第13話


     ◆ ◆




 アナルドは初夜に疲れて眠ってしまったバイレッタをベッドに置き去りにして、風呂にでも入ろうかと寝室に置いてあったガウンをまとった。


 明け方の部屋は薄暗いけれど、何がどこにあるかくらいは見える。情事の後とは思えないほど淡々と行動するのはいつものことだ。


 だが昨日は、さすがの自分もやりすぎたかもしれない。久しぶりに怒りに似た激情に駆られた。そんな気持ちで女を抱いたのは初めてだ。戦場にいた時にも性欲を抑えることは難しくなかった。相手がいなくても己を鎮める方法はいくつもある。そういう点ではアナルドは潔癖だといえるかもしれない。


 そんな自分が気に入らない女を嫌がらせで抱けるのか不思議だったが、存外あっさりと情事に及べたことに拍子抜けした。彼女も行為は及び腰で抗議するような声も上げるが、実際はひどくよろこんでいるように見えた。悦ばせるつもりはなかったが、おかげで腹立たしいほどあおられたのは事実だ。自然と手荒に抱いてしまった。


 結婚は上司命令だ。興味もなかったので上司には根性があって肝が据わっている女性が希望だと伝えた。面白そうに笑っていた彼が相手を紹介してきてうっかり受けてしまったのがすべての始まりか。


 戦場が人生を面白くするのかと思えば、答えは否だ。けれど終戦に向かった途端、物足りなくなったのだから少なからず戦場は自分に刺激を与えてくれたのだろう。だが、その程度。しばらくは大きな戦争もない。内紛だのと小競り合いに駆り出されるかもしれないが、そう頻繁には起こらないだろう。


 気落ちしていたところへ、顔も見たことのない妻からの手紙が戦場に届いた。


 そういえば、結婚したのだったと思い出しながら手紙の内容を見て、多少期待したのがいけなかったのだろうか。手紙の内容は確かに挑発的で根性が据わっているように思えた。それから存在を忘れていた顔も知らない妻に興味を持ってしまったのだが。


 帰還命令を受け帝都に戻ってきて一週間余りが過ぎている。実家に戻らず軍から支給された部屋にひっそりと戻って嫁に関する情報を集めてみると、とんでもない毒婦だった。


 噂では大商人として有名な叔父との爛れた関係から始まり、帝都一のスタシア高等学院では級友を相手に刃傷沙汰を起こし、自分との婚姻後には父と懇ろになり、さらにスワンガン領地に三度ほど行っただけで信奉者を募っているらしい。全部が全部体の関係があるとは思わないが、こんな相手を勧めた上司に殺意すら抱くほどの不快さに眩暈めまいを覚えたほどだ。確かに度胸があって肝が据わっている。条件にはぴったりだが、それにしてもひどい悪女だ。


 そんな妻からの離婚の要求だ。さらに条件のいい相手が現れたのか、それとも単に義父との関係を切りたいだけか。どちらにせよ、己には全く関係のないことで逃げようとしている妻に初めて激しい感情が湧いた。


 この自分をここまでたぎらせるなど、大したものだと感心してしまったほどだ。


「なんとも大層な女を嫁にもらったものだが、離縁したいと言う相手の願望をすんなり叶えるのも業腹か……」


 離婚には応じよう。ただし、相手にもそれなりの仕返しをしたい。アナルドの頭脳は綿々とした計画を立て、この賭けを思いついた。


 情報を集めて準備を整えたアナルドは深夜に妻が寝ている寝室へと忍び込んだ。


 そっと足音を忍ばせて近づくと、漏れる月明かりの下、女がすやすやと眠っていた。


 あからさまに父と一緒に寝てはいないらしい。


 月明かりの僅かな光では髪色まで鮮やかにはわからないが、美しい女であることは目を閉じていてもわかった。影を落とすほど長くカールしたまつに、つんと上を向いた形のいい鼻。ぽってりとした官能的な唇も、上掛けに隠されたなだらかな曲線も。散々男をたぶらかしてきたと思わせるには十分だ。


