第11話 のこされたもの

 どうやって自分が地上に戻ったのか、レトは覚えていない。

 自動人形のようにエラワーンの背に跨り、降りた先は船の上だったのだ。

 魔鋼でできた刀身が淡い赤に染まった剣だけを携えて戻ったレトを見た途端に、フェイはその場で泣き崩れた。

 金色の髪に金色の瞳の、このどこか浮世離れした妖精のような少女が声を上げて泣いたことなど、レトは見たことがなかった。

 剣を両腕で抱き締め、膝をついて泣く少女の傍らで、青褪めた顔をしているシャクラが口を開いた。

 肘から先が斬り落とされた腕にはきつく布が巻かれ、既に血は止まっているようだった。ドラゴン乗りはそれ程度の怪我で死にはしないが、腕は生えてこない。まともな治療を受けなければならない怪我だった。

 今更のように目眩がして、レトはふらつく。忘れていたが、胴を浅く袈裟斬りにされていたのだ。

 致命傷だけは避けたが、あの片刃の剣が食い込んだ肩は乾いて固まった、黒ずんだ血に染まっていた。

 

「レト、ジザとシランは?」

「……シランは死んだ。ジザはもう、戻って来ない」

 

 手のひらに、最後に残っていた指の爪先ほどの魔力結晶を見せた。

 シャクラが呻いて、片手で顔を覆った。

 魔力限界を越えた魔力を生身で浴びればどうなるか、ドラゴン乗りの中でわからない者はいない。

 あれだけの魔力を放った結界の起点にいれば、人間一人がどうなるかなど、火を見るより明らかだった。

 南の大陸と、今レトたちがいる海域、それに雲の上の空までが、金色の魔力の膜によって覆われていた。

 一度鈍色の龍によって消し飛ばされ、数が薄くなっていた魔族たちがその膜に何度も体当たりを繰り返しているが、激突しては通り越せずに跳ね返されることを無為に繰り返していた。

 空っぽの眼窩でこちらを見ながら、錆びた鉈を振り下ろしている有翼骸骨が目に止まる。

 

 元々、すべての魔族は北大陸にいる普通の生き物だった、というジザの言葉が耳の奥に木霊する。

 あの人間の言葉を喋る魔族も、彼を乗せていたドラゴンも、自分たちと変わらない人間であり龍だったことになる。

 こちらを傲慢だと言ったあの魔族の言葉に、レトは自分たちから奪っておきながら、お前たちがどの面下げてそれを言うのかと激昂したが、あれも中身は何もない木霊だったなら、虚しい怒りだったことになる。

 ならば、目の前のもかつては人で、肉体を喰い尽くされた成れの果てだということなのだろう。

 戦いの後、いつもコクヨウの翼の下で手を合わせて祈っていた姿を思い出す。

 あれも、魔族が何なのかを、知っていたからの行動だったのだ。

 魔族が操られた意志のない屍に過ぎず、喰われたものの末路の姿なのだと知っていたから、祈っていたのだ。

 いつか、少しでも良いところに生まれ変われるように、と。

 泣いているフェイの細く白い項が、奇妙に浮き上がって見えた。折れそうな細い花の茎に見えた。

 ジザは、フェイより一つ、歳が下だった。

 どれだけのことをジザは知っていて、そして自分たちに隠していたのだろう。言わずに、いってしまったのだろう。

 知るべきだったのだ。

 隠していたことでも、踏み込んで、追いかけて、そうしたら、もっと─────。


 もっと、何になったというのだろう。

 誰も自分の代わりになれなかった。適性がないのだから、とジザは言ったのに。

 

 ぐるる、と喉声が聞こえ、振り向けば黒い龍の赤い瞳がレトたちを見下ろしていた。

 

「コクヨウ、お前は知っていたのか?」

 

 皿のような大きな眼が、瞬かれる。

 黒龍は、わかっていたのだ。

 魔力が足りないから、幼いから、コクヨウを連れていけなかったとジザは言った。その話を、コクヨウはいつ聞かされたのだろう。

 レトは、シランとジザの約束に、気がつかなかったというのに。

 わかるのは、この黒龍が乗り手の意思を汲み、戦っていたことだけだ。

 

