6 アラル・ド・ウィンター
舞踏会場とは違って、宮殿の庭園は暗くて静かだった。
人の姿はなく、背の低い植え込みが黙念と並んでいるばかりだ。石畳の道を照らすのは白い月の光。今日は満月が綺麗で、雲のない夜空には星もたくさん瞬いていた。
私の前を歩く青年も静かだ。ただ時々夜空に浮かぶ月を見上げるばかり。私も話しかける言葉も思いつかず、ただ黙々と彼の歩調に合わせて足を動かす。
あまりに退屈で、私は足もとの小石を蹴る。星空なんて、田舎で散々見た。珍しくもない。できればあの絢爛豪華な舞踏会場にまだいたかった。でも、断ることもできなかった。二人で外を散策したらと、あのクラリスがすすめてくれたから。
それにしても……。
私はアラルの黒い後姿に視線をあてながら思う。何だか頼りない人だなあ、と。まだ出会ったばかりで、ろくに言葉も交わしていないけれど。
背は私と同じくらい。男の人としては小さい方だ。王太子より頭一つ分は低い。肩を落としてしょんぼりと歩く姿は、いかにも自信なさげだ。
「ふわあ。疲れた」
そう言って彼が立ち止まったのは、小さな噴水のある一角だった。ほとばしる水が銀色の光を散らし、水滴の跳ねる音が闇の底を絶えまなく流れていた。
「でも、よかった。抜け出せて。あんな舞踏会は、退屈だから」
そして私の方を振り返る。君はどうだと問うように。
「私は、楽しいです」
「踊ってくれる相手もいないのに」
「ええ」
アラルは、フフッと小さく笑った。小ばかにするような、嘲るような、その笑い方だった。
不快感が私の胸にこみあげる。
悪気があるのかないのかはわからない。だけど彼の言い方にはどこか、私を侮辱するようなニュアンスがあるように感じられた。踊ってくれる相手がいないですって? そうよ。いないですよ。悪いの?
まあ、事実ではあるけど。ちょっと気にしていたのに。そんなにストレートに言わなくても。
「星空はお好きですか」
悔しさに、私は思わず彼に言い返してしまう。挑むような口調で。よせばいいのに。でも、こんな時に黙っていられないのが私の性分だ。
「ならば、田舎に引きこもられるのがよろしい。私の出身の村がうってつけです」
アラルはまじまじと私を見た。暗いので怒っているのか驚いているのか、それとも呆れているのかわからない。ただその口元が、わずかに笑みの形になったように見えた気がした。
「君の田舎か……」
そうつぶやいてから、また、夜空を見上げる。
「もう、戻っていいよ。君も、僕と一緒にいるのは嫌だろう」
そしてまた、月明かりに照らされた道を歩き出す。
私はもう彼の後を追わず、言われたとおりに踵を返した。
〇
舞踏会場に戻ると、さっそくクラリスが私を見つけて話しかけてきた。
「いかがでした? あら。あなたひとり?」
正確にはリュディーが私の背後に控えていたが、たぶんひとりのうちにカウントされてないだろう。それにしてもいつの間に私のそばにいたんだこの侍女は。全く気配を感じなかったけど。背後霊みたいでちょっと怖い。
「ええ……、先に、戻るように言われたので」
まさか、会って早々に喧嘩しましたとは言えない。あんな態度、やっぱりまずかったかな。でも、彼は腹を立てているという感じでもなかった。私を、というよりも、なんだか何もかもを突き放しているようだ。
私は別れ際の彼の言葉を思い出す。
君も、僕と一緒にいるのは嫌だろ……。
確かに、いけ好かない態度だったけれど、「君も」ってどういうことだろう。
「ねえ。彼って、嫌われているの?」
私がその疑問を口にすると、クラリスはほほ笑みながらも困ったように眉を下げた。
「まあ……独特な方ですから。でも、根は良いお方なのですよ。でも……」
そして少し言いよどんでからつづけた。
「正直、評判はあまりよろしくありません。このようなこと申し上げてよろしいのかわかりませんが……」
ちょっと左右を伺ってから、クラリスは私の耳に顔を寄せてきた。開いた扇で口もとを隠しながら、思わせぶりにささやきかける。
「本当は、アラル様はアンヌ様と婚約なさる予定だったそうです。しかし、アンヌ様がそれをとても嫌がって……」
「それで、私にお鉢が回ってきたということ?」
気の毒そうに眉をひそめてうなずくクラリス。私は彼女から視線を会場内に移す。
取り巻き達に囲まれて得意げに笑っているアンヌの姿はすぐに見つけることができた。楽しそうな、幸せそうな顔。その顔を私は穴のあくほどにらみつける。あの娘め。つまり、自分が気に入らない婚約を私に押し付けたっていうわけか。そして自分はまんまと王太子との婚約を勝ち取って。
「アンヌ様のことをどうかお恨みなさらないで。でも、あなたが宰相家に迎えられるときいた時、私、てっきりあなたが王太子様と婚約なさるのだと思っていたのに。宰相もむごいことを……」
