3 ヴィオレーヌのお守り

 どこかから、私を呼ぶ声がする。


「……さま。……レーヌさま」


 私は返事をしようとするが声が出ない。身を起こそうとするがそれもできない。でも、嫌な気分ではない。体が暖かいものにくるまれていて、フワフワしていて、なんだかとても心地よい。その心地よさに、いつまでも身を委ねていたい。


 しかし、声は私を呼び続ける。感情をにじませない、無機質な響きで。


「……さま。起床のお時間です。起きてください。ヴィオレーヌ様」


 ああ、そうだった。私は宰相家に養女として迎えられて……。


 薄く目を開いた私の視界に、メイド服を身にまとった長身の女の人の姿が映る。

 彼女は何か細長いものを両手につかんで振りかぶっている。剣の素振りをするように。今まさにそれを振り下ろそうとしている。


「ちょっと待った。リュ……」


 私が言い終わらぬうちにその棒が布団を襲う。

 私は間一髪でベッドから転がり出る。直後にズドン、という音がして、ふかふかの布団が哀れにへこんだ。

 っていうか、殺す気か。これ食らってたら絶対怪我してたぞ。


「ちょっと。いきなり何すんのよ、リュディー」


 私の抗議の声に眉一つ動かさず、この若き侍女兼護衛兼教育係はこたえる。


「お呼びしても起きられなかったので」

「体をゆするとか、あるじゃない」

「体に触れるのは、失礼かと」

「失礼じゃない。少なくとも、いきなり棒で攻撃してくるよりは」

「では、今度からはお体を揺らすことにいたしましょうか」


 そしたら今度は、思いっきり関節を締め上げられそうな気がして、私は思い直す。


「いいえ。ちゃんと自分で起きるから。呼びかけるだけにして」

「かしこまりました。では、今日のご予定ですが……」


 ブツブツと今日の私のスケジュールについて語りだしたリュディーの言葉を、私はあくびをしながら聞き流した。ここに来て、この数日で覚えてしまったから。聞くまでもない。


 ずり落ちたネグリジェの肩紐をなおしながら二回目のあくびをする。それと同時にお腹が大きく鳴った。


 口を閉じたリュディーは、私の寝ぼけ顔をしばし無感動に見つめる。


「……朝食に、しましょうか」


     〇


 宰相邸に入ってもう数日がたつ。この宰相家での私の生活は、実に単調なものだ。起床。朝食。午前中は勉強。昼食。午後は読書と昼寝。夕食。就寝。その繰り返し。

 食事は基本一人でとる。晩餐に呼ばれたのは今のところ初日の一度だけ。でも、あまり晩餐がないほうがありがたい。会話もなく黙々と食べるだけだから。あの重苦しい雰囲気で食事するなら、ひとりのほうがまだいい。


 あ、そうそう。リュディーは食事の時もいる。彫刻のように傍らに突っ立っているだけだけど。一体この人は何を食べて生きているのだろう。


「ふわわー。退屈ね」


 昼食をすまし、本をきりのいいところまで読んだ私は、大きく伸びをしながら思わずそうこぼした。

 リュディーは相変わらず無表情に、部屋の中を見渡している。


「どうしたの」

「部屋が散らかってきましたね。なんだか薄汚く見えます」


 大きなお世話だ。

 だいいち、掃除係のメイドがいると言ったのはリュディーじゃないか、だから私は、あえて散らかしておいたんだ。念をおしておくけど、あえて。本来の私はもっとマメできれい好きなのだ。ホントだよ。


「あなたの言っていた、掃除係のメイドさんはどうしたのよ」


 私の批難には返事をせずに、しばし考え込んでいたリュディーは、


「すこし、整理します」


 そう言うやいなや、猛然と、床やソファに投げ捨てられた私の衣類を拾い上げはじめた。


 瞬きをする間に、ソファの背にかかっていた肌着が消え、彼女の腕にかかっている。かと思うと彼女はその勢いのまま姿勢を低くし、床の帽子と手ぶくろとぬいぐるみを同時にすくい上げ、起き上がりざまにくるりと体を回転させる。彼女の過ぎ去ったあとには、帽子はきちんと壁にかけられ、ぬいぐるみは棚に何事もなかったように座っている。