「ねぇ、アンタたち。船、戻すわよ」

 

 メイファと名乗った船長の少女は、そうぶっきらぼうに告げた。

 彼女も、あの【混沌】の姿とジザの言葉を見聞きしたのだろう。顔が青白かった。

 

「いつまでも海の上にいるわけにはいかないでしょ。……魔族は、これでしばらくこっちへ来られないんだから」

 

 その言葉に頷く以外、残された者たちにできることは、なかった。


■■■■■


 四つの翼は、二つが欠けたという。

 残りの翼の一人は、被害を調べに行き、リュイロンはレグルスの補助に回っていた。

 ドラゴン乗りの長は、宿舎の椅子に腰かけていた。最強であるレグルスですら片脚を奪われていたのだ。

 手当てはしっかりと施されていたが、最強の戦士であっても憔悴が隠しきれていない。

 鼻につくのは、嗅ぎなれた血のにおいだった。

 

「……おう、お前ら、戻ったのか」

 

 そう告げたのは、【四翼将】の一人、リュイロンである。彼も怪我は負っているようだったが、四肢は揃っている。

 フェイが放そうとしない赤い剣を見て、巌のような巨漢は体が萎むのではないかと思うほど深く息を吐いた。

 

「【黒】は任を果たしたようだが……最後のあの光景、あれはお前らも知っていたことだったのか?」

「知りません。我々は、ジザがあのような任を負っていたことすら、知りませんでした」

 

 医療班のところへ行けと言ったのに、まったく聞き入れなかったシャクラが言えば、口を閉ざしていたレグルスの眉がぴくりと動いた。

 

「自分から伝える、とあれは言っていたが、聞いていなかったのだな」

「聞いていません。……知りませんでした」

 

 白い手に血管が浮くほどの力で剣の柄を握りしめたフェイが何かを言う前に、レトは彼女より前に出た。

 小柄な体の中で、爆発しそうなほどの感情が吹き荒れているのが、感じ取れた。

 フェイはあの海域にいたドラゴン乗り全員に念話回路を繋ぎ、指揮をしていたのだ。無論、鈍色の龍の光線に焼かれて消えた、仲間たちの末期の声も聞いている。

 今フェイが立っていられるのは、気力でもたせているのに過ぎなかった。

 

「何が起きたか、説明の必要はあるまいと思っていたがその分では、貴様らは何も知らなかったのだな」

 

 説明する、とレグルスは続けた。リュイロンが止めようとしたのか動いたが、レグルスは彼を視線を一つくれただけで下がらせた。

 

「私が話す。命令を下したのは私だ。【黒】はそれを確実に実行し、成功させたのだ」

 

 あれはドラゴンの心臓一つ分の魔力を起爆剤に、ドラゴン乗り一人を生体回路にして起動した結界だ、とドラゴン乗りたちの長は告げた。

 

「術の発動まで耐えられる魔力限界値を持っていたのが、【黒】のアジィザだけだった。女性であり、魔力容量が誰よりも多かったためだ。器の大きさだけならば、私や、四翼将すら超えていた」

 

 本来なら、とレグルスは続けた。

 

「本来の、結界石を用いた作戦が成功していたならば、彼女が結界を直接張る必要はなかった。だが、あの鈍色の龍とその乗り手が現れた」

 

 魔族ごとこちらを薙ぎ払ったあの光線は、海に点在していた戦場の各所で放たれていたそうだ。

 鈍色の龍は戦場の空を恐ろしい速さで飛空し、目ぼしい船に光線を打ち込んでは飛び去ることを繰り返していた。

 メイファの船は七番目の標的になり、そこで初めてあのドラゴン乗りは龍から降りて直接に斬りかかってきたのだという。

 不意討ちで船諸共蒸発した魔力結晶もあれば、直撃は免れたが破損して使い物にならなくなったものもあった。

 だから、本来ならば使わないはずの第二案を発動させることになったのだ。

 

