お隣さんの喘ぎ声

杜侍音

お隣さんの喘ぎ声


「……あー、間に合った」


 俺は便座に腰掛け、踏ん張った。

 よくぞ、ここまで踏ん張った。もう少しで社会的に死ぬところだった。活躍したな、俺の肛門括約筋。

 といっても、俺が死んだところで誰も悲しまないんだろうな。

 俳優になりたいと無謀な夢を追いかけるために、反対する両親と大喧嘩をして、逃げるようにして東京に来たのがもう七年前。あれから一度も帰省も連絡もしていない。

 地元民しか知らない大学を卒業後、必死に事務所や役のオーディションを受けているが、作品に出られたのは映画のエキストラが二回だけ。

 友達だった奴らも順調に出世したり、結婚したりしているみたいで……なんだか俺だけが、夢の中に取り残されているみたいだ。


 もう気付けば今年で30歳──俺には結婚を約束できるような恋人はいない。

 大学時代に一回付き合ったことはある。それだけ。一線を越えることはなく、すぐ別れた。

 結局、バイトして貯めた金で大人しか入れない店に行き、そこで童貞を卒業した。相手は上等な技術を持って俺と一緒に天まで果てようとするくらいには高齢の女性だった。


 あー、このまま何にも良いことなく年取って死ぬのを待つだけなのかなぁ……


『──あっ』


 ……ん?


 気のせいか。


『──あ、あっ……! ま、待って、ん……‼︎』


 ビクン! と、俺のセンサーが反応した。

 ……隣から喘ぎ声が聞こえる。それも、声質的に若い女の子だ。

 バイトで生計を立てている俺は東京郊外のやっすいアパートに住んでいる。騒音対策OKと入居時は謳っていたが、実際のところ仕切りが薄い場所があった。

 それがここだ。トイレと浴室が一緒になったユニットバスだ。


(あ、上のオッサン、シャワー浴びてんな)


 以前もそのように思ったことがあった。

 ここのアパートはおっさんとおばさんばかり。平成生まれが俺だけという平均年齢高すぎ天井低いアパートに住んでいる。

 しかし、つい先日。隣に天使が舞い降りた。


「──マイと言います。これからよろしくお願いします」


 マイちゃん……ちょっと名字忘れたし、名前の漢字も分からないが、とにかく可愛い女子大学生が隣に引っ越してきたのだ。

 現代日本において、わざわざ隣人挨拶しに来るなんて、なんて良い子なんだろうとおじさん手前の俺は目が潤んだ。

 今でも覚えているのは、本当に可愛かったということ。黒髪ロング、目はぱっちり、鼻口は小ぶりで、おっぱいは程よく大きくて、ショートパンツに黒タイツ越しに見えた脚は細くて、なのに安産型で──うむ、完全にビジュアルしか見ていないな! 律儀に挨拶しに来た子を舐め回すかのように見ていた俺はクズだな‼︎


『ん……! あっ、あっ!』


 にしてもだ、あんな清楚系美少女がお風呂場で淫らな行為をしているなんて……堪らないなおい‼︎

 今まで良い思いをしてきたことなかった俺にとって、人生最大に盛り上がっている。ついでに丸出しの下半身も盛り上がっている。


 しかし、気になることが一つ。

 今、マイちゃんは一人か? それとも誰かといるのか?

 もし、彼女が俺と同じように自家発電好きならば、い、いつか共同作業しませんかとお誘いすることも──


『そこ、そこ好きっ! あっ……! も、もっときて……!』


 ……スーッ、いるなこれ。

 彼氏持ちかー。まぁ、そりゃ、そうだよな。あんな可愛い子を男が放っておくわけがない。

 おそらくマイちゃんは近くにある大学に通っているのだろうが、あそこは共学だ。大学とは性に飢えた男共がうじゃうじゃいる巣窟だ。


 ま、仕方ない……。彼女とできなくても今この瞬間を楽しませてもら──


『ね、ねぇ、あなたもこっちから挿れて?』


 ……3Pだとっ⁉︎

 マ、マイちゃん⁉︎ 君はとんだふしだらな子だよ!

 マジかよ、清楚系のイメージが一瞬にして崩れてしまった……が、萌える。清楚系ビッチだと? 最高にパーフェクトな子じゃないか。

 俺の俺が、便座からこんにちはと顔を出している。

 マイちゃんは複数の男を手玉に取るような女の子、男好きでH大好きなんだなぁ、きっと。


 俺も入れてくれないかな……。いや、挿れられるのでは……⁉︎

 だって、ねぇ……そういう人って誰でもOKじゃないの⁉︎(偏見)

 いや、こう見えて俳優目指してたわけだから見た目にはこだわってきたし? 大学生から見れば大人でダンディーな年齢ですし?


 思い勃ったが吉日。

 俺はすぐにケツを拭き、すぐ脱ぐ予定のパンツとデニムパンツを穿き、家を出た。

 気のせいかもしれないがトイレを流す時、白きちり紙に付きし鮮血の赤色が混ざり合って、俺の門出を祝う紅白カラーとして見送ってくれたような気がする。


 歩いて三歩。

 チャイムを押した。


 ──やっべ! 緊張してきた! 初めて行った風俗の時を思い出した!

 身体がガチガチだ。あそこもガチガチだ。


「はーい」


 ちょい時間が経って扉が開かれた。

 俺のために急いでくれたためか、きっとあそこと同様に濡れた髪。火照った顔と浅い呼吸。

 だらしない服……と腹。あ?


「え、なんすか」


 出てきたのは、おっさんだった。


「マイちゃんはぁ⁉︎」

「はぁ?」


 え、誰こいつ⁉︎ 同人誌で度々出てくるタンクトップとブリーフだけ着た奴みたいなの出てきたこれ⁉︎

 ……え、嘘だろ。マイちゃんこんな男が趣味なのか⁉︎ なかなかにハードだね⁉︎

 けど、それって俺にもチャンスはあるってことか⁉︎


「マイちゃんはどこすか⁉︎」

「は? 誰それ」


 名前すら知らないとは……ほんとなりふり構わずその辺の男引っかけてるなおい! 最高かよっ‼︎


「マイちゃんってのは、女子大生だよ! 隣に住んでる、黒髪ロングでスタイル抜群のH大好きの女子大生! あんたとしてたんだろ⁉︎ 風呂場から喘ぎ声聞こえてたんだから‼︎」

「風呂場? ……あ、あー、それね。俺が観てたAVだわ」

「ん?」

「『セックスレスの人妻 童貞の筆下ろしの手助けのつもりが興奮して──BEST』すね」


 えーぶい……? ひとづま……?

 ちょっと何言ってるかわかんない。


「……あ、すいません」


 オッサンが気まずそうにして俺の背後に向かって謝った。謝る時は人の目を見て謝りなさいよと思い、振り向きそこにいたのは……マイちゃんだった。

 彼女はゴミを見るような目で俺たちを見て背後を通り過ぎ、こことは反対側、本来の部屋に入る時にこう言った。


「きっしょ」


   **


 数日後、彼女は引っ越した。

 どれだけ俺が大きな声でセリフ読みの練習をしていても怒られることはないだろう。

 あの日俺は素人童貞を失うことはなく、代わりに馬が合って仲良くなったAV好きのおっさんという友達を得ることになった。

 今度、おっさんオススメの店を教えてもらうことになった。

 ホームページを眺めていたら、マイちゃんに似た子がいた。俺の純白なこの想いはその子にぶつけよ。


 はぁー……金貯めて早く行こ。

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お隣さんの喘ぎ声 杜侍音 @nekousagi

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