第12話 かつて彼らが過ごした日々(上)
彼らは川底の泥と、くすんだ炎の色をしていた。
それが多分、すべての始まりだったのだ。
「へぇ、おっさんって海辺に住んでたんですねぇ」
「おう、良いとこだぞ。飯はうめぇし、美人も多いしな」
「ほー、じゃおっさんがたまに話してる娘さんってのも、美人なんでしょうねぇ」
「おうともさ!」
珍しい、と思った。
魔族との最前線にある野営地の食堂で、料理人の男と談笑し、けたけたと声を上げているのは、とあるドラゴン乗りだったのだ。
鮮やかな赤色の短い髪と瞳をしているが、その契約龍が赤龍でない黒龍であることを少女は知っていた。瞳の色と鱗の色が異なるドラゴンは、あまり見られないから、ある意味では目立つ乗り手である。
それにしても、こうも屈託なく話すとは珍しい、と少女、フェイは目の前の光景に首を傾げた。
あの赤毛のドラゴン乗りは幾度か戦場で見かけたことがあるが、随分張りつめた、こわい顔をしていたように思うのだ。
確か、隣にいたのは群青の瞳をしたドラゴン乗りだったはずだが、その姿は見えなかった。
だけれど別に気にするようなことでもなく、フェイは赤毛のドラゴン乗りに近づいた。
腕に白い包帯を巻き、木の匙を持ったままの赤毛の少年、否、少女は、フェイの気配に気づいたのか顔を上げる。
「初めまして、わたしはフェイ。あなたと、あなたの先輩と次の任務に行くように言われた【魔力持ち】よ」
よろしくね、とにっこりと笑みを貼りつけたフェイに、少女はぽかんと口を小さく開けて固まったのだった。
今でもわからないことがある。
何故あの子は、出会ったそのときに、あれほど驚いた顔をしたのだろう。
「お前がフェイか」
龍舎の中、群青のドラゴンが眠る房の前で開口一番そう宣ったのは、抜身の剣のような鋭い雰囲気の青年だった。
茶色なんだか黒色なんだかあまりはっきりしない髪を後ろで一つに束ねているが、如何にも適当にやりましたというふうにはねている。
瞳は濃い青色で美しいが、光がないというか全体暗い。
顔のつくりがなまじ綺麗なだけに大層近寄りがたい青年だった。
といって、それでフェイが態度を変えることもない。
こんにちは、と微笑みを貼り付けて答えようとしたとき、青年の頭にぽすんと巻物がぶつけられた。
「せ、ん、ぱ、い!いきなり怖いです!なんですかその威圧感は!はじめましてとかなんとか、愛想の一つも言いようがあるでしょ!」
「……ジザ」
龍舎までフェイを案内して、少し物を取ってくると言って席を外した赤毛のドラゴン乗りは、いつの間にか青年の背後に回り、呆れかえったと言わんばかりの顔でそこに立っていた。
手には、地図らしい巻物を持っている。それで、先輩と呼んだ青年の後頭部を引っ叩いたらしい。
「えっと、二度目ですよね。フェイさん。こんばんは、オレはジザ。こっちが先輩のレトです。先輩、前の任務で気が立っちゃってて、ちょっと刺々しいのは勘弁したげて下さい」
ジザが笑えば、にこ、と尖った白い犬歯が見えた。手のひらから二の腕にかけて包帯が巻かれているのに、弾けるような溌剌さである。
なので尚更、隣の青年の静けさと鋭さが際立ってしまっていた。
青年が断固とした雰囲気をまとって、口を開いた。
「俺は刺々しくなってない」
「ンなワケないでしょうが。いつもなら自分の名前くらいは名乗ってるのに。女の子怖がらせてどうするんです」
「……」
すると何か、この青年の挨拶はあれで終わりで、いつもは申し訳程度に自分の名前がつくだけ、なのだろうか。
なんだろう、それ。
青年は先輩なんて呼ばれてるのに、てんで先輩らしくないし、少女は後輩のはずなのに全然後輩らしくなかった。