「あれはなぁ、素体の才能に結界のデキが左右される術だ。術者は成功させようがさせまいが、龍の心臓の魔力を間近で浴びにゃならん」

 

 遅いか早いかの違いはあれど、そこには人間という種族の限界を超えた力に焼かれて、結晶になる未来しかない。

 過剰な魔力を浴びた細胞は変質し、結晶と化す。肉体の崩壊はどう足掻いても免れない。

 

「己の肉体が結晶化していく最中に合っても尚、人間が結界を張れるかはわからんかった。素体値からして、脳が結晶化するより前に張り終わる計算だったが、余裕もない。それを……あの【黒】の嬢ちゃんはやり切った。……我らがやり切らせたのだ」

 

 目の前にいる顎髭を生やしたドラゴン乗りと妹弟子の数日前の会話を思い出した。

 、と問うたこの男に、妹弟子はこう答えていた。

 、と。

 あのとき、レトは何もおかしいと思わなかった。

 五十秒魔力を石に注ぐ役目のことを話していると思ったからだ。

 だが、違っていたのだ。

 必ず死ぬ作戦をやり切るつもりなのかと問われ、やりきって見せると返していたのだ。

 

 選択肢がなかったわけではない、というジザの声が聞こえた気がした。

 

 選ばされたわけではなく、自分で選んだのだから最期までやるのだと、あの少女はそう決めていたのだ。

 昔と、同じだった。

 あったかもしれない他の生き方へ歩き出さず、ドラゴン乗りになると選んだのは自分なのだと、ジザは言っていた。

 それが、たとえ限られた選択しかできない中で突きつけられた、答えとも呼べないような答えだったとしても。

 

「だが……最後のあれはなんだったのだ。貴様らはあの光景が何だったのか、【黒】から聞いていたか?」

「聞いていません。……逆に問います、龍乗りの長。あなたは、あれが何なのか知っていたのですか?」

 

 フェイの問いに、ドラゴン乗りたちの長は首を振った。

 

「あれは【混沌】です」

 

 だから、レトが口を開いた瞬間その場にいた全員が弾かれたようにレトの方を向いた。

 

「北大陸の地脈に取りつき、魔力を吸い上げ続けている生命体です。こちらと対等に意思の疎通が図れるような思考形態はなく、ただ目に付くものを捕食することを目的としている星喰らいです」

 

 伝えられるとするならば、今しかないとレトは思った。

 最後の時間を使ってまでジザが伝えたかった知識。どこで手に入れたのか、何故知っていたのか定かでなくとも、あの場で伝えられたことに意味がないはずはなかった。

 人と話すのが苦手がどうとか、言っていられるものではない。

 

「俺たちが魔族と呼んでいる敵はすべて、かつて北大陸に生息していた動植物であり、人間であり、龍です。彼らは混沌によって喰われた後、他の生命体を喰らうための傀儡とされています」

「レト、待って。一体何を……」

「地脈に取りついている【混沌】を消滅させるには、条件が揃わなければなりません。百年後に北大陸を襲うはずの大地震と火山の噴火という天災の際に、【混沌】は地脈から僅かに剥がれるはずです。だからそのときに、【混沌】に喰われた生きものたちの意志に呼びかけられるだけの思念能力を持つ人間が必要です」

「おい、少し待て。【蒼】の。お前は一体何を言っておるのだ」

「事実を言っているだけです。ジザが【魂朧たまおぼろ】を使ってまで、俺に伝えてくれたことです。突拍子も無い話であるのは重々承知していますが、あいつはつまらない嘘をつくようなやつではありません。まして……自分が死ぬ、そのときに」

 

 フェイとリュイロンの制止を振り切って話すレトを、レグルスは静かに見やった。

 黄金色の瞳に見据えられれば、レトは焦りで早口になる。

 

「俺の気が狂ったのではありません。俺は正常です」

 

 いっそ狂ったほうが楽であったろうが、そんな暇はない。だってもう、百年しかないのだから。

 自分は二度と泣かないし折れないと、レトは決めたのだ。

 

「……私が言っても、友人を庇う身内贔屓と取られるかもしれませんが、彼は至極まともです。錯乱してもいません」

 

