な色をしている。


(飲んでみろということか。受けて立つ)


 私たちの戦いには暗黙のルールがある。それはお互いの体を傷つけないこと。服をだめにしないこと。健康を害するようなことをしない、つまり、食べられないものを出さないこと。


 何味だろうが、この私が屈することはない。

 いやらしく口の端を歪めるキャロルを一瞥して、私はカップを傾けた。


 淑女らしく優雅に。

 美しく。

 堂々と……。


「ぶほっ!」


 あまりの苦さに、私は思わずそれを吐き出した。舌がしびれるほどの苦さ。何を混ぜたらこんな味になるんだ。


「あらあら。宰相令嬢ともあろう方がはしたない」


 顔をあげて睨みつけると、キャロルが勝ち誇った顔で、ぷるぷると笑いをこらえながら私を見下ろしている。


「ちょっと。何入れたのよ」

「ヴィオレーヌ様の健康のために、特別な薬草を」

「もういい。下がりなさい」


 テーブルをさっと拭いて、彼女はしおらしく持ち場へと戻っていく。背中が震えているのは、絶対に笑っているな。


「まったく、あの娘は……」


 悔しさに思わずこぼすと、向かいの席のアラルが珍しく本から顔を上げて私を見た。


「……あんまり、嫌わないでやってほしい」

「えっ?」

「彼女は、僕とは幼馴染だから」

 庭の隅で土いじりをはじめたキャロルに視線を向け、彼は目を細める。

「僕の、唯一の理解者なんだ」


 私は彼に何も言い返さなかった。彼のキャロルを見つめるその眼差しが、とても優しげだったから。

 そんなアラルの横顔を眺める私の脳裏に、唐突にある考えが浮かびかける。

 ひょっとしてこの人は……。


 そのとき、その私の妄想を破るように、表玄関の方からアラルを呼ぶ声が流れてきた。


 アラルの顔がさっとこわばる。

「あいつが来た。隠れないと」

 そう言って彼は席をたった。


     〇


 アラルが言った「あいつ」とは誰なのか、すぐにわかった。

 彼がテラスから居間に引っ込んだあと表玄関の方にまわってみると、そこに白いドレス姿の貴婦人が所在なさげにたたずんでいた。彼女を私が見間違えることはない。そのまばゆい金髪と優雅な立ち姿は、この炎天下でも舞踏会場と同じように美しく涼やかだ。


「クラリスではないですか」


 私が話しかけると、さしていた日傘をクルリと回してこちらを向いたクラリスは、満面にあの柔らかな笑みを浮かべてくれた。


「まあ、ヴィオレーヌ様。よかった」

「どうしたの?」

「侍従長から命じられてアラル様のご機嫌伺いに来たのだけれども、誰もいらっしゃらないようだったので……」


 そう言って彼女は困ったように眉を下げた。


「ああ。アラルなら、中にいますよ」


 一瞬、さっきクラリスの声を耳にしたときのアラルの表情が脳裏をよぎったが、私はクラリスの前に扉を開いた。だって、彼女が困っている様子だったから。彼女のために、何かしてあげなくちゃと、思ったから。


 館の中に入ると、玄関ホールにはキャロルがいて、クラリスの姿をみとめた彼女はさっきアラルがしたのと同じように顔をこわばらせた。


「困ります」

「アラル様のご機嫌伺いにまいりました」

「アラル様は今いらっしゃいません」

「ヴィオレーヌ様がいらっしゃるとおっしゃったので。入らせていただきますよ。アラル様を呼んできて」


 キャロルの制止を振り切って、クラリスは居間へと入っていった。

 居間の入り口の前でしばらくおろおろしていたキャロルは、やがて思い出したように振り返って、玄関に残された私を睨んだ。それは今まで見たことがないくらいの、憎悪に満ちた表情だった。


     ◯


 居間のソファに座ったクラリスは、出された紅茶を一口すすると、物珍しそうに室内を見渡した。


「ちょっと、薄暗くありませんか。もっと光を入れないと」


 暗いのは、部屋というよりもアラルの表情だった。クラリスと向かい合って座る彼は、彼女の指摘に返事もせず、ムッツリと窮屈そうに下を向いている。クラリスの笑みや朗らかな声が晴れ渡った空ような明るさを放っているだけに、そのコントラストで余計に暗く感じる。まるでお日様の前のコウモリのようだ。


 私は壁際のソファに座って、少し離れたところから二人の様子を眺めていた。直ぐ側にはリュディーとキャロルが並んで立っている。キャロルがさっきからブツブツとなにかつぶやき続けているのが気になる。リュディーは相変わらず無口だ。