それでも、付き合いは長いのか二人の間の空気は自然で、肩肘張っているような何かは、なかった。
それが、漠然と羨ましい。
だがともかく、怖がっていると思われるのは我慢ができず、フェイは二人を見上げた。
改めて見ると、二人ともこちらより少し、いや結構背が高いことに気がついた。剣を振るう戦士だからか、彼らは揃って姿勢が良く、さらに背が伸びて見える。
ふわり、とフェイは魔力で浮き上がった。
「改めて初めまして。あなたたちと組むことになったから、よろしくね。わたしはフェイ。【魔力持ち】よ。アジィザさん、女の子同士、仲良くしてね」
ん、とジザがフェイの方を見て首を少し倒した。
「うん、よろしく。あ、だけど先輩とも仲良くするの、よろしくお願いします。悪い人じゃないんですけど、ちょっと……」
「ちょっと、なんなのかしら」
「無愛想で」
ぴし、と青年の額に青筋が立つ音が聞こえた気がした。
当然、フェイはそちらを見なかった。だって、そのほうがおもしろそうだったから。
「敬語、いらないわよ。わたし多分、あなたと同じ歳くらいだし、わたしたちに上とか下とか、あまり関係ないでしょう?ね、ジザにレト」
「そっか。……うん、わかった。よろしくな、フェイ」
「……よろしく頼む。レトだ」
それが、【魔術師】フェイが、【蒼】のレトと【黒】のジザと出会った最初の日のことだった。
フェイが実の親から与えられた、本来名乗るべき名は、フェイスフルネア・フェイリータという。
だけど、ここに来てから一度たりともその名を名乗ったことはない。
名字にも名前にもフェイと入っているのだから、フェイと名乗るだけで十分なはずだと、略称しか名乗ったことはない。
名字を持てるのは、故郷では上流階級の証だった。
魔族が現れ、ドラゴン乗りが登場してからこちら、威厳も特権も瓦解しかけの古い名家がフェイの生家である。
かつては貴族であったらしいが、貴族の存在自体、魔族が攻め寄せてきたときに、何ら有効な手が打てなかったために廃れ、今はただ残骸のように残るだけだ。
国の盾となるために特権を与えられた貴族のはずが、魔族が来た際にまったく太刀打ちできず、平民や他国民の混成であるドラゴン乗りたちに助けられ、守られたのである。
権威は形無しになり、宗教も諸共大きく後退した。
それが大体数百年前のことである。
王侯貴族が魔族にまったく敵わないという姿を晒して以来、彼ら貴顕の者たちに対して平民が抱いていた畏敬の念や、宗教に対して捧げていた祈りは、ほぼすべてドラゴンへと向けられている。
ドラゴン乗りは、巫者であり戦士であり、人間の中での例外種扱いなのだ。
だから、この世界のかつての貴族のほとんどは仰々しい家名のみ残った存在となった。
力ある名家といえば、今や代々ドラゴン乗りを排出しているような、ごく一握りの規格外な一族程度なものだ。
そんな崩れかけの名門に生まれ、先祖からの価値観を継いだとはいえ、父も母も何も名と富に拘泥するような悪人ではない。
むしろ、その逆。
我が子に幸せな結婚をして、穏やかに暮らしてほしいと切に願う人たちである。
名家であったという誇りこそあれ、家を立て直すための道具として我が子を使おうとは思わない小市民なあたたかみをきちんと兼ね備えた両親だ。
切に願い過ぎて、類まれな魔力を持って生まれた娘に一刻も早い婚姻を、と焦ってしまう程度には普通の人々である。
魔族との戦いなどはドラゴン乗りたちに任せておけば良い、お前はただ幸せに暮らしておくれ、と言う普通の人たちなのだ。
その良い両親の心づくしで持って来られた縁談相手のすべてに、フェイはではわたしより強い者となってください、と言った。