 思念感応能力を持つ我々ならばその程度はわかることでしょう、とシャクラが言うと、場は沈黙に包まれた。

 

「あの結界には、そこに残留していた魔力反応を持つモノを弾くよう、術式が込められていた。魔族の死体を研究して得た結果だ」

 

 沈黙を終わらせたのは、長の一言だった。

 

「正体は不明だが、魔族にはすべて同じ波形を持つ魔力が確認されていた。彼らはその魔力に汚染された、屍に近い存在であるということも、解明されていたのだ。それが、アジィザとレトの言う【混沌】であったとするならば……確かに北大陸には何か、我々の想像を超えたものが巣食っているのだろう」

 

 レグルス、とリュイロンが声を上げる。

 それは恐らく、隠されていた話だったのだ。突き詰めれば、魔族がかつては自分たちと同じ人間で、利用されているだけだったということになるから。

 人の形を真似た醜悪な怪物、という認識で戦う者の中には混乱する者もいるだろう。

 広く知られてはまずい話であるのは、明白だった。

 

「故に、【蒼】のレトの話は、頭ごなしに否定されるべきものでは無いと判断できる。……【蒼】よ、【黒】から聞いたという話を余さず報告しろ。それとも傷の手当てを受けてからにするか?」

「いえ!……いいえ、今この場でお話します」

 

 自分の怪我が軽いものでないことは、レトにもわかっていた。血が足りないのか、足元が覚束ない。

 だが、今日話せることは、今日話しておかなければならないと思えてならなかった。

 今目の前にいる人間が、明日も生きてこの場にいる保証など、どこにもないのだ。

 その人がどれだけ強かろうと、どれだけ自分の大切な人であろうと。

 

 それから、レトがジザから聞いた話を伝え終わるまで話が遮られることは一度もなかったのだった。















「ねぇ」

 

 話を終えて、医務室の寝台に放り込まれたレトにフェイが赤い剣を差し出してきたのは、二日目の夜更けことだった。というより、レトは話し終えたあとの二晩、昏睡したように眠り続けたのだ。

 目の周りを腫らした少女は、しかし存外静かな声と気配で近づいて来て、そっと寝台の端に腰掛けた。

 ぎ、と微かに寝台が軋む。

 

「これ、あなたに返すわ。わたしが持っていても、使わないもの」

 

 間近で尋常でない魔力を浴びたためか、魔力をよく通す性質を持つ魔鋼の刀身は、赤く染まっていた。

 ジザやコクヨウの瞳と、同じ色である。

 

「いいのか?」

「その武器は、使う人のところにあるべきよ」

 

 にべもないふうに言って、フェイはす、と窓の外を見た。開いた窓からは、あの黄金の結界が見えている。

 ジザは肉体すべてが砕け、結界へと組み込まれた。ならば、あれはあの赤毛の少女、そのものと言ってもいい。

 二度と語りかけて来ず、笑いかけても来ない存在であったとしても。

 金色を見上げながら、フェイは呟くように言った。

 

「シャクラはね、とりあえず中央部に行って、腕に義手を付けるそうよ。魔族が来なくなれば、そういう研究とか治療をする余裕だって生まれるから、多分数年も経ったら、今のものよりもっといい義手ができるはずだもの」

「……そうか。お前は、どうするんだ?」

「人にすぐ尋ねる前に、自分のことを話すべきじゃないかしら。あなた、ただでさえ何を考えているかわかりずらいって言われているんだから」

「悪かった。だけど……すまない。今は何も思いつかないんだ」

 

