シエン
母の人生は幸せなものなのだろうか。
十二になった頃、朝も夕もなく寝台に寝そべり煙草ばかり吸う彼女を見て思った。紫煙たちこめる部屋はいつも臭く、窓を開ける僕に母はいつも一つ二つ文句を言った。それでも僕を追い出さなかったのは、唯一血を分けた息子が部屋から出ていけば、母の話し相手などいなかったからだろう。
彼女が笑顔になるのは自分を故郷から半ば無理やり連れ出した父が部屋に訪れる時だけで、皇帝陛下が見舞いに来てくれても笑顔一つ見せなかった。陛下が帰られた後、義母に叱られて彼女は泣いていた。泣いている姿はまるで同じ年頃の少女のようだ。彼女は僕を抱きしめ、ごめんね、ごめんね、と泣くのが常だ。
昼間、笑わない母を見守ることが辛くなると、僕はいつも港へ繰り出していた。港には色んな人間や獣人がいて、自分がどっちつかずな『持たざる者』であることを包み隠してくれるようで居心地が良かった。僕は大人たちに混じって仕事を手伝う代わりに色んな国の言葉を教えてもらっていた。近所には僕は
いつか仕事をするようになったら、お金を貯めて商会を開きたい。家族には恵まれなかったけれど、人を沢山雇えば寂しくなくなるに違いないなんて思う。
一度だけ義母にこう言われたことがある。
「戸籍もない子をどう可愛がれというのかしら」
熊猫人族を母とせず、義母を書類上の母とするのであれば、僕は自分の戸籍を作ることが出来た。社会的地位も金も必要らしいが、そちらに関しては全く問題なかった。僕はただ申請書類を埋めるだけで良かった。そうすることで義母に兄弟と引き離されることがなくなるというのは、正直なところかなり魅力的だった。だが、煙草を吸ってばかりとはいえ、母との繋がりが消えるのが怖くて、僕は未だに戸籍の申請ができずにいる。せっかく金はある家に産まれたのに、と自分を奮い立たせたがやはり申請用紙を無駄にしただけだった。
僕はいつものように母の部屋の扉を開けて部屋に入った。いつもと違う点と言えば、今日は暇つぶしの本を持っていないことだろうか。
「お母様」
母は焦点の合わない目で僕を見た。
「お父様から、外国の商会へ奉公へ行くように言われれました。職場は
母の目から大粒の涙が落ちる。吐息と混じり合って父の蜃気楼を映し出す。
彼女は泣けば泣くだけ父に会えた気になって少しばかり晴れやかな顔を見せるのだが、所詮蜃気楼だ。その後虚しさから頭を抱えることになるのに力の制御をしようとしない母に辟易とする。
「一人はいや。寂しい……」
「できるだけ帰ってきます。それに、今日はお父様と一緒に過ごす日でしょう? 僕が家を出るまではお父様も毎日会いに来てくれますよ」
母の手を握ってそう言えば、彼女は生娘のように頬を染めてはにかんだ。目に生気が戻る。彼女のこの状態は本で読んだところ心の病であるらしい。心の病は薬で治せないので、父に伝えてできるだけ会いに来てもらっている。彼女にとってはこの家で唯一の味方である父が傍にいてくれることが一番幸せなことだからだ。
「さぁ、茉莉花茶でも淹れましょうか。湯浴みをしてきてください。布団も干しておきましょうね。お父様に少しでも居心地が良いと思ってもらえるように」
「
浴布や香油を用意する母の背に向かって微笑む。
「桃色のものがいいですよ。紅もつけましょう」
振り返った母の微笑みがあまりに幼いものだったので、思わず僕の目から涙が溢れた。気づかれるのが嫌で顔を伏せる。母は僕のことを気にもとめず部屋から出ていった。
あの人はここに連れてこられた時から心を殺し続けてきたのだろう。慣れない言葉遣いや知らない世界はさぞ心に負担だったことだろう。僕を孕む前に心を壊し、今はずっと病気で療養中ということになっている。なぜ自分たちだけが、という怒りが胸の中で渦になり、飲み込みきれない分がため息となって出ていった。
僕は煙草の臭いが染み付いた部屋を少しでもましにするために部屋の窓を開けた。窓の外に気まずそうな顔をした義兄が立っている。
「
「お父様がいらっしゃるからごきげんだよ」
「そう……」
義兄は僕の赤く染まった目を見ないために視線を落としてくれた。こんなに異様な家に産まれながら、義弟には戸籍もないというのにいつも親切にしてくれる。よく出来た義兄だと思う。
「あのさ、仕事が休みの日にでも食事に行こうよ。ここだと息が詰まるだろ?
