第9話
一瞬、布団の中にいるのでは?と、アズマは錯覚した。
辺りはふわふわな上に、寝起きのあの感覚に似ているからだ。
けれども、視界はぼんやりとした暖かい光に包まれており、それなのに光が目を刺激するような感覚はない。
「よしよし………よしよし………」
頭上から聞こえた、低く落ち着いた女の声。
YouTubeの配信で見た、昔の深夜アニメに登場する女教師キャラを思い出したが、直後にアズマの思考は再び鈍化する。
「大丈夫ですよ、大丈夫ですから………」
柔らかな手が、彼の頭を撫でる。
すると、彼はまるで春の陽気の中にいるかのように、頭の中がボーッとしてくる。
「ずっと、ずっと、ママが側にいますからね………」
この声の正体が何者か。
そんな、当然の疑問すら沸かなくなってきた。
そう、何も心配などいらないのだ。
こんなにも、暖かく、優しい。
そんな「ママ」が、側にいてくれるのだから………。
「(………そういや、こんな事前にもあったような………)」
その時、彼の命運を分けたのは記憶だった。
そうだ、あの時もこんなにも暖かかった。
家を追い出され、雨に濡れ凍えていた自分を、暖かさに包んでくれた、あの日………。
「(………スカーレットさん………?)」
あの時、自分を優しく包んでくれたのはスカーレットだった。
今のように、傷ついた自分を優しく。
………だが、この声はスカーレットの物ではない。
コハルの物ではない。
「(………誰だ?この人)」
僅かな記憶の違和感が、やがて疑いを連れてきた。
当然のように、自分を膝枕している「彼女」は誰だ?
自分をママと名乗ったが、当然彼の実母はこんな声もしていないし、こんな態度も取らない。
「………誰?あな………た………」
見上げ、アズマは見た。
彼を見下ろす、優しい異形の瞳を。
………………
明らかに普通の状況ではない。
さっきまで洞窟に居たハズのスカーレットとコハルは、気がつけばこんな旅館か遊郭のような所に出た。
おまけに、ぴったりくっついて行動していたハズのアズマも、忽然と姿を消している。
「アズマ君?………アズマ君?!どこにいるの!?アズマ君………!!」
右を向き、左を向き、目を見開くスカーレット。
目に見えて解る、パニックを起こしているのだ。
「スカーレットさん!落ち着いてくださいまし!」
「でも………っ!!」
「ワタクシ達は、今敵地にいるような状況ですのよ!?」
そんなスカーレットに飛んだコハルのゲキであるが、効果はあったようだ。
狼狽えていたスカーレットは、それが全て抜けきらぬにしても、落ち着きを取り戻してゆく。
「そう………そう、よね………ごめんなさい」
しかしコハルには、それが無理やり騒ぐ心を押さえつけているようにも見えた。
独身であるコハルには、大切に想っている相手は今のところはいない。
だがそれでも、スカーレットがどれだけアズマを想っているかは、その取り乱し様から解る。
故に、彼女もそれ以上無駄に刺激はしない。
「まずは………そうよ、落ち着いて………仲間が行方不明になった時は………」
スカーレットもまた、アズマが居なくなったと喚いても仕方ないという事は、頭では理解できている。
喚く心をなんとか押さえ、頭に記録した緊急事態時の対処法を思い出し、Dフォンの機能を開く。
………
故に、彼等の必需品であるDフォンには特定の音波を出す発信器が取り付けられている。
これはオーク等が使う、魔力を使ったエコロケーションを参考にした物であり、遮蔽物があろうと同じDフォンで受信・場所の把握が出来る。
………もし、アズマがDフォンを手離していたなら、話は違ってくるが。
なお、出す音波は個々のDフォンによって異なるので、誰の物か混乱する事はない。
「アズマ君………アズマ君………!」
震える手で、なんとか受信システムを起動しようとするスカーレット。
………よく、アニメや漫画でこの手に似た展開があった場合、こういうアイテムが無効化されるというジンクスが、頭を過る。
「お願い………答えて………!」
スカーレットの瞳には、涙が浮かんでいた。
