第37話 ストレプトマイシン(1)

「サーキスはブラウンさん家でちゃんとやれてる?」

 今日は患者の往診日。病院の出がけにパディがサーキスに気になることを訊いた。最近、もっぱら興味があることだ。サーキスが生返事で、「まあぼちぼち」と言いかけるとリリカが説明を始めた。


「家の中でサーキスはファナに一日に十回ぐらいキスを迫ってくるそうです。『もうチュッチュッ、チュッチュッしてくるんだよ! あんなに甘えん坊って知らなかった!』ってファナが呆れてました。それも所かまわずやるものだから、おばあちゃんに見られて『こらサーキス! チューするのはあたしが見えない所でおやり!』って怒られてたそうです」


 パディが冷やかした顔になって言った。

「新婚さんだね! いいねえー!」

 サーキスは無言で耐えた。お喋りな妻を持った宿命だ。妻の友人に筒抜け。これは税金と同じものなのだ。彼は自分に言い聞かせた。


     *


 燕尾服にシルクハットをかぶった中年、ゲイル・マルクは久方ぶりに青い屋根の病院を目にして胸が高鳴り、気持ちが勝手にソワソワとしてしまう。

(久しぶりにライス先生と会える…)


 涼しい秋風を浴びても気持ちの高揚が止まらないゲイル・マルク。彼は自分が尊敬するパディに会おうとライス総合外科病院の門戸を開けた。

「こんにちはー、ライス先生! お久しぶりですゲイルです!」

 しかし、現れたのは期待外れの金髪の青年だった。


「こんにちはー! 患者さん? 違うの? パディ先生は往診に出てるぜ! ちょっと帰って来るのに時間がかかるぜ!」

(何なんだ、この口の利き方の知らない若者は! 看護師のシャツにセリーンの刺繡…。僧侶か…。こんな落ちこぼれのような若者でよっぽど僧侶不足と見える。医学と神学は相容れない。まさにそれを具現化したような光景だ)


「なら待たせてもらうよ。私は先生の知り合いでゲイル・マルクという。待合室で座っている。ああ、お構いなく」

 そう語る彼にサーキスは驚いた。

「え…、そうなんだ…」


 ゲイルが椅子に座っていると壁の陰からさっきの青年がチラチラとこちらを見ている。するとやがて金髪の青年はコーヒーを持って来た。それをテーブルに置き、正面の席に腰を下ろした。

 ゲイルはこの年頃の男が嫌いだった。粗野で無鉄砲で女を口説くことしか考えていない。どうせこの病院へ来たのも職にあぶれて仕方なく、だろう。


(私はこんな輩と話す舌は持たないぞ…)

「あの、ストレプトマイシンとかペニシリン…」

「え⁉」

 サーキスの意外な言葉にゲイルは思わず声が漏れた。


「結核とか肺炎の薬ってゲイルさんが作ったんだよね! いつか会ってみたいと思っていたぜ! あ、失礼いたしました! 俺、ここで働いている僧侶のサーキス・リアム・ブラウンです!」

 サーキスから握手を求められて思わず応じてしまう。


「感激だぜ! 俺も肺炎とかは誰かが治して欲しいって思っていたから…。で、ゲイルさんが最初に結核の薬を作ったって聞いたから、もしかしたら結核にかかった人を助けたい一心でストレプトマイシンを作ったんじゃないかと思ったんだ。先生はそれを教えてくれなかったし」


 ゲイルは鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。話をしてみれば最初の印象と全く違う。この男はたぶん勤勉な人間だ。ストレプトマイシンと言いにくい名前もスラスラと言っている。普段からそれを口にしているのだろう。


「結核にかかったのは私の妻だ。具合が悪く、寝たきりだった。妻の看病で私は仕事もままならず、妻に付きっきりだった…。五年以上も前のことだ」

(私はこんな初対面に何を話しているんだ…)

「…しばらくして不動産屋のフォードさんが家賃の取り立てに来た」


「フォードさん!」

「知り合いかい?」

「そりゃ、有名人だもん! パディ先生にいつも因縁をふっかけてくるよ!」

 ゲイルは思わず笑ってしまった。


「ははは! それはライス先生のことが好きだからだよ! …それで、フォードさんは家賃を請求してきたが、私は仕事をしていなかったので金を払えなかった。そしたら、ボロクソ言われたよ。ごくつぶしだの脳無しだの。それでフォードさんはライス先生を連れて来た。それが先生との初めての出会いだった。


 そこに同伴していた僧侶に妻の肺を透視してもらった。先生はそれはやはり結核だと言う。そして今この国では治療方法がないと。とりあえず妻の部屋は窓を開けて換気を良くして、妻の部屋にいる時は必ずマスクみたいな物で口を覆うようにアドバイスされた。


 それから、ライス先生から私の前職を訊かれたので数学の教師だと答えた。それなら私に薬を作ることができるかもしれないと。そしてライス先生は提案した。サイネリア薬品という小さな薬品会社がある。


 そこに在籍させてもらって妻の看病をしながら、自宅で薬を作れと。試作品が完成したら、会社の方で大量生産すればいい。初めは赤字になるだろうが、儲かれば大金が手に入るだろうと」


「あの、それってできたならって話でしょ? その間に製薬会社は損するんじゃない? それに在宅勤務ってゲイルさんにただ都合がいいだけだよね? その場にいたフォードさんは、『パディちゃーん! お前、そんなこと言って薬屋さんが納得するって思うの? 一体ペイアウトできるまで何年かかるのー?』とか言ったはずだぜ」


「ふふっ。君は物真似がうまい。似たようなことを言ってたよ。でも、すでにフォードさんは同意しているようだった。私はフォードさんの計らいでサイネリア薬品に入社できた。挨拶も無しに一度も会社へ出社しないままでだ。


 それからライス先生は畑の土と顕微鏡、温度計を持って来た。顕微鏡はその時に初めて見た。すごかった。目に見えない小さな物が見えるんだ。それも先生が仕組みを職人に教えて作らせたんだ。細長い筒の前と後ろにガラス玉を付けると物が大きく見えるらしい。職人はそれを苦心して改良してようやく作り上げたそうだ」


 それを裏から糸を引いていたのは説明するまでもなくフォードである。顕微鏡と同時に作られた双眼鏡や望遠鏡は地中海などで飛ぶように売れた。

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