第9話 鳥事件

Let's get started, ヘーイ、ジョー、スィーン!


〜たいていいつも大神と一緒に登山に行く大神の親友のイギリス人生命科学者Nickが、大神が平常心と言いそうな時に先回りして笑いながら言う台詞〜


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鳥事件。




春風と大神は昔、一緒によく登山に行った。



二人とも山が好きで、緩めの登山だけの時もあれば、岩をよじ登る登攀をする時もあった。




特に大神は六千メートル級を何度も制覇したベテランだった。



大神が土間ラボを出る時は登山に行く時だけと言ってもいいくらいで、アメリカ時代の友人と連れ立って年に数回は必ず山に登った。



春風がそれほど難易度の高くない地元の高校入試になんとか合格した年、動物好きな二人の発案で記念にヒゲワシを見に行こうと言う事になり大神の友人を含め四人で南アフリカのクワズルナタール、ドラケンスバーグ山脈へ行った。



そこには切り立った断崖があり、四人は登攀した。



アメリカの友人二人が先行し、三番目に春風、四番目が大神だった。



標高三千メートルを超える高地の岩の亀裂の中に、鳥の巣があった。



巣にはひとつの卵があって、親鳥は留守にしていた。



卵は拳より少し大きく緑と青のマダラ模様で、あまり見覚えのないものだった。



先行する大神の友人二人は岩の隙間の鳥の巣に気づかずに登っていったが、巣を見つけた春風は周辺の岩がキラキラと輝いているのに気がつき、その光る粉を手袋越しに指でぬぐった。



崖には巣以外に花もないのに周囲にはいい匂いが漂っていて、春風が指先の光る粉を嗅いでみると、同じくいい香りがした。



春風は自分の下、五メートル後方を登ってくる大神に



「モッちゃん、いい匂いのする鳥の巣がある」



と大声で言った。



その時、上空から大きな鳥が滑空してきた。



そのヒゲワシらしき鳥は足の鋭い爪と嘴で春風を襲った。



二人にはその鳥がヒゲワシに見えたが、何かが違う気もした。



急な襲撃に驚いてのけぞった拍子に春風は足を踏み外した。



春風のザイル(命綱)に通していたハーケン(岩の隙間に打ち付けた、命綱を通すための金具)が春風一人の体重すら支えきれずに折れた。



落ちる春風に大神が咄嗟に手を出した。



春風が大神の手を掴むと、大神の体重を支えていたハーケンも折れ、二人はともに崖の岩に打ち付けられながら弾かれるように落下していき、約七十メートル下にあった岩場の隙間へ吸い込まれていった。



