一匙の毒
ソラの可愛さは留まるところを知らなかった。
あんなに粗末な扱いを受けていたときでさえ可愛いかったのだから、当たり前と言えば当たり前だった。日に日に健康的な体つきになり、表情が明るくなり、毛艶が良くなったソラは多分王宮で、いやこの国で一番可愛かった。
この数年で舞踊もすっかり上手くなり、仕草も綺麗になった。ミガルティの従兄に見せたら、やぁ可愛いと皆がソラの頭を撫でていた。一番上の弟もソラを見て「可愛い」と言ったきり話さなくなったからきっと本当に僕の贔屓なんかじゃないはずだ。
僕の二番目の副官もソラによくおやつをあげているようで、みんな彼女を可愛がってくれている。
「来年にはソラも十二になるし、正式に鷹に任命しないとね」
「鷹ですか、殿下」
副官が首を傾げている。僕も首を傾げた。
「そうだよ。僕が一番大事にしていて一番信頼できる女の子がソラなんだから」
「女の子ですよ、籠の中で愛でるのがよろしいかと。かわいそうですよ」
だって女の子ですよ、と念を押すように彼は言う。僕の隣でお茶を飲んでいるソラは何も言わずに笑顔を浮かべたままだ。
「女の子は殿下の元で歌っていれば、それが一番ですよ。必要でしたら房中術の教官をソラにつけましょう」
「……なぜ?」
房中術という言葉をソラに教えるつもりはなかった。いつか好きな人ができたらその人に嫁がせてあげようと思っているからだ。そのための花嫁衣装の準備だってぬかりはない。
「金糸雀にされるおつもりだから側に置いているのだとばかり」
「金糸雀って何をするんですか? 鷹の仕事のことしか聞いたことがありません」
ソラが興味を引かれて副官に無垢な目で尋ねだした。副官はちょっと言いづらそうだ。そんなの当たり前で、この無垢な女の子に太陽が登っているうちから褥の話を出来る方がどうかしている。つくづくサグエル元領主補佐はどうかしていたことを知って僕はため息をついた。
副官を見ると僕の意図に気がついたようで、ソラに一生懸命説明しだした。
「夜に殿下のところへ歌いに行ったり踊りに行ったりする姫のことをそう言うんだよ」
「なるほど。殿下、私今晩からでもお伺いできますよ」
やんわり伝えすぎてソラが勘違いをした。もうそのままにしておこう。僕はソラを金糸雀になんてする気はない。
「僕はソラに鷹になって欲しいんだ。だめかな?」
僕のことを慕ってくれているソラだ。そう言われて気分がいいのか、いまにも目を蕩けさせてしまいそうなほどうっとり笑った。
「いいえ。殿下がそう言ってくださるのであれば、ソラは鷹になりましょう。一生懸命頑張ります」
一件落着だ。僕はソラを部屋に戻し、いつもどおり窓から覗く可愛い目に見送ってもらって部屋に戻ることにした。僕が振り返る度に満月みたいな目が三日月のように細められる様の麗しいこと。何かしようと思うほうがどうかしている。
「二度とソラの前で金糸雀の話をしないで。房中術とか褥とか、とにかくそういう言葉も絶対使わないで」
僕が副官を睨みつけると、副官は困惑したように視線を落とした。
「ですが殿下ももう十二のお歳になられます。来る姫君のための練習はきっと必要になりますよ」
「必要なら女性を呼んで。なにもソラにさせなくていい。あの子を大切にしたいんだよ」
「女の悦びを一生教えないおつもりですか? あんまりですよ」
「品のないことを言わないで! ここは王宮だよ!」
僕が声を上げると、副官は肩を竦める。大人になれば色々あるのかもしれなくて、確かにソラはどんどん子供から大人になっているようだった。だって官たちのソラを見る目が全然違ってきている。彼女を鳥くさいとか、気持ち悪いなんて言っていたことを忘れて、今度は下品な目で彼女を見ている。僕には本当にそれが辛かった。いつかソラを傷つけやしないかと怖くてたまらなくなる。
「殿下はご存知ないかもしれませんが、殿下の褥に上がって嫌がる女はおりませんよ。ソラとてそれは一緒です。お間違えにならないでください。殿下の金糸雀になれる栄誉以上のことは、ないとお考えください」
「下がって。気分が悪い」
もうすぐこの副官ともお別れだ。大人たちはこぞってソラを金糸雀にしろを言ってくる。それが本当に僕には気に食わないでいる。頑張って誰よりも無垢に育てたソラの、それに見合う美しい花嫁衣装を見たいというだけのことだ。何も自由なことがない僕に、そのささやかな願いでさえ叶えさせてくれないということが許せない。
