第30話
◆ ◆
バイレッタが退席すると、部屋は静寂で満たされた。
誰もがなんとも言えない顔をしてお互いの顔を見合わせている。困惑の気配だけが漂っていた。
「お前の嫁は凄いだろう?」
父がからかいを多分に含んだ笑みを浮かべてアナルドを見つめてくる。
「あの通り、恐ろしく頭が回る。その上、ハイレイン商会の叔父から様々な情報を引き出してくる。その方面では顔も広い。商売をしているから金の回し方もよく知っている」
「あの剣の腕前はなんですか。まさか貴方が鍛えたわけではありませんよね」
昨夜の襲撃者を撃退した姿は堂に入っていた。明らかに手練れだ。
初めて彼女をエスコートした際に手のひらの感触に違和感を覚え、領地に向かう馬車の中で彼女の手を観察してみたら随分と硬かった。あれは貴婦人の手ではなく、長年の修練を積んだ手だ。一朝一夕で身につく技能でないことは確かだ。
淑女がいったいどこで、そんな技術を身につけられるのか。実際に剣を振るう姿を見たというのに不思議でしょうがない。
「嫁いできた時からああだった。儂も早々に打ち負かされた。武勲に名高い子爵の出だ、教育の一環かもしれんが確認したことはない。本人の性格だろうがな、なんとも好戦的でじゃじゃ馬だ。本人は淑女だなんだと嘯くが。あれを乗りこなすのは相当に難しいぞ」
バイレッタにいつも苦々しげな顔を向けている父は、ひどく面白そうにくっくと笑う。すこぶる機嫌がいい。
嫁の情報収集をするために帝都に戻ってすぐの頃、父に会いに屋敷に一度向かった。情婦や愛人の噂を聞いてそんな相手の管理を自分に求めるなと忠告に行ったはずが、反対に父は自分に妻と離婚するなと念を押して
「早々に説明していただきたかったですね」
「お前が聞く耳を持たなかっただけじゃないか。突然帰ってきたかと思えば、愛人の管理はご自身でしてくださいと言い捨てて碌に話も聞かずにすぐに出ていっただろう。まあその後におかしな賭けを持ち出して引き留めてくれたことには感謝してやらないこともない。逃げられないようにしっかり捕まえておけ」
一ヶ月の賭けを申し出て、彼女を妻として引き留めていることを父に初夜の翌日に話した。おかしな賭けだなと父は呆れてはいたが、あの奇抜な嫁にはそれぐらい突拍子もない内容のほうがいいだろうと意地の悪い笑みを浮かべていたが。
「若奥様は、領地に興味のない旦那様を領地に連れてきていただいただけでなく、何くれとなく手助けをしてくださいました。旦那様の仕事と割り切ってはおられましたが、できる範囲で不足していることはないかなど聞いてくださって……ほとんどの嘆願書は旦那様からは返事をいただけませんでしたので、いくつかは若奥様宛にも送らせていただいて……」
バードゥが言った。
「そんなことをしていたのか?」
父は全くあずかり知らぬことだったらしい。驚きつつ、忌々しげに舌打ちをした。
「彼女の判断で指示をしていたと?」
「旦那様がご存じないのなら、若奥様のご判断なのでしょう。昨晩の言動ではまさに旦那様すら御しておられるようにお見受けいたしましたが」
バードゥは尊敬を通り越して、崇拝しているかのように
そもそもアナルドにとっては、久しぶりにスワンガン領地にやってきたことになる。馬車を降りて、領主館の前に立ち並ぶ使用人たちを眺めれば見知った顔が随分と年齢を重ねているのがわかった。幼かった自分が、成人してかなり経つ。周囲も年を取っていて当然だが、なぜか月日を実感してしまった。
大きかった館もなんだか小さく見えてしまう。不思議な気持ちがした。だがバードゥは記憶の中と同じくかくしゃくとしていた。
誰よりも領地と領主館を愛している彼が横領しているなどと到底信じられなかった。何かの間違いだろうとも思うほどだ。だから妻のことを使用人たちに聞きながら執事頭のこれまでの働きぶりも尋ねた。いずれも悪い話など聞かない。バードゥの姿はアナルドが思い描いていた通りだった。そして、誰も悪感情を抱かないのは妻のこともそうだ。驚いたことに使用人たちと妻がすっかり打ち解けているのだ。数回父が領地に連れていったことは報告書を読んで知っていたが、これほど仲がいいとは思わなかった。
信奉者がいるという報告書の内容を思い出しながら、アナルドは自然と口角を上げていた。
「的確な指示だったのか」
「それはもう。てっきり専門家などに聞いて返事をいただいていると考えておりましたが、先ほどの様子を見るに、大部分は若奥様のお考えなのでしょうね。なんとも広い視野をお持ちで多岐に亘る分野の造詣に深い方だ。領地経営に向いてらっしゃいますよ。それに正義感が強くてまっすぐで愛情深い方でもありますね。婚家の領地運営など本来若奥様の管轄ではないというのに、領民が困っているのを見過ごせなかったのでしょう。ここ数年、なんとか領地が持ちこたえられたのは若奥様の尽力のおかげです」
「なるほど。貴方が随分と妻に弱みを握られているということはわかりました」
「嫁に逃げられそうになっている
ワイナルドがふんっと鼻を鳴らして顔を顰める。分が悪くなるとすぐに話を打ち切ろうとする。底の浅い父の態度は相変わらずだ。
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