その時、同情的なクラリスの声に無感情な侍女の声が重なった。
「いろいろなことを、よくご存じで」
「こらっ」
私は思わずリュディーのスカートをはたく。彼女の方が私より十センチほど身長が高いので、とっさに出した手がその位置にあたったのだ。それはそうと、失礼でしょこの侍女が。相手はクラリスよ。
「ごめんなさい。クラリス。侍女の無礼をどうか許して」
ここでもクラリスは優しいほほ笑みを崩すことなく、鷹揚にうなずいてくれた。
「この世界で生きていくには、情報収集が大切だから」
そして私を真正面から見つめる。口元に笑みを残したまま、しかしその目はもう、笑ってはいなかった。
「ヴィオレーヌ様。ご忠告しておきますよ。貴族として生き残りたければ、常にだれが何をしようとしているのか、目を光らせておくことです。のんびりしていては知らぬうちに窮地に立たされ、引きずりおろされてしまう。あなたの身を置こうとしている世界は、そういうところなのです」
そう語る彼女の碧い瞳は、まるで澄んだ泉のようだ。その水の底で水影がゆらめいている。その瞳に見つめられていると、吸い込まれてしまいそうな感覚におそわれる。
「え、ええ。ご忠告ありがとう」
そう返事をするのがやっとだった。
どこかからクラリスを呼ぶ声がする。どうやらマクシミリアンのようだ。すると会話の終了を告げるようにクラリスは表情をクシャっと和らげた。
「私、もう行かなきゃ。じゃあ、またね。ヴィオレーヌ様」
クラリスの姿が人の間に消えると、呪縛が解かれたように、私の全身から力が抜けた。リュディーの身体に寄りかかる。自分がずいぶん汗をかいていたことに、その時初めて気づいた。
〇
「どうだった? アラル・ド・ウィンターは」
翌日の午後、宰相謁見室に呼び出された私は、ラファエルから単刀直入に問われた。
「独特なお方ですね」
私はクラリスの表現をそのまま使って答える。彼女の教えてくれたことを思い出しながら。この狸ジジイ。アンヌの嫌がる婚姻を私に押し付けやがって。
それだけではない。あのあと、舞踏会場でアラルについての情報収集に努めた結果、色々なことがわかった。主に彼の悪い噂。偏屈者だとか、むっつりスケベだとか、弱虫だとかケチだとか、そんなのばっかり。
どうやらアラルはアンヌにかぎらず、フリュイーの上流階級の淑女のことごとくから、蛇蝎のように嫌われているのだった。
ここに来てようやく私は、なぜ屋敷の皆が私を気の毒そうな目で見るのか、アンヌが私を笑うのか、理解したのだった。
「そうか。独特か」
叔父もまた、あのときのアンヌのように私を笑う。
「ヴィオレーヌよ。その独特なアラルと、婚約してもらう。これはとても重要なことだ。我がポンデュピエリー家とウィンター家は長いこといがみ合ってきた。だがわしは、そのウィンター家と手を組みたいと思っている。そうすれば我がポンデュピエリー家はより大きな力を得ることができるからだ。そしてそのために、この婚約は欠かせないのだ」
つまり、政略結婚ということか。そんな大事なお役目なら、なおのこと、実の娘のアンヌでなければなるまいに。
そんな私の声が聞こえたのか、叔父は首を振りながら言葉を続ける。
「アンヌでは務まらん。ヴィオレーヌよ。お前が頼りだ。両家の架け橋となってくれ」
「王太子妃なら、彼女にも務まると?」
思わず言い返してしまった。その途端、宰相の表情が曇る。急にその場の空気が重くなったような気がして、胸が苦しくなる。なぜだか自分の鼓動が早くなっている。
「お前、昨日アラルと喧嘩したそうだな」
突然宰相の声が低くなる。
「婚約……といっても、ウィンター家の方はまだあまり乗り気ではない。お前の態度次第では婚約破棄も十分ありうるのが今の状況だ」
そして私の前に二本の指を立てて突き出す。
「二カ月後にまた王宮で舞踏会がある。そこでお前たちが仲睦まじい姿を見せることができなければ、この縁談は破棄される。それがマクシミリアンの出した条件だ。二カ月……。あと二カ月で、お前はあのアラルと打ち解けなければならない。明日から毎日、アラルの屋敷に通うように」
鼓動がまた速くなる。宰相の私を見る目は、姪に対するそれではなかった。私はようやく理解する。そうか、これは、命令なのだ。
「もし……」
私は唾を飲み込んで、彼に問いかける。
「もし、私がアラル様のお眼鏡にかなわない場合は」
宰相は椅子の背もたれに背を預けると、表情を崩した。しかしそこだけは笑っていない目で私を見据え、吐き捨てるように言った。
「そしたら、役に立たない娘は、田舎に送り返すだけだよ」
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