第38話 ストレプトマイシン(2)

 ゲイルは言った。

「それと温度計の方だが、比較的小さな酒瓶の上にストロー状の棒を刺して作った物だった。中身は食紅で赤く色づけされていた。急ごしらえという感じで今出回っている温度計より大型、はっきり言って扱いにくい物だったよ。


 それから、土はブラウンさんという方の畑のものだと言われた。そこの土は呪文の力でよく肥えていると。ストレプトマイシンの正体はカビだ。土を熱して分離させ、ストレプトマイシンの結晶を探せと言われた。レシピを渡された。そのレシピは女の子が書いたような文字だったよ。たぶんここのリリカさんが書いたものだろう。何かを丸写しにしているようだった。到底内容を理解して書いたものではないと直感的に思ったよ。


 そして毎日毎日、土をビーカーで煮てストレプトマイシンの結晶を探した。小さい物を見ていると目が痛む。毎度毎度、やり方や温度のメモを残し、説明書通りに作っているつもりだが、見本の絵と同じ結晶が見つからない。ゴールが見えない作業にしばらくして諦めたくなった。


 ライス先生の前で愚痴をこぼしたよ。そしたら先生はカンカンだ。『いいんですかゲイルさん! 諦めたらあなたの奥さんは死ぬんですよ! いつかあなたも感染するかもしれない! それに奥さんの後ろにはまだ何千、何万と同じ病で苦しんでいる人がいるんだ! あなたはその人達を見殺しにするつもりか⁉』だって」


「出たね、先生の精神論。何か困った時は言いくるめてくるよね。何かフォードさんとその辺が似てる」

 ゲイルはここまで話をしていて気持ちが楽しくてしょうがなくなっていた。


「ははは。言われたらそうだね。…話を戻そう。当時のヨーロッパの一番の死因は結核。七人に一人が結核で死んでいたと言われる。妻も本当に具合が悪かった。ベッドから起きることもできなかった。だから、私が彼女への食事を持ち運び、体を拭いたり、排泄などの世話、着替えも手伝っていた。


 先生の言う通り、結晶探しの断念は死を意味する。私は顕微鏡で探し続けた。土も足りない時はブラウンさんの家に断りを言って土をもらった。結晶探しを始めて一か月、ようやく見本の結晶とそっくりな物ができた。先生もこれならいいだろうと了解してくれた。いよいよ妻に試す時だ。


 先生は言った。『自分は薬の専門家ではないから開発が成功しているとは言いきれない。もしものことがあったら申し訳ない』と。先に謝られた。ストレプトマイシンは週に二回、一㏄ずつ注射器で投与する。難聴の副作用があるため、耳の調子を確かめながらの投与だ。


 最初は効果がないように見えた。数週間後には妻が起きてトイレにいけるようになった。先生が言うには妻の肺はまだ結核菌に侵されていると言われたが、彼女は徐々に元気になっていく。さらに月日が経つと簡単な家事もできるようになった。最終的には二年ほどかかって妻の結核菌は消えた。完治だ」


 見ればサーキスが顔を手で押さえて震えていることに気付いた。泣いているようだ。

「…あの、もう話はやめた方がいいかな…?」

「い、いや続けて…」


「話がさかのぼるが、ストレプトマイシンが完成した当初、ライス先生は結核の薬をあと四つ作れと言い出した。冗談だと思っていたら彼は本気だった。あれだけストレプトマイシンを奇跡の薬と喧伝けんでんしておきながら、ストレプトマイシンが効かない結核菌があるだと。それをカバーするために必要らしい。


 私はやけくそで研究を続けた。でも幸運なことに妻はストレプトマイシンだけで治った。難聴の副作用も出なかった。そして、私は正式にサイネリア薬品に就職が決まった。それまでは私は会社に仮に籍を置かせてもらっていただけだったらしい。それまでの給料、みたいなものはフォードさんが私に支払ってくれていたそうだ。あの人はそういう人だよ。逆にうまくいけば薬の販売に一枚噛ませてもらうと…おっと、これは秘密だった…。


 私は今はたいそうな金を貰っている。不相応な金だよ。家も買ったし、正直言って遣い道がないからこうやって無駄にオーダーで作ったこんな服を着ているよ。我ながら服に着られているね。妻を助けたいだけだったのに。お金はおまけみたいなもんだね。


 私がライス先生と出会った時、彼は『結核は貧乏人の病気』と教えてくれた。栄養状態が悪い人間がかかるそうだ。反対に結核菌が体内にあっても健康状態が良いと発病しないそうだ。それを聞いていたフォードさんは躍起になって貧乏人を探しては仕事を与えたりしていた。


 病気で家賃が払えない人は必ずライス先生の所へ連れて行った。治療した後はその人の適職を考えて、なければ先生の国の技術とかを教えてもらって新しい仕事を作ったりした。フォードさんも奥さんを肺炎で亡くしていてね…」

(初めて聞いた!)


「あの人は心の底から病気を憎んでいる。言動がエキセントリックだから、街の人はフォードさんをおかしな不動産屋みたいな感じに揶揄する人もいるけど、彼は素晴らしい人だよ。フォードさんがいなければ今のこの国はないね」

「ただいまー」


 パディ達が帰って来た。

「あれ? ゲイルさん! お久しぶりです! こんにちは! 奥さんは元気ですか?」

 二人が握手を交わす。


「はい、おかげさまで! 家を引っ越してなかなかこちらに来れなくなってしまってすみません。お久しぶりです!」

「こんにちは、ゲイルさん」

「リリカさんも久しぶり」


 そこでサーキスが言った。

「じゃあ、俺は畑仕事をしないといけないから今日は帰るぜ。用があったら呼びに来て。ゲイルさん、今日はありがとう! またね!」

「ああ!」


 サーキスが行ってしまうとゲイルは観天喜地の表情でパディに言った。

「サーキス君、ですね! 彼はいい! とてもいい僧侶を雇いましたね!」

「はははっ。そうそう、彼はブラウンさんのお孫さんと結婚したんですよ」

「そう言えば同じ名字! 婿養子か⁉」

 パディとリリカはクスクスと笑った。

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