第11話


 ワイナルドはこれまでの領地の報告書を集め、帝都にある資料はなんとか目を通したらしい。領地視察に向かう日を四日後と定めたので、バイレッタも仕事を片づけつつ準備をしていた。


 そんな夜更けのことだ。


 ふっと部屋の中に気配を感じて、バイレッタは目を覚ました。辺りはまだ暗い。カーテンの隙間から差し込む月明かりだけが唯一の光源だ。


 寝室だから自分一人だけのはずである。それなのに、力強い視線を感じるのだ。


 ついと顔を横に動かすと、ベッドの傍らに男が立っているのがわかった。シルエットとぼんやりと表情が読み取れる程度の視界の中、悲鳴を飲み込んでゆっくり体を起こした。


 寝起きのぼやけた視界から、ややはっきりとした輪郭を現した男は随分と整った顔立ちをしていた。切れ長の目、高い鼻、薄い唇。どれをとっても恐ろしいほどに形がいい。


「初めまして、旦那様。こんな姿で申し訳ありません」


「ふふ、初めまして。もう深夜ですからね、寝着姿が当然ですよ。どうして俺が夫だとわかりました?」


 低い声は存外、耳に心地よく響いた。楽しげに笑うさまも、好感が持てる。冷徹、冷酷ととにかく冷ややかに語られる男の表情が柔らかい。意外だ。噂はどこまでも噂でしかないと知る。


 だがバイレッタは、横に立っている男から何か沸々と怒っているような冷たい印象を受けた。何か気に入らないことでもあるのか、不機嫌を押し殺しているような。


 自分のうなじがピリピリとする。


 こんな感覚がする時は注意を要することが多い。困った客しかり、義父からの無理な仕事の押し付けという嫌がらせしかりだ。


「ここは夫婦の寝室だと言われました。堂々と女の寝顔を眺められる方など限られますもの。いつこちらにお戻りになられたのです?」


 この屋敷に嫁いだ時に、夫婦として与えられた部屋の説明を受けた。もともとは夫の母が使っていた部屋らしい。アナルドの私室とつながっており、それを夫婦の寝室に替えたとのことだ。夫の私室の隣に夫婦の寝室があり反対側がバイレッタに与えられた部屋だ。三つの部屋は繫がっており、寝る場所は夫婦の寝室ということになる。


「屋敷に戻ったのはつい先ほどですよ」


 そう言う割には簡素なシャツにスラックスといったちだ。軍服ではなく、平時の服装に違和感を覚える。たった今、戦地から戻ってきたとは思えない落ち着きようだ。だが、そこには触れずにねぎらう。


「お疲れ様でした。ぜひゆっくり休んでください」


「そのつもりですが、貴女あなたとは早めに話をしたほうがよろしいかと思いまして」


 彼は手に持っていた封書を掲げてみせた。バイレッタが一ヶ月ほど前に南部戦線に送った離縁状である。無事に相手に届いたようではあるが、あんとは程遠い空気感に包まれている。


 どういう意味だろうか。双方合意の上、離婚に応じてもらえると考えていたが、彼からはそんな雰囲気を感じない。背中を伝う冷や汗に耐えながら、バイレッタは殊更ゆっくりと口を開いた。


「こんな夜更けに、いったいどのようなお話かしら」


「まあ終戦が決まった途端にされる離縁話ほど突飛な内容ではないことは確かですね」


 怒っている。


 これは相当に。


 静かな声音はむしろ凪いでいる。どちらかといえば、機嫌がよさそうなと言ってもいいほどだろうが、なぜか激しい怒りを感じた。


 バイレッタは舌打ちしたくなった。顔を見るつもりもなかったので、離縁状だけ送り付けてさっさと逃げ出すつもりだった。まさか相手が引き留める方向に動くとは予想していなかったからだ。むしろ喜んで離縁に応じてくれるとさえ考えていた。


 だがやり方を間違えたらしい。こうなると、男の思考を読むためにももう少し彼を知る必要がある。


「申し訳ありません、旦那様。顔も見ずに前線へ向かわれるほどに多忙な方のご負担を少しでも減らしたつもりでした。お帰りになられても、お仕事でお忙しいでしょうし、あまり煩わせるわけにもいきませんものね」


「そうですね、確かに俺は仕事ばかりですし、私的な時間はほとんど取れないでしょう。ですが初めて戦場に届いた妻からの手紙でしたから、少々浮かれてしまったようだ。まさか離縁を切り出されるとは思ってもみませんでしたからね。焦ってしまったのは確かです」


 全く焦っていないような口調で静かに告げる。男は一旦言葉を切ると、こちらを探るように口を開く。


「俺と離縁したいとのお考えは今も変わりませんか?」


「ええ、それは……もちろん」


「顔も見たことがないという理由ならば、今こうして顔を合わせて話しているわけですし、成立しませんよね。それ以外にも何か理由がありますか」


「八年間も放っておかれれば、十分に離縁の理由になるかと思いますが」


「なるほど。ですが、戦時中という特例ですし、よその夫婦も同じようなものなのでは? しかも終戦直後にこのような話を持ち出すのは、戦場にいた夫を少しもいたわろうという気がないんでしょう」


 もちろんお疲れ様だなとは思うが、別に自分が慰めなくても噂の美貌の夫なのだから引く手あまだろう。実際、薄暗い視界ですら彼の容貌が整っていることはわかる。彼の妻になりたい者など両手の指の数以上に存在するだろう。おかげでバイレッタは嫉妬と羨望を受け社交界で散々陰口を叩かれているのだから。希望者が他にいるのに、そちらに任せたいと考えてはいけないのだろうか。


 なぜ、自分に執着するのかわからない。


「旦那様こそ、顔を見たことのない妻など不必要でございましょう」


「俺の立場上、妻帯者というのはとても都合のいいものなのですよ。これから軍の行事に参加しますが、同伴者が妻だと無用な争いは生まれませんからね」


 なるほどこれが本音か、とバイレッタは内心でため息をついた。


 つまりお飾りの妻がいたほうが、彼にとっては仕事がしやすい環境なのだろう。そんなものやりたい人がやればいいのだ。自分が付き合う義理はない。


 妻という立場を押し付けられると考えたからこそ彼が戻ってくる前に逃げる算段をつけていた。彼はバイレッタには興味がないと決め付けていたので離婚にあっさり応じて、新しい妻をめとってくれると考えていたのだ。しかし突き付けられた現実は予想外のものだった。


 自分のかつさに腹が立つ。


 つまり彼は新しい妻を探す手間すら惜しいと告げているのだ。そんな面倒くさがりだという情報は得ていなかった。


「ですが手紙の一つも書かず、八年間一度も顔を見せに戻ってこなかったのも事実です。なので、貴女の離縁したいという申し出を無下にはできません。ですから、ここは一つ賭けをしませんか?」


 彼は離縁状を送り付けたことを当てこすったが、彼が言っている話も十分に突飛な内容ではないか、とバイレッタはすかさず思ったのだった。


「賭け、ですか?」


 戸惑いつつ尋ねれば、アナルドは小さく頷いた。


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