みじめだ。
こんな風に気使われるのであれば、義母に気を使っている方がずっとましだ。もし母が人間なら、同じ風に煙草に溺れていたとしても、きっと義兄は僕にこれほどまでに気を使うことはなかっただろう。
僕は義兄よりもずっとずっと学がある。彼が家庭教師と勉強している内容も、頭を抱えて読んでいる書籍も、もう僕がずっと前に済ませたものだった。もし、人間の母親で戸籍があれば、僕が店の跡取りかその補佐に回れただろうと思う。だが、そんなことを考えることにさえ嫌気が差すほど彼は『良い人』だ。
「ありがとう。メフシィ商会の絹製品部門に配属になるそうだから、もしかしたら仕事で会うかもね。楽しみだよ」
兄が手を差し出した。これが母であればどれほど胸を張って行くことが出来ただろうか。頑張って、の一言がなくてもなにか応援するような仕草をしてくれたのであれば、さぞ嬉しかったことだろうと恨めしく思う。
「そういえば、
自分の胸のささくれた部分を見せないために話題を変えると、義兄が頬を染めた。
「うん、気に入ってもらえてよかった。今度、芳も会って……」
「やめとくよ。せっかくの婚約者を奪っちゃったら笑えないからね」
義兄はいたずらっぽく笑うと僕を小突いた。そして遠くから歩いてくる義母を見て慌てて部屋から立ち去る。きっと、僕と話す度に義兄も彼女から何か言われているのだろうと気づいたのは数年前のことだ。
庭に咲き誇る牡丹を眺めながら、僕は布団を干した。女官を呼べば済んだけれど、義母の手前誰もやりたがらないだろう。
「芳さん。メフシィ商会へ行くのですってね」
通りすがりの義母に声をかけられて礼をする。
「はい。お義母様にはお口添えいただいたと聞いております。ありがとうございます」
義母はしばらく黙り、僕を見ていた。気まずい静寂だが、今日はどうやら嫌味を言いに来たのではなさそうだ。
「……戸籍を作るのなら、支店を任せたいと思ったけれど。心変わりないようね」
「申し訳ありません。僕にはもったいなくて」
彼女は彼女なりに、僕に救いの手を差し伸べているつもりなのだろう。だけど、もう傍海にいることは辛かった。ここを出て、金を稼いで、独り立ちしたい。結婚相手は僕を愛してくれなくても良い。仕事に使えるのであれば誰だって構わないと思う。そのためにはせめて傍海は出なければならなかった。
絶対にこの家の人間が驚くほどの大店を開いてやる。下駄を履かせてもらっている兄弟よりも僕が優秀だと証明し、この湧き上がる妬み嫉みを飲み込みたい。
「ですがきっと、お口添え以上の働きはして参ります。今までお世話になりました」
「そう」
義母は僕に背を向けて踵を返した。
「お前がのし上がった姿は、さぞ腹の立つことでしょうね」
これ以上ない激励の言葉だ。それを言ってくれるということは、やはり義母はよく見ている人なのだと思う。僕は部屋に落ちている母の煙管を拾って、燻っているそれを思い切り吸い込んだ。ため息の代わりに吐き出した紫煙を手で払って部屋を出る。
幸せになりたいなどと過ぎたことは思わないでおこう。いつか僕が死ぬ時は、財宝の上で人間を見下ろしてからだ。僕の義理の家族が僕を一瞬でも羨んだときだ。
「何だってやってやるよ、お父様だってそのためにお母様を攫って来たんだから」
おかげで皇帝に気に入られて店をまた大きく出来たのだ。強引で姑息な手だが功績は功績だ。ただ、僕はせめてそうして扱う相手には優しくしてやろうと思う。心の病を抱かない程度には猫可愛がりしてやろうと思う。いくらなんでも母の二の舞いは可哀想だ。
燦々と照りつける太陽にかたどられた影を踏みしめて、僕はあまりの自分の情けなさに泣いた。
そして僕は二年と少しメフシィ商会の傍海支店で働き、ミガルティ帝国となったサヒルへ、新しく作られる支店のため向かうことになった。旅立つ前一度だけ母に会った時、彼女は煙草に頭をやられてもう話をすることが叶わなくなっていた。とうとう母の微笑みさえも失った僕は、逃げるように国を発った。
あの時吸った煙草の臭いは、時折僕の鼻をくすぐって頭を悩ませる。母との最後の思い出だ。忘れたくても忘れられないだろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます