第14話




     ◆ ◆




 バイレッタが朝目覚めると、夫の姿はなかった。


 隣は随分冷たくなっているので、早くから抜け出したのだろう。もしかしたら、隣で寝ていなかったのかもしれない。そう思わせるほど乱れた様子のないシーツがある。


 バイレッタは新しい寝着に着替えさせられ、体も拭き清められていた。アナルドが整えたのだろうか。怒りのままに初夜を行ってさすがに反省したのかもしれない。そんな殊勝な性格には見えなかったが、とにかく心当たりは夫しかいないのだ。


 まるで昨日の夜のことがなかったかのように整えられていても、生憎と夢だったのではという錯覚は起こらなかった。声を出しすぎて痛めた喉も、股の間に何かが挟まっているような異物感も、はっきりと感じることができたからだ。己の体に裏切られた感覚は未だに消えない。あれほど乱れるのも前後不覚に陥るのも自尊心がいたく傷ついた。


 だが、賭けでは一ヶ月はアレに付き合わなければならないらしい。夫の口車に乗せられたような不快感もあるが、早まったと後悔しても遅い。


 何度繰り返しても自分は体を差し出すだろう。それほどに離婚して自由が欲しい。夫に縛られるだけの人生は嫌だと心が叫ぶ。


 なんにしてもバツの悪い状況だ。義父や義妹と顔を合わせるのが気まずい。あれほど夫と入れ替わりに出ていくと告げていたのに、その期間が一ヶ月伸びてしまうのだから。心の中で盛大にもだえてしまう。体以上に精神が参って予想以上の疲労感を覚えながら体を起こしていると、部屋に入ってきた夫と目が合った。


 朝の柔らかな陽光の中で見る彼は、夜とはまた違ったいんさがある。昨夜と同じような簡素なシャツにスラックスというシンプルな格好がさらに彼の美を引き立てていた。


 そんなに人の美醜に興味がないほうだと思っていたが、彼の顔を見ればなんとも綺麗な男だと実感した。とても三十代だとは思えない。絹糸のように細い柔らかな灰色の髪に、エメラルドグリーンの切れ長の目は艶やかな光をたたえている。


 透き通る白磁の肌は、シミ一つない鮮やかな白さだ。


「あ、ああ、起きていたんですね」


「ええ。すっかり寝坊してしまいました。申し訳ございません」


「え、いえ。その……無理をさせたのは俺なので……体は大丈夫ですか」


 昨晩とはえらく態度が違う気がする。明け方まで初心者相手に好き勝手したくせに。


 耳年増であるバイレッタはねやごとの手技や用語だけなら知識が豊富だ。ご婦人方を相手に商売していれば、それなりに知恵もつく。昨日のはきっと言葉攻めというものだと思い至ったが、羞恥が煽られてわけがわからなくなったのも事実だ。新婚初夜にぶっ込んでくる技ではないだろう。鬼畜の所業だ。


 そんな相手なのだから、この言葉も素直に受け取らないほうがいいのだろう。これは盛大な嫌みなのかもしれない。


 寝起きで喧嘩を売られても、働かない頭では碌に答えを返せない。


「お気遣いいただきまして、ありがとうございます。それに服も着せていただいたようで……」


 平気とはとても言えないが、余計な口をきくのもおつくうだ。言葉を濁せば、彼はひどく慌てたように言い訳をした。


「いえ、あのままにしておくと俺の罪悪感が恐ろしいことに……いや、すみません」


 何に対して謝っているのだろうか。彼はひどく険しい表情をしていて、なんとも苦々しげではある。口にしているのはおそらくバイレッタへの謝罪だろうが、表情と一致しない。


 そもそもなぜ彼に謝られるのか、解せない。


 昨夜の傲慢だった彼はどこへ行ってしまったのか。


「おなかが減ったでしょう、下に朝食の準備もできています。ミレイナたちは先に食べてしまいましたから、こちらに運びましょうか」


 ミレイナの名を聞いて、不意に優しい義妹を思い出した。朝食の時間になっても顔を見せない義姉を心配しているかもしれない。何かを察したのだとしたら多感な年頃の少女に悪いことをしてしまったと反省した。


「あの子、何か言っていましたか」


「𠮟られたというか、牽制されたというか……妹というのはおっかないものだと知りました」


「は? それはあの可愛いミレイナのことですか」


「俺の妹は一人だけだと記憶していますが」


 あんなに大人しくて花が咲くように可憐な娘が、おっかない?


 誰か別の人と勘違いしているのではないかと疑いたくもなる。彼女が怒っているところなどほとんど記憶にないほどなのに。


「下に朝食を食べに行こうと思います。着替えてもよろしいかしら?」


「もちろん、どうぞ」


「ありがとうございます、ではお言葉に甘えさせていただきますわ」


「…………」


 バイレッタが動くのを待っているかのような夫の態度に、ちらりと視線を向ける。なぜかじっと観察されている。エメラルドグリーンの瞳にはさいしんが浮かんでは、戸惑うように揺れている。とりあえず、噂の冷血狐はじんも感じられない。


「あの、着替えたいので出ていってもらってもよろしいでしょうか」


「あ、ええ。そうですね。では下にいます。何かあれば呼んでください……この態度……いや、やはりだまされているのか」


 アナルドはそっぽを向きながらもブツブツとひとちて寝室を出ていった。


「なんなの?」


 夫はもっと頭の切れる人物だと聞いていたが間違いだったのだろうか。ひどく狼狽うろたえているような姿は、どちらかといえば愚鈍ではないか。


 に落ちない気持ちになりながら、バイレッタは着替えるために痛みをこらえながら寝台を抜け出すのだった。




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