第二章

7 アヤメオラスの花

 親愛なるタケル。


 びっくりした? 今日から日記をつけることにしたの。リュディーがそうしろってすすめるから。あ、リュディーって私の侍女兼護衛兼教育係ね。無口で人形みたいで、いつでも私の傍らに影みたいに付き添っているの。まあ、私に護衛も教育係も必要なんかないんだけど。でも私は立派な宰相令嬢だから、侍女がついているのは当然よね。しょうがないから傍にいさせてあげるとしよう。日記も面白そうだからつける。ただの日記では味気ないので、あなたにむけて書くことにした。勝手にどこかに行ってしまったあなたにも、私の活躍がわかるように。


 それはそうと、私は侍従長の跡取り息子、アラル・ド・ウィンターと婚約することになった。どうやら私はそのために養女に迎え入れられたようなの。つまり、政略の道具ね。この政略結婚を成功させるため、彼と仲良くなるために、毎日彼の屋敷に通うことを叔父上から命じられた。


 見ていなさい。私の実力、見せてあげる……と、言いたいところだけど、正直いうとあまり自信がない。だって、そのアラルって人、何だか偏屈でとっつきにくいのだもの。悪い噂もたくさんあるし。とにかく今日はその初日。私は気合を入れてルビーレッドのワンピース・ドレスに身を包み、あなたの石を入れた巾着を腰帯にぶら下げ、リュディーを引き連れて彼の屋敷を訪れたのだけど……。


   ~ ~ ~



 アラルの屋敷は、フリュイーの郊外にあった。

 宰相邸とはちがって、うっそうとした庭に囲まれた、こじんまりとした屋敷だ。アラルはここに一族とは離れて一人で住んでいる、らしい。


「ここで、本当にいいの?」

「ええ。間違いありません」


 世捨て人みたいだ、と、その館を見上げながら私は思った。汚れた窓ガラス。蔦の這うレンガ造りの壁。まるで魔法使いでも住んでいるみたい。魔法使いなんてこの世に存在しないけど。偏屈者だというのは本当のようだ。


「どちらさま?」


 玄関の扉を開けて顔を見せたのは、アラルではなかった。若い女の人だ。頬にそばかすのある、赤毛の女の人。


「どちら様? お客は受け付けていませんけど」

「えっと、私はヴィオレーヌ。アラルの婚約者よ」

「ああ、あなたが噂の。どうぞ」


 そして面倒くさそうにあくびをしながら赤毛の頭をかいて、私たちを中に入れてくれた。


「お手伝いさんかな」

「存じません」


 こそこそと言葉を交わす私たちを振り返って、彼女は名を名乗る。


「私はキャロル。キャロル・ド・ルーマン。この屋敷を管理している者です」


 どこか挑むような、その話し方だった。


     〇


「それで、君はいつまでそうしてそこに座っているわけ?」


 読んでいた本から顔をあげたアラルは、うんざりしたようにため息をついた。


 広い居間にいるのは私とアラルの二人だけだ。明るい光の差し込む窓辺のテーブルに向かって、アラルは午後の時間を読書をして過ごしていた。私はその向かいの席に座って、ボケっと外の景色を眺めている。

 好きでそうしているわけではない。何を話したらいいかわからないし、話しかけられもしないので、しょうがなくこうしているのだ。でも、部屋から出ていくこともできない。そしたら、何しにここまで来たのかわからない。


 そんなこんなで、二時間くらいはこうしている。我慢比べは得意だ。ブルジヨン村でタケルに鍛えられたから。


「いけないですか」

「そこにいられると、落ち着かないよ」

「読書の邪魔はしていませんが」


 私も、それから部屋の隅に控えているリュディーも一言もしゃべっていない。


「いいや、邪魔だね。なんていうか、気になるんだ。目の前で所在なくされていると、落ち着かないよ」

「では、私も読書をします。なにか、お勧めの本を……」

「嫌だね」


 嫌とは何事だろうか。こちらの歩み寄ろうとする気持ちを全く受け入れようとしない。本くらい貸してくれてもいいじゃない。ケチな男。噂通りだ。


「そうですか。それではお言葉に従い、出ていきます」


 ムッときた私は、そう言い捨てて席をたった。


     〇


 部屋を出たところで、しかし私は途方に暮れてしまった。感情と勢いに任せて出てきてしまったが、これからどうしよう。仲良くなるどころか、また喧嘩みたいになってしまった。何の成果も得られていないどころか、これじゃあ、マイナスだよ。このままおめおめと帰ったら、田舎に強制送還されてしまう。


 私は身分を解消されて故郷に放逐される自分の惨めな姿を思い浮かべて、身震いした。あんなに啖呵を切って出てきたんだ。今さら戻ることなんかできない。父にも、みんなにも合わせる顔がない。そんなの私のプライドが許さないよ。


「……短慮でしたね」


 リュディーがぽつりと私の心をえぐってくる。無口なだけにその一言のダメージがおおきい。私は言い返すこともできずに彼女をにらみつける。わかってるわよそんなこと。今、後悔しているところじゃない。


「リュディー。あんた、何かいい作戦思いつかないの」

「私に、人の心の機微がわかると?」


 うーん。案外いい考えをひらめきそうだと思うんだけど。でも確かに、これは彼女に考えさせることじゃない。私が解決していかないと。でも、どうしたらいいの?