大きな岩の平場に落ちた大神はしばらく気を失っていた。



どのくらい時間が経ったかはわからない。



上の友人二人は慌てて駆け降りて救助に向かったが、ここまで来るにはだいぶ時間を要した。



大神は自分の頬を伝う鉄の匂いのするぬるりとした液体に刺激されて目を覚ました。



大神は立ちあがろうとしたが全身を打撲し、思うように動けなかった。



それでも懸命に這い上がり前を見るとそこには氷山の先端のような大きな三角錐の結晶石があり、結晶石に大量の血が滴っていた。



大神が赤く染まった結晶石を見上げると、先端に春風がいた。



その変わり果てた姿に大神の全身が耐え難く痺れ、視界が白黒の静止画になり、息が止まった。



仰向けで大の字になった春風は、平たい岩の中心にある結晶石に胸を貫かれ白目を剥いて口を開き動かなくなっていた。



まるで百舌鳥の早贄のようになった春風の体から流れ出した大量の血は春風を貫いた結晶石を伝い、大神のいる岩場を赤く染めていた。



大神は声も出ず、その場でへたり込んだ。



どう見ても即死だった。



現実を受け入れられない大神の目から、涙が溢れた。



嗚咽を漏らし大神は這うようにして春風の方に近づいていった。



大神は結晶石に寄りかかるようにして立ち上がり春風の頬に触れた。



その瞬間、結晶石が輝き始めた。



大神より数倍は大きい結晶石はお湯をかけた氷のように溶け辺りを光が包んだ。



眩しすぎる光に目を瞑ると、いい匂いが充満し、心なしか暖かくなった気がした。



閉じた瞼越しに光が弱まっていくのを感じた大神がゆっくりと目を開けるとその光の多くは春風の体に、ほんの少しが大神の体に集約していくのが見えた。



光が収まると結晶石は完全に消失し、岩の平場に春風が横たわっていた。



春風の服は大きく破れていたが、体を貫通していたはずの穴がなかった。



人智を超えた何かが起き驚いた大神は春風を抱き起こし、奇跡を信じて脈と瞳孔を確認したが生きている気配はなかった。



それでも大神は人工呼吸と心臓マッサージを繰り返した。



「ハル!死ぬな!生きろ!お願いだ!」



と力の限り叫んだ。



三回目に心臓を刺激した時、春風が咳き込んだ。



大神は必死で声をかけ続けた。



「ハル!ハル!」



耳元で叫ばれている自分の名前を聞きながら春風はゆっくりと目を開け



「…。モッ…ちゃん?」



と小さなかすれる声で言った。



大神は号泣しながら春風を抱きしめた。



そうしているうちに上の二人がようやく到着した。



号泣する大神を見て、友人達は春風が死んだのだと思ったが、春風は生きていた。



大神は涙ながらに今起きた事を見たままに説明したが、二人は大神が落下事故のショックで正気を失っているのだと思った。



なぜならその時にはもう、結晶石も、いい匂いも、光も、春風が流したはずの血も何もかもなくなっていたからだった。



そこにはただ、無くしたはずの春風の命を抱きしめながら顔をくしゃくしゃにして大泣きする大神と、事情が飲み込めないまま呆然とする春風がいた。



友人二人は救助隊に連絡し、春風と大神を病院へ運んだ。



大神は病院の医師にも見たままを説明したが、二人の検査結果にはなんら異常はなく、大神の話は結局は誰にも信じてもらえなかった。



心臓を貫いたはずの傷口がないのだから、それは無理もない事だった。



ふたりはわずか二日で退院し、日本に戻った。



「…え?おれ、死んでたの?」



春風はコーヒーを飲むのを止め、自嘲するように言った。




「ああ。彼らと医師には伝えたんだけど、精密検査に行ってた君と、そしてご両親にも言ってなかった事だ」



大神もコーヒーカップを置いた。



「賢治(春風の父)さんは落ち着いてたけど、晴美(春風の母)さんがすごく取り乱してて、こんな話し出来なくなってね」



あの事故以来、大神は天野家と距離ができてしまった。



その後春風が高校に入学し忙しくなった事もあり、二人もやがて疎遠になっていった。



春風が高校を卒業し、地元の文具メーカーに就職し社会人となって三年が経過し落ち着いて来た頃、二人はばったりと近所の道で鉢合わせた。



それから春風がまた土間ラボを訪ねてくるようになり、二人はまた話しをするようになった。



だが、今日のように話せたのは鳥事件以来初めてだったし、この話しも今夜が初めてだった。



しばし沈黙があった。



春風が冷めかけのコーヒーを口にすると、大神が



「あの後さ。また行ったんだよ。あそこに」



と言った。



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ヒゲワシ



分布


ユーラシア大陸南西部、アフリカ大陸北部


形態


全長115cm。翼を広げると時には3m近くになる。


喉部から、髭のようにふさふさとした黒い羽毛が生えている。


種小名 barbatusは「髭のある」の意でこの咽頭部の羽毛に由来し、和名と同義。


生態


山岳地帯に生息する。


主に動物の死骸の腐肉や、栄養価の高い骨髄を食べる。


小さい骨の場合は丸呑みにして、強力な胃酸で骨もろとも骨髄を消化する。


また、一度に飲み込めないほどの大きな骨やカメ等の硬い獲物を上空から岩の上などに落として割り、飲み込みやすいサイズにしてから食べる。


岩棚に営巣し、1個の卵を産む。



Wikipediaより抜粋


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%82%B2%E3%83%AF%E3%82%B7





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