結果、ものの見事に尻をまくって逃げ帰るか、或いはフェイが操った風によって物理的に館から叩き出されて終わった。
どの殿方も骨が無さ過ぎです、と朗らかに言ってのけた長女に、心底途方に暮れた顔を晒した二親の顔は、今でもありありと思い出せる。
彼らは、悪人ではない。
自分の子どもだからと、それだけの理由で惜しみなく愛してくれている。理解し難い価値観を持ってしまった、色彩の異なる娘であっても。
だが同時に、自分たちの生活のすべてを他人に預けて、何事もないように口元を拭って営んでいく生活に、何の疑いも持たない人たちなのだ。
持てない、人たちなのだ。
家族では、母親のみが【魔力持ち】だった。
両親のうち、どちらか一方だけでも【魔力持ち】だったならば、生まれた子が【魔力持ち】になる可能性はある。だけど、あまり高い確率でもないのだ。
他所から嫁いで来た、平均以下のような脆弱な魔力しか持たない人の腹から産まれたのに、何故かフェイは、妹共々尋常でない量の魔力を持っていた。
何もしないのは、嫌だった。
持って生まれた強い魔力と、それを自在に操るだけの才能。何よりも、自分には魔力でもって生き物を傷つけることに、躊躇いというものを覚えることがなかった。
一通りの道徳倫理をしっかりと礼儀作法と共に叩き込まれていたから、おかしいのは世界でなく、自分の感性だということに気づけた。
魔力を行使することに、人の身を超えた力を使うことに、もっと戸惑ったりすべきなのだ。きっと、自分のような『普通の女の子』になることを望まれていた自分は。
ドラゴンから、戦士になれると選ばれ、彼らと心で繋がったドラゴン乗りではないのだから。
だけど、フェイは結局、家族が望むような姿にはなれなかった。
あなたたちは卑怯だと、わたしはそんなふうになりたくないのだと親に言い放って、飛び出してしまったのだ。
望まれた未来になれなかったから、自分にできることを探してこんなところにまで辿り着き、辿り着いた先で出会ったのが、あの二人組だった。
【蒼】のレトと、【黒】のジザ。
若いながら優秀な戦士と言われ、彼らの補助をするようにと命令されて出会ったのだけれど、彼らはなんとも、でこぼこな二人組に見えた。
よく喋る少女と寡黙な青年で、聞けばレトはジザの師匠だという。
兄弟子で師匠なのだと名乗る割に、レトは口下手なところをしょっちゅうジザに補ってもらっていて、しかもそれを嬉しそうに受け入れているのだから、おかしくって堪らなかった。
もちろん、レトは嬉しいとは言っていない。ただ、ジザに対しての感情だけは、割とわかりやすいのだ。
逆に、戦うとなると。
「ジザ、旋回!」
「はいっ!」
他の龍と比べれば、華奢にすら見える黒い龍の背にしがみついたジザが指示に従い、旋回して屍竜の背後に回る。
口を開けたジザのドラゴン、コクヨウが屍竜の首根っこを噛み千切る。
汚く吠えた屍竜の翼を、フェイは風を操って斬り落とした。
「フェイ、魔力大丈夫か?」
「ええ。疲れていないわ。ジザは?」
「オレも平気」
三人と二頭が回される場所は、主に東の沿岸部。
定期的にそこを飛び、魔族を見つければ撃退するだけの任務だ。
だけ、とは言っても、何が来るかはわからない。屍竜五十体が来たかと思えば、毒霧クジラがいきなり水面を割って飛び出して来ることもある。
有翼骸骨の鉈を躱せたかと思えば、巨大カラスの嘴に襲われるのだ。
今日も何とか、屍竜をすべて殺して、上陸を阻むことができたが、レトもジザもフェイも、疲労は拭えなかった。
やや速度を落として飛ぶコクヨウの背に乗り、ジザの腰に手を回して二人乗りをしながら、フェイは口を開いた。
「毎日毎日化物ばかりね、ここは」
