第5話 サイワの精霊

太古の昔、神々の時代があった。


美の神フィリエイラとその友である慈しみの神サイワは、暗黒神ワーに唆されて全能神カノンに叛逆した。


カノンの逆鱗は雷となって二神を襲い、フィリエイラは醜い大亀に、サイワは姿を持たない精霊にされた。


二神は天界を追放され地上へ堕ろされた。


大亀は龍王の奴隷として底なしの沼地に、精霊は燃えたぎる火口へ閉じ込められた。


〜ブリテン古代神話より抜粋〜



鳥の巣が崖から突出していたのが幸いした。


切り立った崖の斜面は垂直ではなく、無秩序に岩が盛り上がっていて、右足に力が入らない春風が亀裂からそのまま落ちれば岩に激突していたかもしれなかった。


鳥の巣の真下へ落下した春風は、渓谷の底を走るサイワ川の激流に飲み込まれた。


泳ぎは不得意ではない春風だったが四方から大きな波に襲われ息継ぎをする事さえままならなかった。


光っているように見える薄青色の川の水は冷たかった。


雛の爪で切られた右腿からの大量出血が続いていた春風の体は次第に熱を失い、やがて心の熱もじわじわと消失していった。


心身とも疲弊し続け意識が混濁していく中、必死でもがき続けた春風の体は思うように動かなくなった。


疲れはて意識が遠のき、月の光が差し込む川の水面へ向けて、いるはずのない誰かに救いを求めるかのように右手を伸ばしたまま、サイワ川の水を飲み続けた春風は力無く川底へ沈んでいった。


春風の体が脱力し目から光が消えそうになった時、水面から差し込む一筋の光とは別の光が春風の右手の先に発生した。


光は次第に大きくなり、春風の体を包んでいった。


意識のはっきりしない春風は光の中に、ただふんわりと浮かんでいた。


ゆっくりと目を開けるとそこは真っ白な空間だった。


「...なんだろう」


春風は周囲を見渡したが、果てしなく真っ白で何もない。


春風はふと、息も出来るし、寒くもなく、体に痛みもない事に気がついた。


手のひらを見て、握ったり開いたりしてみたがよく動く。


「もしかして、俺、死んだ、のかな...」


春風が声に出してそう言った時、誰かの声が聞こえた。


「こんばんは」


声は反響音を伴い聞き取りにくかったが、確かにそう言った。


気品のある女性とおぼしきその声には、人間離れした雰囲気があった。


春風は息を呑んだ。


やはり自分は死んだのだ。


今の声は神様に違いない。


なんてこった。


神様はいるのか。


じゃあ天国とか地獄もあるはずだ。


こんな事なら何かの宗教に入っておけばよかった。


都合のいい時にしか神に祈ったりしない春風は無信心だった事を後悔した。


神らしき者の次の言葉を待ったが、耳を済ましても聞こえてこない。


沈黙が怖くなった春風は


「あの、神様。僕、死にました?」


と言ってみた。


「ふふ。私は神ではないわ。水の精霊。人間は私をサーラと呼ぶわ」


と、今度は反響音のない声が聞こえた。


神ではなく精霊で名をサーラと言った声は優しく、人間的だった。


サーラの声は春風の心に落ち着きを与えた。


春風は独り言のように


「サーラ。きれいな響き」


と感じたままを口にした。


「ありがとう。あなたは誰?」


とサーラが聞いた。


「あ、僕、春風です。天野春風。みんなはハルって呼びます」


独り言を聞かれて焦った春風は、慌てて返事をして頭を掻いた。


「ハル。よろしくね。鳥の巣からここへ落ちた人間は皆、マナに返るの。でもあなたは違う」


「マナ、って何ですか?」


「マナはこの世界をつくる単位であり、この世界のそのもの」


「この世界?ここはどこ?」


「ここはバルデラ。あなたはどこから来たの?」


相変わらず周囲は真っ白でサーラの姿は見えない。


が、声はだんたん近くから聞こえてきて、その声は親しげで楽しそうだった。


「東京です。あ、日本から来ました。てか、地球っていうべきかな」


ここがどこだかわからないが、どうやら地球ではなさそうだったので、春風は混乱しながらそう言った。


「そう。なんだか聞いた事がある気がするわ。あなたのマナは素敵ね。彼によく似ている」


とサーラが言った。


たくさん疑問を聞こうとしていた矢先に、彼、という言葉が出て一体誰の事だろうと思い、それを先に聞こうとしたら


「これから街へ?」


と、先にサーラが口にした。


「そうですね。あれ?てか俺、死んだんじゃ?」


「あなたは生きているわ。あなたのマナはとても特別。そしてあなたは私のマナも取り込んだ。相性がいいみたい。それも彼によく似ているわ」


「あの、彼って?」


「あなたのようにここに来た人。名前は何だったかしら?ダメね、すぐ忘れてしまうの」


そう言うと白い空間に、水が湧き上がった。


ほとんど透明の薄青色の水は、人のようになった。


人のような形でゆらめく水は、ロングスカートを着た髪の長い女性のように見えた。


顔ははっきりしなかったが、なんとなく微笑んでいるようだった。


女性のスカートの裾からとめどなく溢れる水が白い空間を満たし、春風はまた溺れるようにして水に覆われた。


「確か彼の名は…」


はっとして目が覚めた春風は、滝壺の岸辺にいた。


起きたばかりの春風だったが、先ほどの声と映像を細部まで思い出せた。


自分を水の精霊サーラだと言ったあの女性は確かに最後にこう言った。


「そう、確か彼の名はオオカミ。友達を探していると言っていたわ」、と。


「まさか、モッちゃんもここに?」


と春風は声に出した。


急に、涙が出た。


鳥の巣で、春風の心にゲイルが明かりを灯した。


一人ではないという春風の心の灯りは、別れによって悲しいほど呆気なく消えた。


川の中で一人、生きる力を失った春風の心に、また新しい火が灯った。


それはとても小さく、すぐにでも消えそうな灯りだった。


だが、その灯りは確実に春風の心を照らしていた。


春風は嬉しくなり、そして切なくなった。


モッちゃんに会いたい。


夜空の煌めきに気がついた春風は、上を見上げた。


そこには驚くほど満天の星空が広がっていた。


春風は大神と行った最後の登山を思い出し、そして土間ラボで見た大神の最後の笑顔を思い出した。

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