「贈り物をしたら、どうかしら」


 突然背後から声がして振り返ると、あの赤毛の管理人、キャロルが眠たそうな顔をして立っていた。


「アラル様に贈り物をするの」

「でも、何を贈ったらいいのか。彼の好みはわからないし」

「そんなの簡単。あのお方はアヤメオラスの花が大好きなの。それを贈れば、きっと心を開いてもらえるわ」


 そして優しく笑う。その笑顔が私には天使の微笑にみえた。こんなところに救いの手を差し伸べてくれる人がいるなんて。ああ、神様。あなたは私を見捨てていなかったのね


「アヤメオラスの花は、東部御苑に群生してるわ。市場に行くよりそっちのほうが早いわよ」


 親切にもアドバイスしてくれる。彼女の言葉に従って私達は東部御苑へと向かった。


     〇


 フリュイーの東部には大きな河が流れていて、その近くに東部御苑はあった。林や草原がひろがり、小川や池もある広い緑地で、市民の憩いの場にもなっている。


 その緑地の草原の片隅に、なるほどアヤメオラスの花は乱れ咲いていた。膝ほどの高さの茎に、幾輪も並んで咲く、白や黄色の可憐な花。

 田舎の草原にも咲いていたことをふと思い出す。そういえば、私の父も好きな花だった。この季節にはときどき摘んで食卓に飾ったものだ。


 懐かしさに、手が自然とのびる。一本、二本とためらいなく私はその花を摘み取ってゆく。

 そんな私の手もとに視線を向けながら、リュディーが首を傾げた。


「しかし、よろしいのでしょうか」

「え。ダメなの? だってそこに咲いているんだよ」


 私には、何でリュディーが疑問を投げかけるのか分からなかった。野に咲く花を摘んで悪いということがあろうか。花は誰のものでもない。自然のものなのだから、みんなにそれを摘んで楽しむ権利がある。


 リュディーが何か言いかけるのを無視してもう一本摘み取った、その時だった。


「貴様。そこを動くな」


 怒鳴り声が、静寂だった草原に響き渡る。顔をあげると、いつの間にか複数の男が私たちを囲んでいた。みんな親の仇にでも会ったかのような形相で私のことをにらんでいる。

 私はとっさにリュディーの身体の後ろに身を隠す。さてはこやつら、ホテルで私を襲った賊の一味か。


「あんたたち、私に何の用なの。さてはこの宰相令嬢ヴィオレーヌの命を狙う悪党ね。リュディー。やっつけておしまい」


 しかしリュディーは動こうとしない。ただ突っ立って、男たちの様子をみている。


「ヴィオレーヌ様。この人たちは、賊ではありませんね」


 冷静な返答に、私は思わずポカンと口を開けて彼女の顔を見上げた。

 え。どういうこと? ……と聞き返す前に、男の罵声が飛んでくる。


「悪党とはなんだ、悪党とは。お前の方が、よほど悪党だ」


 それを皮切りに、彼らは口々に私を責めたて始めた。


「そうだそうだ。大事な花を摘み取りやがって」

「我々が丹精込めて育てた花々だぞ」

「公園の宝なのに」

「この公園荒らしめ」


 彼らの言葉を受けながら、私の頭は混乱していった。ええっと、これはどういうことだ。我々が育てた花? 公園の宝? つまりこの人たちは公園の関係者ということだろうか。公園荒らしって、私が?


 戸惑う私の前に、男たちの中で一番年配と思しき人物が進み出てきて言った。


「お嬢さん。とりあえず、事務所まで来てもらおうか」


     〇


 それからあとは、散々だった。


 私を囲んだ男の人たちは公園の管理人で、連れて行かれた事務所で彼らから私はこっぴどく怒られた。この緑地の草花や樹木は彼らが大事に育て日々見守っている、フリュイー市の財産なのだそうだ。

 私は知らなかった。公園というものがそのように大勢の人の手入れと管理によって美しく維持されていることを。そしてそこに生息するものを勝手に採ったりしてはいけないのだということを。だって私は、田舎で育ったのだから。ブルジヨン村の東の森には、そんなルールなかったよ。


 いつ果てるとも知れない説教の後、ようやく解放されたときには、すっかり日も傾いて、街には夕方の風情がただよっていた。


「……短慮でしたね」


 リュディーの再度の容赦ない指摘にも、もはや睨み返す気力もない。


 夕暮れ迫る街路をトボトボと歩く私の手には、一指しのアヤメオラス。

 平謝りにあやまって、誠実に事情を説明して、お情けでもらった一本だ。これでアラルに喜んでもらえればいいのだけど。


     〇


 ……しかし、その日、結局私はアラルの笑顔を見ることはできなかった。


 私の差し出した花を見たとたん、アラルは表情をひきつらせた。

 橙色の光の差し込む居間に、盛大なくしゃみが響き渡る。


「な……なんてもの持ってきたんだ」

「え。でも、あなたはこれが好きだって……」


 くしゃみを繰り返しながら、彼は、私に衝撃的な事実を教えてくれた。


「ぼ、僕は、アヤメオラスアレルギーなんだ!」


 またしても部屋から追い出され茫然とする私を、柱の陰から覗き見て笑う女がいた。

 その時になってようやく私は気づいた。

 私は騙されていたのだ。そしてまんまとはめられた。

 あの、赤毛の管理人、キャロルに!

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