「この世界はそんなもんだろ。まー、オレはよく知らないことが多いから、エラそうなこと語れないけどさ」
「知らないの?」
「まぁなぁ。こいつがさ、オレが人間の街に行こうとしたらぐずるんだ。離れてほしくないんだって」
しょうがない甘えん坊だよなぁ、と自身のドラゴンを指してケラケラ笑う赤い髪の少女は、まるっきり少年だった。
少女ということを隠しているのでも、肩ひじ張っているのでもなんでもなく、ごく自然なのだ。
生まれたときからそうだったように、ジザには在り方を繕っている雰囲気がまるでなかった。
「んー、でもさ、フェイ。コクヨウに乗ってて大丈夫か?こいつ体が軽いからさ、すごい揺れるだろ。オレは体頑丈だけどさ、フェイは平気か?先輩のシランのほうがいいんじゃないか?」
「えぇ?無理よ。わたし、あなたみたいな翻訳機能ついてないから」
「誰が翻訳機能だ」
群青の龍に乗った青年が、不機嫌そうに漏らす。しっかり聞こえていたらしい。
「だが、ジザの言うことも正解だと思う」
「……すみません」
「お前のせいではない」
色々と省かれているこのドラゴン乗りたちの会話を読み解くに、彼らはどうやら、ジザの騎乗しているドラゴンの体が小さく、その分激しく動き、飛び回らなければならないことについて語っていたらしい。わかりにくい。
確かにそうかもしれないが、何もジザのせいではないだろう。ジザが契約した黒龍は、卵から産まれてまだ二十年も経っていないのだ。
一応、ドラゴンは三年も経てば戦いに耐えられるだけの大きさには成長できるが、彼らは長く生きた個体ほど体が大きくなるのだ。
逆に言えば、若い個体は体が小さく、どうしたって非力になる。
レトの契約龍のシランは、雌だ。雄の龍より体が小さい。
それ故に、どうしたものだろうかと、ドラゴン乗りの二人は頭を捻っていたのだ。
「そうねぇ。まぁ、ドラゴン乗りは貴重な人材だから、そうそう補充なんてないだろうけれど」
「だよなァ。じゃあフェイ、酔い止めの魔術でもかけるか」
そんな都合のいいのはないわよ、と適当なことを言うジザの頬を、フェイは指でつんつんと突いて窘めるのだった。
と、その会話が何かの予兆だったのだろうか。
「よろしくお願いします。私はシャクラと申します。あちらがドラゴン、エラワーンです」
堅苦しいというか、生真面目が服を着て歩いているような青年、シャクラがやって来たのは、それから数日後のことだった。
シャクラが挨拶をしたそのときは丁度、三人が食事をしていたところだった。
より正確に言えば、香辛料が効いた野菜と肉の煮込みをジザとレトが頬張り、フェイがジザの口元についた肉汁を拭いたところだったのだ。
毎回そんな世話を焼いているのでは無論なく、たまたまそうなっていただけなのだが、それを見たシャクラは盛大に固まっていた。
言葉遣いといい、立ち居振る舞いといい、明らかに格式がある『良い家』の出であるから、こういうふうに気さくな感じになれていないのだろうと、フェイは特に何とも受け止めなかった。
というか、シャクラはなんとなく、家に訪れた『求婚者』に似たところがあって、仲間として戦うのは構わなくても、それ以上踏み込む気になれなかったのだ。
なのだが。
「フェイはさ、シャクラさんのこと苦手か?」
「苦手じゃないわよ」
四人と三頭になったあとの戦場。
山積みにされ、燃やされる魔族の焚火の隣で、ジザが尋ねてきたのはそんなことだった。
「苦手じゃないけれど、どうしてそんなことを聞くの?」
「んー、いや、なんか、オレたちのときみたいに接してないんじゃないかって思ったからさ」
それはつまり、ジザの頬を指で突いたり、浮き上がって背中に抱き着いたりといったあれのことだろうか、とフェイは首を傾げた。