 これが、己の妻かとしげしげ眺めていると、ふっとまぶたが震えてゆっくりと開かれた。


 女はベッドサイドに立つアナルドに気がつくと体を起こし、声を上げるでもなく静かに問いかけた。なんとも肝の据わった女だ。しかも冷静に自分が何者かを判断している。本当に寝ていたのかと疑わしく思うほどだ。


 数々の男の間を渡り歩いてきただけはある。


 さてどうやって賭けを切り出すかと様子を窺っていると、彼女はさっさと休むように告げてくる。部屋から追い出そうという気配を感じて、アナルドは意地になった。


 己の妻は戦場に行った夫を労うこともなく、利用するだけ利用して出ていくつもりか。過剰に期待した自分が愚かだったと言えばそれまでだが、何度言い聞かせても、やはり腹の奥から沸いてくるどす黒い感情を消すことはできなかった。


 心の機微に疎いへいたんな人形のような自分だが、馬鹿にされてのんにしていられるほど感情がないわけではない。


 賭けを切り出せばさすがに息を飲んだ彼女が、なんとか了承した途端に寝台へと押し倒す。子供なんて欲しいわけじゃない。ただ、馬鹿にしたかっただけだ。これまで男に抱かれても一度も子を産まなかった女に、その条件を突き付ければどんな顔をするのか純粋に見たかっただけ。


 当然、彼女を一生妻にするつもりもない。意趣返しができれば後は適当に放置するだけだ。そもそも自分には仕事もあるので彼女にかまけていられるほど暇でもない。一ヶ月というのは自分にあてがわれた休暇の期間だ。だからといってせっかくの休暇を丸々使うのも馬鹿らしい。


 だが、結局は賭けを了承した妻に後悔した。よほど勝算があるのか。もしかしたら子供の産めない体なのかもしれない。そうまでしても、自分の妻という立場から逃げたいと思う理由をアナルドは想像できなかったし、考えもしなかった。


 そのまま肢体を暴いていく。


 何人の男がこの体に触れたのか。自分がその中の一人になる。別段嫌悪は抱かない。ただ、父と同じ相手を抱くのかと思うと、複雑な気持ちがするような気がする。気がするだけで、それは些末な感情の揺れだった。


 これまで抱いた女に初めての女はいなかった。後腐れのない相手を選べば必然的にそうなる。だからこそ、彼女の中が随分と硬く、狭くてもそういう体なのだと深く考えなかった。れてはいるし、行為自体は問題なく続けられる。


 情報を分析して、詳細に解析する。


 いつも仕事でやっていることを、なぜこの夜の自分は行わなかったのか。


 正しい道筋、答えはいつも目の前にあるというのに。初夜を振り返る度に、アナルドはなんとも言えない気持ちになる。だが、何度思い返しても、やはりあの時の自分には気がつけなかったのだろうという結論に達するのだが。




 ──そうして、衝撃的な朝を迎えるのだった。




 今、アナルドは明るい朝日の中、眠る妻の横で絶望に打ちひしがれていた。


 状況が全く整理できていない。頭の中は真っ白だ。いや理解はしている。ただ受け付けられないだけで。


 風呂から戻ってきて、自分の部屋で寝なおすかと思いながら何気なくまくれた掛け布団を辿り真っ白なシーツを凝視している。正しくは、その上に落ちた染みを。


 血痕。


 大きさは胸につける勲章程度のもので、致命傷にはなり得ない。


 戦場ではよく見るものであり、自宅ではあまり見ないもの。いや刃物で指を切れば見ることもあるかもしれない。だからなんだと自身を嘲笑う。


 動揺している自覚はある。それほどの僅かな血痕に、人生すべてが根底から覆るような衝撃を受けたのだから。


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