 そんな私達の存在を気に留めることなく、クラリスはアラルに対する指摘を続けた。


「ちゃんと規律正しい生活をおくっておられるか、お父上は心配しておられました」

「……ちゃんと、しているよ」

「運動をなさっておりますか。鷹狩もたまにはお行きにならないと。家に閉じこもっていては、体を壊します」

「……気にしてない。こういうのが、僕は好きなんだ」

「ウィンター家の跡取りには、ふさわしくありません。ところで、勉学には励んでおられますか」

「……してるよ」

「その本は、なんの本ですか?」


 アラルは自分の傍らにある本を隠そうとするが、クラリスにじっと見つめられて、渋々それを差し出した。

 渡された本を数ページめくってから、クラリスはため息をついてそれを閉じた。


「こんな恋愛ものの物語なんかお読みになって……」

「うるさい。返せ」

「侍従長を継ぐにふさわしい教養と知識をつけほうがいいと思いますわ。もっと、法律や歴史などについて学んでください」


 朗らかに、頬に笑みを浮かべつつ、しかしクラリスは手厳しい言葉をアラルになげつづける

 彼女に対するアラルの返答は次第に小さく短くなっていき、しまいには何も答えなくなった。お日様の前のコウモリは惨めだった。この美しき侍従長の副官の前に、彼はただ、その顔を赤く染めてうつむいているばかりだった。


     ◯


 その後もたっぷり二時間アラルににお説教をしてクラリスは帰っていった。


「ほんとうに、いい加減にしてよね」


 玄関でクラリスを見送ったあと、玄関ホールでキャロルは声を震わせながら私を責めた。


「でも……クラリスはいい人よ。言ってることだって正しいし……」

「正しさなんか、どうでもいい!」


 キャロルが発した声の激しさに、私はたじろぐ。そんな私に詰め寄るように、彼女は言葉を続けた。


「あの方はね。繊細な方なの。小さい頃から厳しく育てられて、否定ばかりされて生きてきた。正しさ、正しさ、正しさ。みんな、自分の正しさで彼を攻撃した。彼はいつも正しさで殴られていた。だからあの方はいつしか人を避けるようになったの。クラリスがいい人ですって? アラル様だっていい人よ。なのにみんなあの人を毛嫌いする。ただ繊細で、傷つきやすいだけなのに」


 キャロルは言葉を切って鼻をすする。その目にはいつしか涙が溢れている。


「あなたも、もう、かき回さないでよ。あの方を、そっとしておいてあげてよ!」


 涙が一粒、彼女の目からこぼれる。しかし彼女は瞬きもせず私を見つめる。強く、真っ直ぐに。午後の光がその濡れた瞳をキラキラと輝かせている。

 綺麗な目だな、と、私は思った。悔しいけど、今のキャロルの目は、とても綺麗だ。


 そしてその目は、先程見たアラルの目を思い出させた。キャロルのことを語っていたときの、優しい目。

 このとき不意に、私は気づいてしまった。あのとき頭の中に浮かびかけた考えが、確信に変わる。

 ああ、そうか。このふたりは……。


 キャロルの頬を流れ落ちていく涙の粒を見つめながら、私は彼女にたずねた。


「キャロル、あなた、もしかしてアラルのことが好きなの?」

「ああ、好きさ! 悪いか」


 キャロルは泣き声で、なんのためらいもなく言い放った。


     〇


 居間にもどると、アラルは先ほどまでと同じくソファに座ったまま、しょんぼりとうなだれていた。手に何か持っている。本だ。何をしているかと思ったら、本を読んでいる。さっきクラリスに馬鹿にされていた本。


「……君も、馬鹿にするだろう。こんな本。だから、読ませたくなかった」


 本に視線を落としたまま、アラルは自嘲的につぶやく。


「でも、自分はこういうのが好きなんだ」


 そして静かにページをめくる。丁寧に、愛おしむように。

 さっきクラリスが暗いと言った部屋の片隅で。

 でも、暗くなんかなかった。アラルの背中に窓から差し込む光が当たっている。そしてよく見れば、その部屋のいたるところに、同じような穏やかでつつましい光が宿っているのだった。

 アラルの背中にふと、かつての自分のそれが重なる。

 道具屋のみすぼらしい部屋の窓際で、独り寂しく勉強をする少女。貴族になんかなれるわけがないと相手にされず、友達もできなかった。孤独な少女の背中。


「おすすめは、何?」


 私は彼に近づいていってたずねた。また、拒否されるかもしれない。でも、それでも私は声をかけようと思った。恐らくはじめて自分の意思で。同情からではなく、対抗心でも義務感からでもなく。ただ、否定されることの痛みを知るものとして。


 顔をあげたアラルが怪訝そうな表情をする。

 そんな彼から目をそらさずに、私は手をのばす。


「私も好きなの。恋愛物語」

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