だってそれは、ジザが同じ女の子だからだ。レトにはしていない。
だからつい、妹にしていたのと同じように触れてしまうのだし、触れるならやわらかい頬のほうがいいのは当たり前だろう。
時々こう、ジザは何かを踏み違えたようなことを言う。
レトもそれには気づいているらしく、だから妹弟子を何かと気にかけている。
この前などいきなり礼を言われて、貴重な甘い菓子を渡された。
多分、妹弟子と友人になってくれてありがとう、と伝えたかったのだ。全部を言葉にしなさいという話だ。
小さいころからドラゴンと心が繋がり、修行と戦いに明け暮れていたために、この兄妹弟子たちはどこか不思議な頼りなさを持ってしまったのだろう。
だけれど、彼らにそういうことは言いたくなかった。
「別に、苦手じゃないわよ。だけどあの人、なんというか、つまらないっていうか、真面目過ぎてからかっても面白くなさそうなのだもの」
「ふーん。……って、ちょっと待て。ならオレたちって、フェイにしたらからかうと面白い枠なのか?」
「そうよ。特にレトが面白いわね。あなたはそうね、微妙」
「び、微妙……」
むむ、と頭を抱えるジザの頭を、フェイが浮いたままよしよしと撫でたときだ。
「何をしているのですか、ジザ。早くフェイを乗せて陣に戻らなければならないでしょう」
「あ、はーい。すんません!」
腕組みをして、眉をひそめているシャクラの声に、ジザは即答えて、コクヨウの方へ走って行った。
黒いドラゴンは戦闘で目に攻撃を受け、少し休んでいたのだ。
その様子を見るシャクラの横顔を、フェイはじっと見つめた。
「なんでしょうか」
「いいえ、何でもないわ」
それからもう一つ、フェイがシャクラに必要以上に近寄らない理由がこれだ。
少し、そう、ほんの少しだけだが、シャクラはジザに対してだけ、棘があるのだ。
特に理由なんてないはずなのに、こういうのを虫が好かないとでも言うのだろうか。
ともかく、そういう青年にはよそ行きの微笑みしか向けるものがなかった。
にっこり微笑んでから、ふと視線を感じてそちらに目を向ければ、焚火の向こうでレトがじっとこちらを見ている。
ふむ、とでも言いたげに一つ頷いて、虚無に繋がっていそうな群青の瞳の青年は、そのまますたすたとシランの方へと歩いて行ってしまう。
相変わらず、わかりにくい兄弟子だった。
……と、そう思った日から、二日後の夕方のことだ。
フェイはそのとき、龍舎を訪れていた。
普段なら近寄ったりしないのだが、昼に起きた戦いでジザが負傷し、病舎のほうへ泊まることになった。
コクヨウがぐずるとジザは病室に泊まりたがらなかった。が、額がぱっくり割れて顔が真っ赤になるほどの怪我だったのだから、大事を取るのは当然だと、レトが襟首掴んで病室に放り込んだのだ。
怪我をした理由は、フェイを庇ったから。庇ったために、化物烏の嘴が額を掠めたのだ。
だからフェイは、コクヨウがいる龍舎へと赴いていた。
敷居に立って、暗がりを覗き込んだときだ。
ひそめられた声が二人分、建物の陰から聞こえる。気配を殺し、耳を澄ませてみればそれは、レトとシャクラの声だった。
「今、なんと仰いました?」
「だから、俺の妹弟子に何か文句があるのかと尋ねただけだ」
「妹……弟子」
「妹弟子は妹弟子だ。他に誰がいる」
そろそろと、頭だけを出して覗き、視力を強化する。
龍舎の陰で睨み合っているのはレトとシャクラであり、レトが珍しく長く喋っているようだった。
それにどういうことだろう。シャクラがやけに慌てている。思いもかけないことを言われたように。
だけどそれは、フェイには関心がないことだった。
ジザが気にしていたのは、コクヨウの調子だ。