頭にこびりついた、あの日の香油の臭い。むせ返るような甘い臭いの香油を体中に塗られる恐怖を想像して、僕は目を閉じた。何も分かっていないソラの服を脱がせるなんて可哀想なこと、僕は絶対に嫌だった。
ソラを鷹に任命する予定だと言った時、王宮はおおいに騒ぎになった。父上は笑って許可を出すと言ってくれたのだけど、それに異を唱えたのがイーティバルだ。鷹として必要なことが何かおわかりか、と僕に言って、お茶を楽しんでいるソラを睨む。ソラは可哀想に震えて僕の腕にしがみついてきた。
「毒味ひとつできない奴隷に、鷹などという大役が務まるとは思えません。お考え直しを、殿下」
ソラは真剣な顔でイーティバルを見ている。
「ど、毒味します! その位できます」
「ほう」
ソラはいつもイーティバルを見ると怖がって仕方ないのだけど、僕の後ろに隠れたいのを必死に堪えている。服を掴んでいたソラの震える手が愛らしい。来たばかりのときと違って歴史や地理、言語、法律もよく勉強したソラだ。どこに出したって恥ずかしくない鷹になっているはず。
イーティバルは僕の副官に指示を出して、いつもと違って裏から何かを出させる。恐らく判別がつきにくい羹かなにかを用意させるのだろう。毒味の知識がないわけじゃないが、僕はいままで一度もソラにそれをさせたことはなかった。
副官が僕を見て笑顔を浮かべる。流石に毒味済のものを用意してくれているようだ。ソラの前に羹と銀の匙を並べて見せる。
「……では、いきます」
ソラは匙に
「口に入れないと意味ないよ。俺の持っている毒の特徴の覚書をあげるからさ」
そう副官が言いかけたとき。
「毒!」
ソラが絶句して匙を掲げた。こんなこと、手習いでも本当にあってはいけないが実際匙が黒く変色している。もう口に入れてしまおうとソラは匙を持っていたのだ。もし、ソラが手習いだとすぐ口に入れたらどうなっていたことか。
「全員動くな! すぐに兵士を呼べ、殿下の羹に毒が混ぜられていたぞ!!」
イーティバルが叫び、あたりは騒然となった。あと一歩で死んでいたかもしれないソラは、顔を真っ青にしてわんわん泣き出した。抱きしめてあげることしか出来ない。僕の食事にだって毒が混入されたことはない。それなのに実際に僕が口にすることのない手習いの羹に毒が入っていた。完全にソラを狙ったことだ。ソラも馬鹿な子じゃない。犯人の意図を理解して怯えて泣いている。
「兵士の検分、思ったより早いですね」
副官が言った。確かに兵士が走ってくる。
「副官殿方。お二方もです。殿下は……結構です」
真剣な面持ちだ。どうやら犯人探しが難航しそうだ。そう思い、ソラを部屋に送り届けようと思った時だった。
小さな紙切れが僕の副官の服から落ちた。拾おうとするのをイーティバルが拘束する。
「動くな。兵隊長、拾え」
「違う、そ、それは持病の薬……いやっ、私のものでは……!」
副官が唇を震わせているが、彼が犯人であることは火を見るより明らかだった。
ソラが震える手で、指輪を差し出した。こんな時もソラは僕のことが大好きで、翡翠の付いたものではなく
彼女を可愛がっているようだった副官が毒を入れたとは信じがたくて、僕はただ黙り込んでいた。
指輪が変色した。ソラは唇を噛み締めて何も言わない。
「……金糸雀になると思ってたから可愛がってたんだ。じゃなかったらこんなおぞましい鳥人族なんて、誰が可愛がるか!」
もう殺されるのが分かっているのか、元副官が叫ぶ。ソラは何も言わずにじっとそれを見ていた。
「一番信頼してるだと、クソ! 副官は俺だ! こんなガキじゃないだろ! お前もいつも殿下の後ろに隠れてばっかりな癖になにが鷹だ! 殺してやる、お前も道連れにして殺してやるからなこのっ」
副官が下品なことを口走ろうとしたのが分かった。イーティバルが腹を殴って悶絶させ、無理やり口を封じさせる。怖がらせたかもしれない、と手を引こうとしてもソラは呆然と立っているだけだ。
「失礼しました、殿下。ただちに処分いたします。家臣が殿下の持ち物に手を出すなどあってはならないこと。そう他のものにも言い聞かせておきます」
それからしばらく、ソラはまともに食事がとれなくなった。食べられるようになったのは、年が明けて新しい副官が着任してからのことだ。
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