乳粥と蜜柑

 僕は大変に機嫌が悪かった。

 あの忌々しい男が処刑されてから早二月。ソラはすっかり痩せてしまっていた。自分でむいた果物か、目の前で調理されたものしか食べられない。果実水などもってのほかで、ソラは寒いのに水ばかり飲んでいた。

「殿下の鷹、ですか」

 新しい副官が戸惑いながら聞き返してくることに、僕は頷いて続けた。

「君の前の副官がやってくれてね。今は食事を取るのも難しい状態なんだ。その子の管理もお願いしたい」

「自分でよろしいんですか?」

 新しい副官、ラヒムが言う。

 この子はあの領主補佐官の大甥らしい。母上の遺品を床に落とされたことを、ただでは許せないと僕が言ったところ、大甥の三年の奉公の代わりに減刑を申し出られた。本来であれば死罪であったところだが、流石に国を代表する六家ろっかの跡取り息子を差し出されては王室も文句が言えず、僕の副官に収まった。彼の同僚たちは異例の大抜擢だと大騒ぎしていたみたいだけど、身分を思えば彼の人事は当然のことだ。

「ちゃんと大切にしてあげてね。あと、金糸雀とか夜伽に関係することは絶対教えないで」

「もちろんです。まだ十二の女の子に教えることではありません」

 その真面目な様子に、僕はホッとして胸を撫で下ろす。いずれ必要なことだとは思うけれど、それは今じゃないし、先生は僕達ではなく将来の夫が良い。ソラが信頼できる相手であればそれが一番いい。

「分かってくれて嬉しいよ。じゃあ紹介するね。ソラ、入るよ」

 そう言って僕は部屋の扉を開けた。以前のようにのぞき窓から目を覗かせてくれないのが寂しい。でもソラはそれが出来ないほどに衰弱していた。

 少しでも気分が良くなるよう、女官が体を拭いていい匂いの香油を塗ってくれている。女官たちが僕の姿を見て部屋から出ていく。ソラは薄い服の上からあたたかそうな毛の上着を着せてもらっていた。胸元にあしらった翡翠が白の毛皮とよくあっていて可愛らしい。

「殿下。ご機嫌麗しゅう」

「ソラ、今日は新しい副官を連れてきたよ。ラヒムだ。同い年の男の子だよ。ね、もう大人は来ないって言ったでしょ。どうかな、少しは怖くない?」

 ソラは大きな黄金の目でじっとラヒムを見ている。ラヒムはソラの容姿に驚いているらしく、目を見開いている。

「……ソラと、申します。以後お見知りおきを、ラヒム様」

「う、うん……」

 ラヒムの目が、ソラの痛々しいほど痩せてしまった二の腕を見ている。その灰色の目が悲しそうに伏せられた。その心を痛める様子を見て、僕は安心した。この子はソラに優しくしてくれる。それだけで彼が僕の副官として来てくれた価値はあった。

 まだ中庭では食べられそうもないので、お茶の準備を部屋に持ってこさせる。日に三回はお茶にしないと、ソラは一回ずつ食べられる量が少なすぎてすぐに衰弱してしまうからだ。食べやすいものを用意しているけれど、ソラが以前のように麺麭パンや木の実を食べられるのはまだ先になりそうだ。

「ソラ、乳粥を一口だけでも」

 ソラのために用意した、蜂蜜を沢山入れたものだ。一口だけでいい、今日こそと思って用意し始めて七日目。ソラは匙を持った手を震わせるだけでまた置いてしまった。

「殿下、失礼します」

 後ろから声をかけられて振り向くと、ラヒムがソラの置いた匙を手に取った。一体何を、と問う前にラヒムが乳粥を掬って食べる。庭家の子息は決して毒味をする側の人間ではない。それなのに躊躇もなく、ソラが怯えるから毒味をした。

「甘っ! ソラ、だっけ? これ甘いよ。食べ過ぎたらすぐぶくぶくになっちゃうかもね。でも美味しいと思うな」

 そう言ってラヒムは、ソラに自分が使った匙を拭いて差し出した。ソラが信じられないものを見る目で見ている。

「ラヒム様が毒味を……? 私の食事なのに」

「気にしないで。俺は君の管理を任されてるんだから仕事のうちだよ」

 ソラが顔を強張らせながら、乳粥を掬った。ラヒムはずっとソラの翼を撫で付けてやっている。信じられなかった。初めて会う奴隷の女の子にこんなに優しく出来る人間が庭家にいると僕は思わなかったからだ。

 頑張れ、頑張れソラ。

 僕は何度もそんなことを思いながら、手を握りしめてそれを見守った。初めて王宮に来た日、ソラはふかし芋を食べてあまりに美味しかったのか、両手に持った芋を交互に食べて沢山叱られた。でも、その嬉しそうな顔が僕は好きだ。だから辛そうに食事をするソラはもう見たくなかった。女の子なんだからちょっと太っちゃうくらい食べてほしかった。痩せてほっそりした手足は可哀想で正直見ていられない。

 ソラが乳粥を食べた。ほっぺたに大粒の涙が伝う。

「甘い」

 ソラは手で涙を拭ってもう一口食べた。

「あったかい」

 ソラの顔はもう涙でいっぱいだった。匙を置こうと思ったのだろう、でも久しぶりの暖かい食事に歯止めが聞かなくなって、ずっと口と皿の間で匙を動かし続けている。ラヒムはほっとした顔をしている。女官たちは何度も自分たちの顔を見合わせている。誰かが「これで済むなら食べてあげたらよかったね」と漏らす。本当に、たったそれだけのことがソラを助けたことに驚いて、皆がラヒムとソラを見ている。

「本当にありがとう」

 ラヒムを見ると一心不乱に小刀で蜜柑を剥いていた。

「ソラ、見て剥きたてだよ。これも食べて」

「美味しい」

「これも」

「美味しい……」

 餌付けのために雇ったんじゃないのに、ラヒムはソラに餌付けをするのに夢中になってしまったようだ。でもその光景が嬉しくて、僕は彼を止めることはしなかった。

 その日の夜、いきなり食べすぎたソラが腹痛を訴えて、かなり後悔することになったけど。でも本当に良かったと胸を撫で下ろした。ソラのことを大切に思ってくれる人が来てくれたことで、僕は安心してようやくゆっくり眠れるようになった。

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