第42話 チェスターとピアース(1)

 その日、最後の患者の受診が終わるとリリカがサーキスに唐突に言った。

「ちょっとあんた、これから一緒に飲みに行かない? あたし酒場に行きたいの! おごってあげるから!」

「え?」


「先生もファナも酒を飲まないし、あたしってファナ以外に友達がいないのよ。一人で時々、酒場に行くとねえ、男から声をかけられたりして嫌なのよ! あたしは童顔だし、一人で飲んでるとたまにからまれる…。


 この前どこかの男に『お姉さん、一緒に飲まない⁉』って言われたから、『あたしは老け専なの。二十年後に声かけて』って言ったら、『そしたらお前ババアじゃん⁉』だって。最悪」


「でも、ファナが誤解するかも…」

「あたしとファナは友達だもの! 大丈夫よ!」

「ま、いっか。行くよ。奢ってくれるなら」

「よし! じゃあ、あたしは今から着替えて来るわね!」


 病院の主であるパディよりもリリカはなぜか金を持っている。サーキスが前々から不思議に思っていたが、そこまで気にも留めてはいなかった。


     *


 サーキス達が酒場の扉を開けると夕方ながら、店内は客がちらほら席に着いて酒を傾けている姿が見えた。すでに酔っぱらった客もいる。サーキスとリリカはカウンターの近くのテーブルに向かい合って座る。リリカの髪型は珍しくツインテールではなく髪を下ろしていた。普通のロングヘアの格好だ。少し大人っぽくも見えた。


 ここはリリカが氷を卸している店でもあり、店員とリリカは顔なじみ。リリカが注文を済ませるとさっとビールと赤ワインが一つずつ現れた。サーキスは一気にジョッキを傾け、リリカは上品にワインを味わう。

「以前も言ったけど、あんたはセリーン教の僧侶なのに酒を飲むのね。あんたの寺院的にどうだったの?」


「そりゃ、師匠から禁止されていたぜ。でも不良僧侶の集まりだったから俺達は酒を飲んでた。そしてたまに親っさんに見つかってぶん殴られてた。あの化け物みたいに強いギルの親父だぜ。今思い出しても恐ろしい…」


「あんた達ってアホね…。どんな寺院か目に浮かぶようだわ…。今までうちで働いてた僧侶達も飲んだり飲まなかったりだった。一人だけ飲兵衛のんべえがいたわ。本当にセリーン教の戒律ってどうなってるのかしら…」


「あー! 手が痛い!」

 カウンター席から大きく漏れたその声にリリカとサーキスがそちらを向いた。

「しびれてたまらないぜ!」


 男二人が並んで座り、左側の男が左手だけに白い手袋をはめて手をブラブラと振っている。サーキスの方からは背中と横顔しか見えないが、左の男の顔はヒゲで毛むくじゃら。四十代に見えた。

「くっそー! 痛い痛い! だるい!」


 騒がしい隣人にいちいち反応せずに右の男がクールにグラスを傾ける。スキンヘッドで見た目は五十代ぐらいだ。二人ともガタイのいい体型に作業服。サーキスの目には彼らは肉体労働者に見えた。

「そんなに我慢できないか、チェスター」


 二人は酔って声のボリュームをコントロールできないのか、カウンターの男達の声は大きくサーキス達に丸聞こえだった。

「体がいつもだるいし、左手が痛くて痺れる。徹底的なのが握力がな、異常に落ちたんだ…。物をたまに落とすようになった…。実は俺、運送屋を辞めようかなって思ってるんだ…」


「馬鹿な、チェスター! お前、二十年以上もうちの会社を勤めてきただろ⁉」

「俺は握力が本当になくなってきてるんだ。ピアース、あんたは聞いてないようだが、俺はこの前、高級品のガラス細工を地面に落としてしまったんだ。弁償の話になったが、間接的にその商品は不動産屋のフォードさんの息がかかっていた。それであの人が気にするなと言ってくれたようで何の問題もなく終わった」


「噂で聞くがフォード不動産の社長っていい人みたいだな…」

「ああ…。でも、俺はまた物を落とすだろう。具合はどんどん悪くなる。運送屋として致命的だ。これ以上働けば給料がマイナスになることは目に見えている…。病院も行けるだけ行った。スレーゼンの病院はあちこちな。残るはあの病院だ…」


 落ち込むチェスターにスキンヘッドのピアースが意を決したように口を開いた。

「チェスター。黙っていたけど、三年前、俺の嫁さんはライス総合外科病院にかかって死んだんだ。四十六歳で逝った…。死んでもいいならあそこに行け」


 サーキスが音を立てて席を立った。リリカが「待って」と一言、サーキスを制した。彼女が唇の前に人差し指を立てる。黙って話を聞けということだ。サーキスはおとなしく席に座った。


「俺は初耳だぜ⁉」

 チェスターと呼ばれるヒゲづらの男が驚いている。

「あんた、何で黙ってた⁉ 奥さんは何の病気だったんだ⁉」


「ヤブ医者のライスって奴はガンという病気だと言っていた。それとあの病院にかかったなんて普通誰も言いやしねえよ。

 三年前のある日、嫁さんはいきなり倒れた。本当に突然のことだった。それでお前と一緒で病院を転々と廻って最後に行ったのがあの病院だ。そこでライス総合外科病院のヤブ医者はガンだと診断した。嫁さんが苦しいだろうからとそいつは注射一本打った。そしたら痛みで苦しむ嫁さんが途端に穏やかになった。俺はそれであのヤブ医者のことを信じちまった。


 あいつが言うにはニュウガン。乳のガンが元々の原因だったらしい。それがテンイして乳からハイ、ハイから脳、骨までガンっていうのが達してるって言ってやがった。何が何だかチンプンカンプンだった。


 そして場所を変えてヤブ医者と二人っきりになるとこう申告された。嫁さんはもって一か月だと。本人が気を落とすから嫁さんには伝えるな、そして悟られるな。…なんて酷なことを言いやがる。それでも俺は何とか嫁さんを助けて欲しかったからできることは全てやってくれと頼んだ。


 あいつは承諾してがんというやつを切れるだけ切ってくれた。乳、肺という臓器は二つあって一つは完全に除去、頭も切り開いて脳の癌も取り除き、骨も一部切除したそうだ。


 奴はそれでも寿命はそこまで伸びていない、死を受け入れろと言う。嫁さんは病院に入院していたが、しばらくして家に帰りたいと言い出した。その時に俺は気付かなかったが、嫁さんは俺の態度で自分の死を感付いていたのではないかと思う。普段は俺はお前の飯はまずいだの、出勤前に作業着は出しておけだの亭主関白だったからな。急に俺が優しくなったから気付いたのかな…。入院費のことも気にかけてたんじゃないのか…」

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