第19話



 けれど、夜になってみると自分にあてがわれた部屋にアナルドの姿がある。彼の部屋は隣のはずだ。


 夕食後にソファに座って資料を読み込んでいたバイレッタは一旦顔を上げて、部屋の入り口に立つ夫を見つめた。無表情は変わらないが、夜に妻の部屋に忍んできたという妖しげな雰囲気はなかった。


「どのようなご用事でしょう」


「こちらには何度か来られたことがあるとか?」


 領主館の使用人にでも聞いたのだろうか、不思議そうに彼が尋ねた。バイレッタは頷きつつ、いい機会だと考え背筋を伸ばして夫を見つめた。そもそも領主の妻になったわけでもない自分がなぜ頻繁に領主館に顔を出しているのか。


 夫が疑問を持つまでもなく、自分だっておかしいと感じる。


 だが、こればかりは事情があるのだ。


「そうですわね。お義父様が来たくないとごねられたので無理やり連れてきました。おかげで皆から大変感謝されまして」


「は?」


「お義父様が悪いのですわ」


 バイレッタはこれまでの経緯をアナルドに語って聞かせる。


 ワイナルドが領地に顔を出したのは、伯爵を継いだ当初だけだった。そこで前妻が出産、さらには子育てに突入したためアナルドは生まれてからしばらくは領地で生活していた。対して義父はまだ軍人でもあったため領地にいることが少なかった。だが来ていただけましかもしれない。


 前妻が亡くなってからはさっぱり寄り付かなくなってしまったからだ。もう二十年以上前の話だそうだ。領主が領地に顔を出さないだなんて異常だ。呆れ返って言葉もない。肺を患って退役したと同時に妻が亡くなり、帝都で酒浸りの生活を送っていたと聞いている。


 最初のうちは、嘆願書なども頻繁に届き、領地を見回ってほしいとの声も多かったがいつの頃からかその声もなくなった。一年に二度、査察官を送っているが問題はないとの報告に執事頭を筆頭に領地を上手く経営できていると思っていたらしい。何かあれば今回のように金や物資を送っておしまいにしていた。挙げ句には碌に報告書も読まず決裁していたというのだから、怠慢どころの騒ぎではない。


 査察官が隠しもせず馬鹿正直に報告書を作ってきたことが不思議でならなかったが、義父の態度に納得してしまった。確認されないのだから、途中で偽装することも放棄したのだろう。


 しかし長年国の審査も通っているのだから、ワイナルドばかりを責められない。なぜ通るのかと疑問は尽きないが、今は領地の件が先だ。


 義父は自分がいなくても領地経営が回ることを知って、ますます酒に逃げたとも言える。


 バイレッタが来てひとまず酒をやめさせ、しばらくしてから領地の仕事を全くしていないワイナルドに気がついて領地に引きずってきたのだ。その時のバードゥを筆頭とした使用人の驚きといったらなかった。幽霊が出たとでも言わんばかりに悲鳴が上がり、上へ下への大騒ぎだった。領地に向かうと知らせを送っていなかったのかとバイレッタが問い詰めると、義父は本当に来ることになるとは思っていなかったと嘯いた。つまり知らせを出していなかったらしい。もちろん腐った彼の性根を剣の稽古と称して叩きなおしてみたほどだ。


 おかげでバードゥをはじめとした使用人一同のみならず、噂を聞き付けた領民たちからあがめられている。ある意味、凄く居心地が悪い。おかげで、バイレッタの足が遠のき、ここ二、三年は義父だけを領地へ送ることにしていた。それがよくなかったのだろう。


 こんな穀物の大量の横領が見つかるとは。


 いや、だがこれは自分の仕事ではないとも思う。つまり、義父の仕事がいい加減であることが原因だ。きっちりと調べてまたるしげてやると心に誓う。


「──というわけで、貴方にもぜひご協力いただきますわ。お義父様に領地の仕事をするように諭してください」


「なるほど……信奉者というのはそういう意味か」


「どうかされましたか?」


「いえ、こちらの話です。それで、今読まれていたのは?」


「スワンガン領地の税収に関する資料です、それ以外にも水害などの災害の報告書と修繕の記録なども含まれていますわね。お義父様から丸投げされました。ええもちろん大丈夫です、きっちりと仕返しはさせていただきますから」


 不敵に微笑めばアナルドは少し目を瞠って、ふっと口角を上げた。だがそれは僅かな表情の動きで、次の瞬間にはいつもの無表情に戻っていたが。


「それはそれはお手並み拝見といきましょう。それで明日はどうされますか」


「少し見回りたいところがありますの。別にお付き合いいただかなくて構いませんが」


 視線を上げれば、しげしげと自分を見下ろしているエメラルドグリーンの瞳とぶつかった。そのまま、一つ口づけを落とされる。


 ごく軽く、小鳥がついばむようなキスだ。


「ご一緒しますよ。では、明日に」


 アナルドは何事もなかったかのように部屋を出ていき、残されたバイレッタは真っ赤な顔のままプルプルと震える。


 あの男は夜中に戻ってきてよくわからない賭けを申し込んで勝手に初夜を済ませた自分本位の身勝手な男だ。難癖つけて妻を縛り付けたい最低男だ。だが次の日には驚くほど優しく抱いて翻弄したかと思えば、しばらく放置で全くそんな素振りを見せず過ごしたくせに、突然やってきたかと思えば口づけだけで帰っていく。


 別に抱かれたいわけではないし、賭けには勝ちたい。回数が少ないほうが自分の勝率は上がるのでありがたいことだ。ありがたいことなのだが、どうして悔しい気がするのか。


 二回抱いたら興味がせたとか。


 あちらのほうが男女の仲の経験値は上だ。それはなんとなくわかる。手慣れているし、余裕がある。二十四にもなって恋愛経験なしの自分が簡単に勝てる相手でないことはわかっている。そもそも自分は処女だったのだし、どう考えても経験値が足りない。


 彼がどこでそんな経験を積んだのかはどうでもいい。どうでもいいはずだがもやもやする。たぶん手玉に取られている感じが気に食わないのだ。翻弄されていいように弄ばれて、このまま終わるのも何か腹立たしく苛立つ。


 主導権が向こうにある気がして、気に食わない。


 だから自分の体に飽きたのかと落ち込む必要は全然ないわけで!


 バイレッタは書類の束に拳を一つ落として、必死で自分に言い聞かせるのだった。

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