 小川が流れるように、風に舞うように、リュディーは部屋の中を移動してゆく。彼女が一歩進むごとに、みるみるうちに部屋が片付いてゆく。


 凄い……と、その動きを眺めながら私は思わず感心してしまう。一部の無駄も隙もない。流れるような動作。思わず見とれてしまう。私もちょっとは武芸を学んだことがあるから、なんとなくわかる。この人は、達人だ。


 ベッドの枕もとの小机に置かれてあった巾着袋をリュディーがひっつかんだところで、私は我に返った。


「あ。それはダメ……」


 リュディーの手が止まり、彼女は問うように私に視線を向けた。


「それはね、大事なものなの。大切な人の形見っていうか……。お守りみたいな」


 巾着袋の中に入っているのは、小さな石だ。だけど私にとってはただの石ではない。タケルが……私をここまで導いてくれた人が、私のために投げた、特別な石なのだ。


 ここにくる何日か前、フリュイーの、遺跡公園で。王太子と大勢の人に見守られる中、私への願いを託してタケルが投げた。不可能と思えるくらいに遠くの的を見事に射当てた、奇跡の石。


 タケルのことを思い出したら、思わず頬が火照ってしまった。しかしその浮ついた気分はすぐに冷水を浴びたように冷めてしまう。何考えてんだろ私。タケルは宰相家に入る前の晩、光のように溶けて消えてしまったのに。


「退屈とおっしゃるなら……」


 ブツブツと聞き取りづらい声で、遠慮がちにリュディーが発言する。


「そのお方に、お手紙でも書かれては」

「その人はどこに行ったのかも……どこかにいるのかどうかも、わからないから」

「では、日記をつけられては」


 私はリュディーを見つめて、苦笑してしまう。人形のように無表情だけど、この人なりに気を使ってるのか。


「日記に書くほどの出来事もないじゃない。……でも、ありがとう」


 それから私は、大きく息を吐いて、大の字になってベッドに身を投げた。雲だとか鳥だとかの絵の描かれた天井を見上げながら、思う。ほんとうに、変化のない毎日だ。貴族はみんな、こんな生活を送っているの?


「ねえ、宰相家の他の人は、今、何をしてるのかしら」

「ラファエル様は政務をとっておられます」

「ミカエルは?」

「ミカエル様は王宮に出勤なさってます」

「アンヌは?」

「アンヌ様はお客様とお茶を飲まれたり歓談なさったり……」


 私は初日に会ったアンヌの姿を思い出す。フリフリのドレスを着た、私よりちょっと年上くらいの金髪の少女。ニコリともせずつまらなそうに立っていた。あの娘が、誰と何を歓談するのだろう。


「……なにを、笑っておられるのです?」

「アンヌはお客様と、どんなお話をするのかと思って。あの娘のお客って、どんな方かしら」


 リュディーは私をじっと見る。お前が言うなよ、とでも言いたそうだ。い、いいのよ。私のことは。棚上げしてるのよ。ええ。自分のことは棚上げしますよ。


「今日はたしか、王太子様とお会いになってるはずですが」


 そのワードを耳にした途端、私はベッドから跳ね起きた。


「王太子様ですって。私、ご挨拶にいかなきゃ」

「およしになられたほうが……」

「大丈夫、大丈夫。私、面識あるんだから」


 私は得意になってリュディーに笑いかける。

 あなたは知らないだろうけど、ここに来るまでに何回か王太子様にはあってるんだよ。私、彼とはちょっと親しいんだよ。


「およしになられたほうが……」


 なおもブツブツと文句を垂れるリュディーを従えて、私は気だるい空気の漂う部屋から出た。

 

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