第16話

【第二章 領地視察と夫の思惑】




 アナルドとおかしな賭けをして三日後、かねてよりワイナルドに頼まれていたスワンガン領地を、訪れることになった。


 不作だと告げられた領地の実際の穀物の取れ高を調べて、その穀物の横領の証拠を押さえ、なおかつ主犯に白状させることが目的になる。それを実質一週間ほどで成し遂げると言い切る義父も凄いが、バイレッタにどれだけの仕事を押し付けるつもりかと考えると頭が痛くなる。


 帝国の東側は帝都から続く山間で、標高もやや高い。開拓により街道を敷いてはいるので行き来はできるが移動に二日はかかる。だが半月後に祝勝会を控えているため夜も明けない時刻に出発してどこにも宿泊せずに馬を交換させて走り続ける計画だ。おかげで領地には翌日の昼頃には着くことになる。


 帝都よりもやや気温が低い。季節的には真夏の頃だが、それほど暑さは感じない。


 過ごしやすいはずだが、移動中の馬車の中は冷え冷えとしている。


 どうしてこうなったとバイレッタは内心で頭を抱えていた。


 義父を連れて数年前に何度か訪れた時には、これほどあんたんたる気持ちにならなかったはずだ。


「なぜ、あやつがいるんだ」


「わかりません。ご自身でお聞きになればよろしいのでは?」


 それほど広くない馬車の中、向かい合わせに座りながらコソコソと耳打ちしてくる義父にバイレッタはしかつらを向ける。


 バイレッタの隣には目を閉じて静かに眠るアナルドがいる。


 相変わらず彫像のように整った美貌の持ち主だ。目を閉じていると精巧な人形にしか見えない。本当に美しいフォルムに感心はするが、極力視界に収めないようにしている。純粋に、腹立たしいからだ。


 彼が今回の視察に同行する事情など全く知らない。何も聞いていないのだから。


 昨日の夜にスワンガン領地に向かう必要ができたのでしばらく帝都にいないとバイレッタは夫に告げた。彼はわかりましたと頷いた。


 これでしばらくは夫婦の夜の生活はしなくて済むと胸を撫でおろした。スワンガン領地には一週間ほどの滞在予定だ。今月末に開かれる予定の祝勝会までには戻るつもりだが、一ヶ月のうちの三分の一は夫と過ごさなくてもいい計算になる。念書には一緒にいることとは書かれていなかったので、別に規約違反をしているわけでもない。


 だが翌朝用意された馬車に向かうと、所在なさげに扉の前にたたずんでいた夫に驚いた。エスコートされるままに馬車の中に乗り込んで見送りにきてくれたのかと問うと、その後に続いて乗り込んだ夫を見て言葉をくす。


 彼が了承したのはバイレッタが向かうことではなく、自分が向かうことだったのだろう。最後にやってきた義父も座席に収まっているアナルドの姿を見て一瞬で顔色を変えた。自分の息子だろうにどれほど苦手にしているのかと普段ならばするところだが、そんな気分にもならない。


 アナルドは様子のおかしいバイレッタたちを無視してさっさと眠り込んだ。


 それからは移動中の馬車の中は緊迫した空気が満ちている。


「いいか、そやつの監督責任は貴様にあるからな」


「そんなものを押し付けられても困ります。査察に協力しませんよ」


「馬鹿なことを……どうせ後々困るのは領民だ。貴様は罪のない領民を苦しめる道を選ぶのか」


「人道的なことを仰っていますけど、内容は最低ですからね。ご自身の息子の面倒まで押し付けられるのは困ります」


「お前の夫だろうが」


「他人ですよ、八年も放置されていたお飾りの妻にそんな権限があるわけないでしょう」


「ふん、そやつは家を出てからほとんど家に寄り付きもしない息子だ。会話らしい会話などした記憶もない。一ヶ月は夫婦として一緒にいると決めたのだろう。ならば貴様のほうが儂よりよほど多く会話しているからな」


「お義父様、ご自身で仰っていて悲しくなりません?」


 仲が悪いとは聞いていたが、ここまでとは思わなかった。憐れみを込めて告げると、ワイナルドはふんっと鼻を鳴らしただけだ。


「随分と仲がいいんですね」


 静かな声が響いて、バイレッタはぎょっとして横を向いた。ぱちりと開いたエメラルドグリーンのせいひつな瞳とぶつかる。


 彼はいつから起きていたのだろう。


「仲がいいわけないだろう、お前の目は節穴か。このふてぶてしい態度をよく見ろ。生意気な小娘は義父を敬うこともせん。お前も多少は注意してもいいだろうに」


「ああら、お義父様、それは申し訳ございません。今すぐに馬車を降りましょうか」


「すぐにそうやって領地を盾にして脅してきよる。お前が降りたら領地は誰が見て回るのだ。人の足元を見るのがそんなに楽しいか」


「ご自身の力量不足を棚に上げて他人をなじることだけは一人前とは恐れ入りますわ。ぜひとも見習わせていただきますわね」


「この小娘めっ」


 おほほと笑えば、苦々しげに吐き捨てた義父の歪んだ顔が見える。


 アナルドはふうんとよくわからないあいづちを一つ打った。


「やはり仲がいいんですね」


 彼の真意がどこにあるのか、バイレッタにはわからない。無表情な顔で考え込む姿に快不快をいだすのは難しかった。


 不意にアナルドがそっとバイレッタの手を取ってしげしげと眺める。さらりと撫でられる感触はどこか官能的で心臓が知らず跳ねた。骨ばった無骨な手は彼の顔立ちからは想像できない。だが、長い指は綺麗で芸術的だ。顔が整っている男は手も整っているのだなと妙に感心する。


 だが、その指が自分の体をったのだと思い出して赤面してしまう。思わず手を引っ込めた。


「な、なんです?」


「いえ、随分と硬い手だなと思いまして……」


 深窓の貴婦人の手でなくて悪かったわねとバイレッタは叫ぶのをぐっと堪えた。


 剣を扱うので手の皮は硬く剣だこすらある。淑女のような柔らかくて傷一つない手とは全く異なるのは知っている。


「触り心地が悪いので、ご不快でしょう。二度となさらないでいただきたいわ」


 きっぱりと断ると、彼は首を横に傾げた。何が腑に落ちないのか。


 勝手に人の手を取って難癖つけてきてまだ何か言いたいことがあるのか。だが彼は何も言わずに窓の外へと視線を外した。いったいなんだと問い詰めたい気持ちとこのままそっとしておくほうが懸命だと忠告する声が同時に聞こえた。


 夫の行動は全くもって理解できない。


 これほど早くに領地に着きたいと願ったのは初めてだ。


 そのまま一日半を居心地の悪い空気の馬車の中で過ごして、ようやく翌日の昼頃には視察を行う最初の村に到着した。

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