そんなジンクスなど、現実でないと、必死に思い込もうとしているのだ。
波立つ感情を堪えつつ、アズマのDフォンの識別番号を入力し、検索をタップする。
頼む、出てくれ、答えてくれ。
そう、心の中で願いながら。
「………あっ!!」
Dフォンに浮かんだ、立体映像の画面。
その、魚群探知機かソナーを思わせる画面には、確かに反応が出ていた。
アズマのDフォン固有の音波だ。
しかも近い。
ここに、アズマがいる。
居なくなったワケではない。
それが解った途端、スカーレットに心からの安堵と、行動力が沸き上がってくる。
「………漫画家さん」
「わかってますわ、でも、追加料金は発生しませんわよ?」
「解ってる………行くわよ!」
スカーレットと、彼女の考えを汲んだコハルは、発信器の反応を目指して走り出す。
………そこで解ったが、今彼女達のいる場所はかなり広い施設らしい。
廊下は迷路のように何脈も広がり、いくつもの襖があった。
何度も行き止まりに引っ掛かりながらも、スカーレットとコハルはこの迷宮をさ迷う。
そして………。
「ここ………っ!!」
たどり着いたのは、大きな二枚の襖の前。
オオミズアオと思われる美しい蛾が空を舞う様が描かれており、雅な雰囲気を醸し出している。
よく、旅館等で大規模な宴会に使われる大部屋があるが、あれの入り口に近い。
コハルも、自分の書いている「魔狩り」にて遊郭を書いた事があったが、あれでも似たような物を書いていたというのを思い出す。
スカーレットのDフォンを見ると、この部屋の先にアズマの反応がある。
目的は、目と鼻の先だ。
「アズマ君………!」
スカーレットが、襖に手をかけようとする。
が、その手をコハルが制止した。
「スカーレットさん」
「何よこんな時に………!」
「ご注意を、何かの罠かも知れませんわ」
それを聞き、スカーレットはしばし沈黙する。
逸る気持ちを押さえているのだ。
そう、ここは未知の世界。
何があってもおかしくないのだ。
「………ええ、わかってるわ」
今一度落ち着き、スカーレットは今度こそ襖に手をかけ、引いた。
「………!」
そこに広がっていたのは、広い広い部屋。
大規模なスタジアムの、サッカーコートぐらいはあるだろうか。
足元は木の床から畳に変わり、天井にはそれまでのランタンはなく、天井の一部が照明のように光り、光源となっている。
その、遥か奥。
スカーレットとコハルが見つめる先に、一人の人影があった。
一瞬アズマか?とも思ったが違う。
アズマよりも背が高く、着ているのも白いセイントコートではなく、紅白の巫女服だ。
………何より、それは人間とはあまりにもかけ離れた姿をしていた。
髪は白く、その肌も白い。
だが美白などではなく、人間とはまったく別の細胞組織によるものの白さだ。
目に瞳はなく、昆虫の複眼を思わせる黒い目をしている。
頭の両サイドから伸びる尖った長い耳………に思われたが、よくよく見ればそれは櫛歯状になった触覚だ。
巫女服の袖から覗く腕も、よくよく見ればロボットの間接のような節が見える。
全体的なシルエットは人間のそれだ。
膨らんだ胸元や長い髪も、女性のそれだ。
だが、それらを構成する様々な部位が、それが人間でない事を物語る。
蚕という蛾の一種があるが、あれを人間の形にしたという印象を受ける。
そして、アズマのDフォンの反応は、あの先にあるのだが………。
「………ここから先は通さない」
どうやら、眼前の蚕女は、ここから先に行かせるつもりはないようだ。
なら、無理やり倒してでも行くしかない。
「………ある程度予想はしてたけど、まさかビンゴだったとはね」
そしてそれとは別に、スカーレットは自分の抱いていた疑念が真実だった事を知った。
目の前の蚕女を、スカーレットは知っている。
それ以前にも、コハルに見せられた資料から、八尺坂にいるという「妖怪」の正体が、その存在ではないかと勘ぐっていた。
予想は真実だった。
八尺坂の妖怪は実在した。
して、その正体は。
「あれは………エルフ!」
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