第41話 僕はまだ生きていていいですか

 紅葉も終わり、冷たい風が流れ、葉が落ちて木々がすっかり裸になった頃、フォードが薬屋のゲイル・マルクを連れてパディの元へやって来た。今日はさすがのフォードも寒さのためか、スーツの上にコートを着込んでいた。

「こんにちは、ライス先生!」


 診察室でゲイルとパディが固い握手を交わす。

「こんにちはゲイルさん! ごほっごほっ…。今日はフォードさんとお揃いで。フォードさんこんにちは。フォードさんはちょっとせましたね。ごほっ」


「ううっ。お前に言われたから痩せたんじゃないぞ…。気分的にダイエットしたくなったんだ…。フライドチキンもしばらく食べてない…。それとは別に…今日はちょっと聞きたいことがあって来たんだ…。っていうか今日はえらく咳をするな」

「ははは。風邪でしょうか…。ごほっ」


 ゲイルが診察室を見回して言う。

「サーキス君は?」

「家の畑仕事をしています。終わったら出勤するそうです。リリカ君の方は酒場の方へ氷を作りに行ってますよ」


「ふむふむ。相変わらずパディちゃんはヒモのような生活だね」

「ゲイルさん、薬屋さんの売れ行きは最近どうですか? ごほっ」


「うわっ、ワシを無視した! …サイネリア薬品の経営はちょっと停滞しているね。ガルシャ王国で結核患者をほとんど聞かなくなったから、ストレプトマイシンもあまり売れなくなったね。まあいいことだよ。それで国外に営業を送ってるけど、なかなか仕事がうまくいかないって。


 ストレプトマイシンも量産するのに苦労したんだよー。鉄の鍋じゃ駄目って言われたからステンレスの鍋を作って。鍋の材料も冒険者達にニッケルとかクロムとかレアな金属探してもらってよー。世界中に結核患者がいるからたくさん薬を作った方がいいってパディちゃんが言ったから大量生産したのに。過剰在庫だねー…」


「おかしいですねー。フォードさんは不動産屋さんなのになぜか薬屋さんの台所事情に詳しいなあ。まるで自分の会社みたいな言い方ですね。何でかなー?」

「ところで! さっきから言ってるけどワシらはお前に聞きたいことがあってここに来たんだ!」

(話を変えたな)


「最近、事件があってね。ここから南東のカリブ・アコアって土地の牧場で牛が血を流して大量に死んだんだ。新聞にも載ってたよ。パディちゃんももちろん知ってるよね?」

(何という偶然⁉ 奇跡か⁉ もしかしたら本当に女神セリーンはいるかもしれない…)


「…うちは新聞を取ってないから僕は世間のニュースをあまり知らないんです。誰かさんが毎月、鬼のように取り立てに来るから」


「かわいそ。で、牛が死んだ原因がわからないの。二百頭ぐらいが全滅したって。たぶん人の手によって殺されたものじゃない。それでそこの牧場主が言うには二週間ぐらい経っても死んだ牛の血が固まらないとのことだった。


 少し前に牧場主はサイネリア薬品にやって来たそうだ。手土産に血液をバケツに二十リットル、牛の死体を切ったもの、他には餌の干し草を持って来たんだって。ゲイルちゃん達が調べてみたけど、ちんぷんかんぷん。で、パディちゃんなら何かわかるかなーって来たんだけど…」


「干し草の種類はスイートクローバー?」

「な、何で見てもないのにわかるんですか⁉」

 驚くゲイルにパディは淡々と語った。

「昔、僕の国でも同じことがあったんです。血液と草を見せてもらわないとはっきり言えませんが、おそらく牛はクマリン化合物という微生物を過剰に摂取して、血液がサラサラになり過ぎて死んだと思われます。ごほっごほっ…。


 病名はそのままで、スイートクローバー病です。あの、お願いです。干し草を全てそこから買い上げてください。また何かが食べれば死に至る。そして、それから抗凝固剤が作れます。人間の血管の通りを良くできる。例えば、血栓などを防ぐことができます」


