第15話



 夕食を終えて、バイレッタが自室で仕事関係の書類を眺めているとアナルドが部屋へとやってきた。


 今日一日、屋敷でゆったりと座って過ごした。おもに、昨晩の行為のせいだ。もちろん職場には行けなかった。仕方なく書類を整理して過ごした。


 づくえに向かって一心不乱に書類を読んでいても、寝室へと続く扉が気になってあまり内容が頭に入ってこない。それでも一ヶ月は逃げるわけにもいかない。将来の自分の自由のためには多少の我慢は必要だ。


 そう言い聞かせているところに夫がやってきた。


 書類を伏せて、椅子から立ち上がり机の前に出て応対する。


「念書を持ってきました。内容に文句がなければ、サインしてください」


 彼は部屋へ入るなり一枚の用紙を差し出した。書面をざっと眺める。


『一つ、契約の間は夫婦の生活を送る』


『一つ、上記期限は一ヶ月とする』


『一つ、上記期限の間に子供ができた場合は婚姻を生涯継続する。できなかった場合は離縁に応じる』


 余計な文言もないシンプルな内容を見て、机に置くとバイレッタは名前をサインした。


「では、同意いただいたということで。そのまま、貴女が保管されますか?」


「そうですわね」


 店の権利書や、商売用の重要な取引書類などを保管している金庫に預けようと心に決めて、いったんは机の引き出しにしまう。アナルドが部屋から出ていけば、すぐに隠してある金庫に入れる手はずを考えながら、立ったまま動かない夫を見上げる。


「まだ、何か?」


「では、さっそく夫婦としての仕事をしていただきましょうか」


 アナルドが微笑んで、バイレッタの腰を抱き寄せた。


 いつの間にこんなに近くにいたのか。あまりの素早さに、目を回す。


 今朝、バイレッタの前に現れた彼はなんだかろうばいしていたようだった。何かに混乱していたように見受けられたが、いつの間に立ち直ったのか。今、彼の瞳には純粋に好奇心しか見つけられない。


「な、なにを……」


 また昨日の夜のように体を貪られるのか。


 いいように翻弄されて終わるのが悔しくてしょうがないが、アナルドの胸を押してもびくともしない。


「契約成立ですよ。同意しましたよね?」


「そうですけれど」


 突然来られると心臓が落ち着かなくなる。すでに入浴を済ませているので、まるで準備万端みたいではないか。体を洗っていないのなら、時間を稼ぐ口実になったというのに。


「まだ、寝るには早い時間でしょう……」


「うん? 時間ですか……そうですね、八時ですから寝るには早いですけれど。少しでも早いほうがいいかと思いまして」


 どれだけ時間をかけるつもりだ。また明け方コースは勘弁してほしい。明日こそは工場のほうに顔を出したいのに。


「半月後に祝勝会があります。夜会に参加するとなると、準備に時間がかかるでしょう?」


「は?」


 祝勝会?


 告げられた単語の意味がよくわからなくなってしまった。


「女性の用意がどれほどかかるのか俺にはよくわかりませんが。男のように軍服を着るわけにもいかないでしょうから。ドレスなどの服飾だけではなく、宝石などの飾りから肌の手入れなどもあると聞いています」


「なんのお話、ですか?」


「聞いていませんか。この度の休戦協定のための祝勝記念式典が今月末に開かれるのですが、式典は日中に行って夜には軍関係者と家族を招いた祝勝会があるのです。参加の通知書が届いていると思っていましたが。こちらではなく、軍の部屋のほうに届いているんですかね」


「ああ、いえ。お義父様からお話は伺っていますわ」


 義父がアナルド宛の招待状が来ていると話していた件だろう。


 その夜に祝勝会と称した夜会が開かれるのか。だが、今月末とは。


「パートナーの同伴が祝勝会の参加条件ですので、ぜひとも一緒に行っていただけますよね」


 にこりとしたアナルドの笑みが悪魔の微笑みに見えた。なまじ顔が整っている分、凶悪に見える。勘違いしていたことにバイレッタの羞恥が一気に増す。


 顔が熱くなったが、できるだけ平静を心がけた。声がうわずらないように、忍耐を総動員する。


 決して、夜の行為を期待したわけではない。そもそも相手の言い方も悪いのではないか。というか、あの念書の夫婦生活というはんちゆうが存外広い意味で使えることにも愕然とした。


「わかりましたわ」


「ありがとうございます」


 手持ちのドレスに軍服に添えるようなものはない。新たに頼むにしても日数が限られている。宝石については心当たりがあるが、明日には店に頼みに行かなければ半月後の祝勝会には間に合わないだろう。


 羞恥からドレスの算段まで目まぐるしく変化する心を必死で宥めているとお礼を告げた形のいい薄い唇がすっと近づいてきた。と思ったら、深く口づけされている。そのまま吐息ごと奪われた。


 戸惑う心は舌ごと絡めとられる。


「は……っ何を」


「もちろん夫婦生活ですよ、同意したでしょう」


 バイレッタが驚いてしまうほど己の体はアナルドの与える口づけに従順だ。抵抗らしい抵抗もできずに、昨日の夜に与えられた快楽を期待して震える。


 狼狽える気持ちもあるのに、体が心を裏切る感覚に舌打ちしたくなる。


「まだ体がつらいんです」


「なるほど。では加減しましょう」


「やらないという選択肢はないんですか」


「せっかく賭けをしているのだから妻の勝率が上がるようなことはしませんよ。俺にまだ知らない妻を教えてください」


 横暴で知略を優先する冷血漢。


 まさに噂通りの夫だ。賭けに負けたくないから妻への気遣いは後回しということだろう。結局はこうなるのだ、と諦めに似た気持ちを必死で飲み込んだ。


 彼はバイレッタの心情を全く察することもなく、ひょいと彼女を抱えると隣の夫婦の寝室へと運んでいく。物のように扱われるが、思いのほか手つきが優しい。そっと寝台の上に下ろされ、彼はゆっくりと寝台のへりに手をついた。空いたほうの手で部屋着のワンピースのボタンを外される。広げられた襟ぐりから辿っていく夫の唇が優しく肌をなぶり、手のひらが体にくすぶる熱を高めていく。


 その動きは昨夜とは全く違う。まるで別人に抱かれているかのようだ。


「どういう心境の変化ですか?」


 寝台の上に横たわりながら、ぼんやりと夫を見上げれば彼は少し苦しげに息を吐いた。だがそれだけだ。答えをはぐらかすように、そのまま深く口づけられる。舌が絡めとられ、宥めるようにこうこうを嬲られる。


 高められた熱は体を蕩けさせて、思考も溶けた。与えられる刺激は優しいのに植え付けられる快楽は苛烈だ。


 ひたすら与えられる熱を逃したくて息を吐けば、驚くほど甘い吐息に変わる。


 そうして昨夜とは全く異なるとびきり優しい夜が訪れるのだった。

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