多分一晩くらいは大丈夫だろうけれど、様子だけでいいから見て教えてくれないかと頼まれたのだ。
ごそごそと話している青年二人をさっさと置いて、フェイはコクヨウの様子だけを見て、帰った。
向かった先は、もちろん病室だった。
「コクヨウ、平気そうにしてたか?」
「ええ。中には入れなかったけれど、気配は落ちついていたわ。あなたが毎日泊まる必要、ないんじゃないかしら」
「いやぁ、今日もな、一日だけだからって言い聞かせてようやくだから多分ムリ」
寝台に半身を起こしているジザの額には、包帯が幾重にも巻かれていた。褐色の肌に、白い包帯は殊更に目立った。
頭に派手な怪我をこしらえたため、明日のジザは飛ぶのを禁止されているのだ。
きゅ、とフェイは膝の上で手を握りしめる。
「謝るのはもういいからな、フェイ。次あったら、今度はオレを助けてくれよ。それでチャラだから」
「……先回りはやめてちょうだい」
「そんなつもりはねぇよ。ってそうだ、先輩とシャクラさんが話してたって言ってたじゃんか。あの人たち、何話してたんだ?」
「さぁ。あまり聞いていないからわからないわ。盗み聞きは、礼儀に反しているでしょう」
「うぇえ、正論」
お嬢様みたいだと肩をすくめるジザに、フェイがころころ笑ったときだ。
寝台の周りを囲っている薄布が、細く開かれる。ひっそりと立っているのは、シャクラとレトだった。
「あれ、どうしたんですか二人とも。っていうか先輩、何してるんですか。医者の人が呼んでましたよ」
「……後で行く。ジザ、シャクラがお前に話があるそうだ」
はぁ、とジザはやる気なさげな返事を返し、シャクラの方を見る。
視線が交わった瞬間、シャクラはいきなり頭をがばりと下げた。
突然の奇行に、フェイは固まる。ジザも固まった。
「えっと……シャクラさん?あの、オレが何か?」
「いえ!貴女は何も!私の過ちを思い知り、謝罪しに来ました!」
ちょっとこれどういうことかしら、とフェイはこっそりと浮き上がり、レトの服の袖を引いた。
申し訳ありませんでした!と潔く叫ぶシャクラと、目を白黒させているジザを見て、訳知り顔で頷いているレトには単純に少々腹が立った。一人で納得するなと。
そもそもここは、女子病室だろうに。
今日はたまたま、病床はジザが使っているもの以外、空っぽだが。
「レト、一体あなた、シャクラに何をしたの?」
「人聞きが悪い。俺はただ、妹弟子に何か文句があるのかと尋ねただけだ。あいつ、ジザを睨んでいただろう」
あなたそういう些細な視線に気づけたの、と割と失礼なことが、フェイの胸を掠める。
レトはそのまま続けた。
「シャクラは驚いていて、ジザに謝りたいというから連れて来たんだ」
「謝りたいというのは良いと思うけれど、ここ、女子病室よ。しかも夜に」
「……」
「……忘れていたのね」
さっ、と視線を逸らすレトの足を踏んでやろうかとフェイは思った。
そんなことをしている間に、シャクラの謝罪は終わったらしい。
ジザは何事か納得したような顔で、ぽんぽんとシャクラの肩を叩いていた。
「わかりました。シャクラさんの気持ちはわかりましたから、何て言うかその……頑張ってください」
「……はい」
やけにしょぼくれたように見えるシャクラを見て、つい、フェイは小さく吹き出してしまった。
そっちの顔のほうが、いつもの礼儀正しそうな顔よりずっと良く見えたのだ。
「どうしたの、シャクラ。あなた、ジザのこと嫌いだったのかと思っていたわ」
「き、嫌いなのではありません!」
「あら、そうなの?なら、どういうこと?どうして謝ったの?」
「それはあれだよ。オレのこと男だって間違えてて、申し訳なくなったんだってさ」