 二人はパディが言っていることがいまいち理解できなかった。パディはそれが目に見えてわかり、彼をやきもきさせた。

「心臓の薬になるんです! 心臓が悪い人は世界に何十万といる。全ての人を助けられると言いません。ごほっ…。でも、助かる命はある!」


 パディはそう言いながらもこれだけでは言葉が足りないと痛いぐらいわかっていた。


「でもよぉ、パディちゃん? お前を褒めるわけじゃないけど、心臓の良し悪しなんかわかる奴なんか、ヨーロッパでパディちゃんだけじゃない? そんなんじゃ薬は全然売れないよ? お前は以前、薬は未来への投資って言ったよね? ちょっと今回のは資金の回収がいつになるのかわからないよ。薬屋さんも首を縦に振らないなあ」


「そうですよ、ライス先生。結核菌の観察以外に、僧侶を使った治療方法が普及していることを聞きません。このことは一旦、持ち帰って社長と話してみたいと思いますが…」

「申し訳ないのですが、抗凝固剤の開発を最優先にお願いしたいのです。今の仕事も中断して」


「先生は恩人ですが、ここまで自分本位なことを言う人とは思いませんでした。見損ない…」

 ゲイルは一度言葉をつぐんだ。

「と言ってて思ったんですが、もしや知り合いに心臓が悪い人が?」


「僕なんです」

「はい?」

「僕の心臓が悪いんです」


 フォードが、「どうやって心臓が悪いのを証明するんだ、わははー」と笑っていると、パディは白衣から上半身の衣服を全て脱いだ。裸になったパディに二人は凍り付いたようにして瞳を大きく開いた。


 彼の痩せた体に、首のすぐ下からみぞおちのところまで一本の白い線がまっすぐと入っている。刀傷かたなきずなどではない。切られる方の同意がないとここまで綺麗な一直線の傷ができるはずがない。明らかな手術痕しゅじゅつあとだ。治り具合から何年も前に切られたものとわかった。二人はパディの胸から目が離せなかった。


「パ、パディちゃん…」

(こんなこと報告になかったぞ⁉)

「リ、リリカちゃんは知っているのか…?」

「はい。一緒に住んでたらバレますね。サーキスは知りません。フォードさん、僕の胸に耳を当ててみてください」


 フォードが言われた通りにそうしてみたら、心音が明らかにおかしい。ぷしゅっぷしゅっと空気が抜けた音がする。

「どれ、私も…。…ドクンドクンって音じゃないですね…。音のリズムも、遅い! かなりゆっくりだ! …病名とかあるんですか?」


大動脈弁閉鎖不全症だいどうみゃくべんへいさふぜんしょうです。ドクンドクンって普通鳴る音は、大動脈弁という弁が開閉して音を出しているんです。僕の場合はここが壊れかけているんです。血液が心臓に逆流しているんです。ごほっ…。咳のことをさっき風邪と言ったのは嘘でして…。心臓が弱って咳が出てます…。ごほっ」


 そう言っているそばからパディは鼻血を流した。パディは白衣からハンカチを取って血を拭った。もう何度も使っているのか古い血の色がハンカチにこびりついていた。

「気温が下がってきて血圧が上がり、毎日鼻血が出るんです」


「その…手術を受けたのはいつだ?」

「二十年前です。自己弁温存という方法を使ったので心臓の手術は半永久的なものではないのです。簡単に言えば、消耗品的な感じですね」

「そ、素朴な疑問ですが、先生の国には僧侶はいないんですか…?」


「ははは…。いないんですよ、これが…」

「じゃあ、手術の後は自然治癒⁉ そんな非効率な⁉ 死ぬかもしれないじゃないですか⁉」

「はい、死ぬ、かもしれません…。ごほっごほっ。あのところで…弁の寿命、僕の心臓の寿命が、もうたぶん、その、もう近くて…あの…」


 パディは上半身裸のまま涙を流し始めた。だらだらと血が混じった鼻水もとめどなく流れている。

「ぼ、僕は…、まだ…生きていて…いいですか…」


 フォード達は力強く即答した。

「いい! いい! お願いだから生きてくれ! 薬のことはワシに任せろ! おいコラ、ゲイル! パディちゃんに薬を作らないとお前殺すぞ! パディちゃん泣くなよ!」


「私も今の仕事を全て止めて全力でその薬の開発に取り組みます! その薬は何という名前ですか⁉」

「ワーファリン…です…」

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