5 舞踏会

 七月の宵の空気は、ちょっと蒸していて、でもみずみずしくて、大きく息を吸うとほのかに甘い香りがした。


 故郷ブルジョン村よりはいくらか暑い。でも、そんな暑さも忘れて、馬車から下りた私は小さく歓声を上げた。

 それはまるで夜空に鎮座する、とても巨大なシャンデリアのようだった。


「ねえ、リュディー。あれが王宮なの」

「そうです」


 侍女の短い返答に、私はまたため息をつく。数え切れない窓という窓から放たれる光のそれぞれが、宝石のように闇の中で瞬いている。私は夜でもこんなに明るい建物を見たことがない。


 宰相邸ですでに度肝を抜かれていたが、夜の闇に浮かぶ宮殿は、あの壮大さとはちがった、幻想的な華やかさを感じさせた。


「さあ、参りますよ」


 リュディーに促されて、私は気を引き締める。

 そう。王宮の美しさに見とれている場合ではないのだ。

 今宵は舞踏会。私の婚約者と初めて顔を合わせる日なのだから。


 それにしても、久しぶりの外出だ。不安と緊張の一方で、ちょっとワクワクしてもいる。


「ねえ、リュディー。王宮には何人の人が勤めてるのかしらね。後で探検とかできないかしら。やっぱり怒られるかな……」


 ついつい口数が多くなってしまう。無駄口をたたくそんな私を、私の無口な侍女は、馬車の中にいるとき同様に無表情な目でジロリとみつめた。


「存じません」


     〇


 舞踏会の会場は、何というかもう、何もかもが金色だった。

 金色の天井。金色のシャンデリア。金色の窓。金色のカーテンに、金色の鏡。

 目に入るすべてのものが金色に輝いていて、その金色の光の中で、色とりどりのドレスを身にまとった淑女たちが、スカートをひるがえして舞っていた。それは昔何かの本で読んだ天上の花園の光景のように私には思えて、この場に身を置いていると、フリュイーに来てから初めて、ああ自分は貴族になったのだと実感できた。


 あの方は○○伯爵家の××様。

 あのお方は〇×男爵様。

 あのお方は△△家の△×嬢……。


 隣でリュディーが何やら解説してくれているが、正直頭に入ってこない。あまりに夢見心地で、目の前に展開されている光景にただただ見とれるばかりだ。ダンスに誘ってくれる人などいず、私は壁際でただ突っ立っているだけなのだが、それで満足だった。宰相家の面々とも距離をとられているが気にもならない。ただ見ているだけでもう、幸せだった。かつて渇望した世界。夢見た世界。それを手に入れるために頑張ってきた。その世界に私は今、実際に立っている。それで十分だった。その実感だけでもう。


「……さま。ヴィオレーヌ様」


 腕に痛みがはしって、私はようやく隣にいる侍女の存在を思い出した。横に目を向けると、リュディーが手に持った扇で、今まさに二撃目を私に叩き込もうとしているところだった。


「ちょっと待った。今、我に返ったから。叩くのはやめて」

「直接触れるのは……」

「わかったから。ごめんね聞き逃してて。それで、どうしたの」


 リュディーは表情を変えずに、顔だけを会場の上座に向けた。


「重要な人物がおいでになられました」


 その重要人物が誰か、私にもすぐにわかった。王太子だ。彼は何人かのお供を従えて、年配の恰幅の良い紳士と語り合っている。高官だろうか。飾りがたくさん付いた、立派な服を着ている。


「あの方が、侍従長、マクシミリアン・ド・ウィンター様です」


 ああ、あの男が、侍従長マクシミリアンか。名前は聞いたことがある。宰相ラファエルのライバルだ。そして、私の婚約者アラルの父親。

 しかし私の目は、人の良さそうなその老紳士よりも、彼の傍らに控えているひとりの若く美しい淑女にくぎづけになった。


「それと、侍従長のそばにいる水色のドレスの淑女が……」


 解説しようとするリュディーを遮って、私は彼女の名を口にする。


「クラリス・ド・デュフレーヌ」

「ご存じなのですか」


 リュディーの問いに私は小さくうなずく。知っているも何も、私はあの娘と武道大会で対戦したのだ。忘れもしない三回戦。私は一本も取れずにボロ負けした。


 でも、たぶんクラリスのことはみんなが知っているはずだ。私も武道大会の前から彼女のことは知っていた。彼女は、有名人だから。大財閥のご令嬢。男爵の爵位を持つ貴族。それでいて、貧しいもののために施設をつくったり、街頭で民衆の生活改善や差別反対の演説を行ったりしている。その活躍はたびたび新聞でも取り上げられ、人々からは聖女ともてはやされているのだった。


 私も、田舎にいるときに散々クラリスの記事を読んだ。そして思ったものだ、ああ、都にはすごい人がいるなあ。私とは、大違いだなぁ、と。彼女こそは私のあこがれる世界の象徴だった。遠い都。手の届かない貴族の世界。そこでひときわ強く輝く、彼女は私の憧れだった。


「それは、よろしいことです。クラリス様は今マクシミリアン様の副官をなさっておいでなので、これから接する機会も増えるかと……」


 リュディーの淡々とした解説の途中で、それまで流れていた曲がやんだ。

 淑女たちのドレスがひるがえり、皆一斉に広間の両脇による。

 広間が静寂に包まれる。頭を垂れる人々の中で、唯王太子のみが堂々と胸を張り、場内を見渡している。そしておもむろに一言だけ、短い挨拶を述べた。


「皆の者。楽しんでいってくれ」


 開会の挨拶が終わると楽団の音楽が再開され、王太子は大広間から出ていった。


     〇


 大広間から抜け出た私は、ロビーで落ち着きなく視線を右に左にはしらせている。

 探しているのはもちろん王太子様だ。


「およしになられたほうが……」


 リュディーの忠告は聞こえないふりして、私はロビーの人混みの中をさまよい歩く。

 今日こそ王太子様と接触したい。

 私は必死だった。一緒にダンスを……なんてそこまでは望んでいない。ただ、また一緒に話がしたかった。宰相一家のところへ行かれてしまったらおしまいだ。またアンヌに邪魔されてしまう。そうなる前に、一言だけでもあの方と言葉を交わしたい。


 しかし、私が王太子に近づくことはまたしてもできなかった。背伸びをしながら彼の姿を探す私の目の前に、突然金色の光が立ちふさがったから。


「まあ、あなた、ヴィオレーヌ様ではありませんの。お久しぶりね」


 そう言って金髪碧眼の少女が私ににっこり笑いかける。クラリスだった。

 こちらの頬までつられてゆるみそうになる、柔らかな笑顔。みんながとりこになる優しい表情に優雅な物腰。体の内側から光が発せられているよう。

 私はとっさに返事ができなかった。お辞儀をするのも忘れた。まるで馬鹿みたいにその場に立ちすくんでしまう。なんでだろう。こんなに優しそうな人なのに。私の足は萎えてしまう。


 そんな私の態度に気分を害する様子もなく、彼女はにこやかにほほ笑みながら話をつづけた。


「今度また一緒にお茶を飲みましょうね。今日は紹介したい方がいるの」


 その言葉と同時に彼女が脇に一歩身を引く。姿を現したのはクラリスとは大違いの暗い顔をした、陰気な雰囲気の青年だった。

 クラリスの朗らかな声が彼の名を呼ぶ。


「侍従長マクシミリアン様のご子息。アラル様よ。アラル様。こちらがあなた様の婚約者のヴィオレーヌ様」

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