手をぱたぱたと振って、ジザはそう言った。
ふうん、とフェイは首をちょっと横に傾げる。何か、隠し事をしているようだった。
「だ、だからさ、もう謝ってくれなくていいから、フェイは明日はシャクラさんのエラワーンに乗ったらどうかって言ったんだ」
「それ、引き換えになっているの?」
「なってんの!はい、この話もうお終い!だからフェイはシャクラさんと明日のこと話して来いよ!オレはもう寝る!」
完全に何かを誤魔化しながら、ジザは頭から毛布を被って丸まってしまう。
ぺしぺしと叩いてみても、もうジザに出てくるつもりはないらしかった。
「毛布虫になったジザは、出て来ない。お前たち、ジザの言う通りにしたらどうだ?」
「虫じゃないですよ失礼な!」
「……いちいち騒ぐな、傷に響く」
ぺっしん、と喚いた毛布の塊を手で叩き、レトは寝台の隣の椅子に座る。自分はしばらくここにいる、と言わんばかりに、手をひらひら振られた。
ならば確かに、フェイがここにいてもできることはもうないだろう。
エラワーンのことをシャクラから聞かねばならないというのも、道理だった。
病室を出るときに振り返れば、レトが毛布から、そろそろと顔だけ出したジザの額を、静かに撫でていた。くすぐったそうにジザが首を縮め、凍りついたようだったレトの表情が緩むのが見えた。
彼らの間に流れている何かが、そのときフェイの足を止めさせた。
今、自分の目に見えている光景なのに、言い表せる名前がつけられない。
彼ら一対は、近いのに遠いところにいるようだった。
「フェイ?」
「なんでもないわ。行きましょう、シャクラ」
それだけを返して、フェイは病室を出た。
その日から確かにシャクラは、ジザに対して妙に強張った感じで接することは、なくなったのだ。
からかうと面白くなって、しかも友達が少ないことを気にしている、なんて一面までわかった。
コクヨウでなくエラワーンに乗るようになり、確かにより広く、落ち着いて戦場を眺めることもできるようになった。
何せ、エラワーンはコクヨウより揺れが少ない巨体だったから。
だけれど、どうしてあの一日で変わったのか、あのときシャクラと何を話したのかと聞いてみても、ジザが教えてくれることはなかった。
いつもあれこれと話を逸らして、困ったように笑うだけだったのだ。
そんな顔をされてしまえば、フェイにはもう尋ねることはできなかった。
今は無理だけどいつか教えるから、というジザの言葉を信じていたのに。
もう永遠に、わからないままになってしまったのだ。
旅立つ日に、そんな少しだけ昔のことを思い出した。
最後まで何を考えているのかよくわからなかったあの子の兄弟子は、一足先に旅立っていった。
薄情というより、彼らしいと思う。色々と心配なのは事実だけれど、また会おうという約束があるならば、きっと大丈夫だと思う。
「フェイ、どうかしましたか?」
「いいえ、何でもないわ……なんでもないの」
最前線の東部野営地から、大陸中央へと向かう白銀龍の背の上。
髪を弄ぶ風を感じながら、フェイは金色の膜を仰ぎ見て、それから、目の前にある広い背中に額を預けた。
「ふ、フェイ!?どうしたのですか!?やはりまだ、あそこにいたほうが……」
「いいえ、大丈夫。……ごめんなさい。少しだけ、こうさせて」
もしも、と思うのだ。
もしも、また会うことができたなら、そのとき教えてくれるだろうか。
わたしの友達は、答えを教えてくれるだろうかと夢を見る。
そうだといいと願いながら、そっと、フェイは金色の瞳を閉じて小さく吐息を漏らしたのだった。
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