 やらなければならないことは、はっきりしている。

 青空を取り戻して、皆でそれを見る。それだけだ。

 その後のことは何一つ思い浮かばないとしても、レトは約束を果たさなければならなかった。

 だが、【混沌】を滅ぼす力はまだ何処にもない。

 戦いで犠牲になったドラゴン乗りは、何もジザだけではない。

 集められた仲間のうち半数は死に、ドラゴンすら大きく数を減らした。

 穿たれた穴は大きく、取り戻すには時間がかかるのは明白だった。

 やらなければならないことが、いくらもあることはわかる。何もかも足りていないのだから、穴を一刻も早く埋めなければならないこともわかっている。

 だけど、レグルスとリュイロンに情報をすべて伝え、ジザが死んでしまったという事実が心に沈み込んで来ると、手足に重りが括り付けられたような気がした。

 もう、ジザはどこにもいない。声も聞こえないし、姿も見えない。亡骸すら、残らなかった。

 シランも死んでしまった。

 常に側にいて、厳しくもずっと視線を注いでいてくれたあの龍が消えてしまったのだ。

 

 今のレトは、ドラゴン乗りとすら名乗れない。

 空も飛べないし、魔力も前のように扱うことはできない。

 

 大切な存在を失ってつらいのが自分だけでない、という真理になどとうの昔に至っている。

 それでも、気力がさらさらと砂のように崩れていくのが、止められなかった。

 

「レト」

 

 窓から目を逸したフェイが、レトを真っ直ぐに見ていた。

 

「あなた、ジザの顔、最後に見たのよね。あの子、どんな顔をしていた?」

 

 言われ、すぐに思い出す。

 泣きそうな、けれども決して泣きはしないと決めたような、そんな透明な表情だった。そして、約束するとレトが言ったとき、ジザは確かに微笑んだのだ。

 あの微笑みの理由も、レトにはわからない。

 

「……微笑んでいた。俺が、約束すると言ったら安心したように見え、た」

「青空、そんなに綺麗だったの?」

「ああ。……多分、一生忘れないと思う。俺たちはたくさんの空を飛んだが、あれが一等綺麗だった」

 

 そう、とフェイが呟く。

 金色の髪をかきあげ、少女は首を横に倒した。

 

「あの子がわたしたちに何も言わなかった理由、ずっと考えていたの」

「……止められると思ったから、だろう?」

「ええ、そうでしょうね。その予測は外れていない。わたしはどんな手を使っても、止めていたわ。だって、どうしてわたしの友達が、死ななければならないの?どうして、ジザでなければならなかったの?」

 

 適性があったから、と言ってしまえばそれまでだった。だけどそれで、納得できるかと言われたらできるものではない。

 代われるならば、代わりたかった。

 ジザはレトが知っている中で、誰よりも優しい人間だった。

 幸せになってほしかった。報われてほしかった。この世の誰よりも。

 眦を決して、歯を食いしばって世界なんて救うことなんかなかった。

 コクヨウの背に乗って足をぶらぶらさせて、こっちをからかうように見て笑っていて、ほしかったのだ。きっと、いつまでも。

 だけど。

 

「それは、ジザも同じだっただろう。……だから、あんなことまでできてしまったんだ」

「あなたたち、そういうところが似ているものね。わたしはね……絶対ムリよ」

 

 唄うように、少女は続けた。

 

「だって、この世界はわたしが死ねばもう、終わってしまうものだから。わたしは、わたしが死んでしまったあとの世界のことなんて、心のどこかではどうだっていいと思うの。ただ今を、あなたたちと生きていたいだけなのだもの」

 

 ね、とフェイは視線を床の上に落とした。

 

「わたしって、冷たい?わたしがこんなふうだから、ジザ、何も言ってくれなかったのかしら」

「違う。……お前は冷たいやつじゃない。お前がお前のことをそう思っていても、俺は絶対に頷かない。ジザが言わなかったのは、ただ……」

 

 止めてほしくなかったから、だろう。

 止められたら、決意が揺らいだだろうから。自分たちの哀しみと、絶望の未来と、二つを天秤にかけるしかなかったから。

 そう言い募っても、フェイはそっと、微笑んだだけだった。寝台から降り、何故かレトへ片手を差し出す。

 

「安心したわ、あなたが折れていなくて。だけどね、折れかけている子がいるから、来てくれないかしら。……ううん、来なさい」

「別に凄まれなくても行くぞ」

「それは良いわ」

 

 転ばないようにと渡された杖を持って、そっと病室の外へ出れば、そこにはシャクラがいた。空っぽの白衣の片袖が、夜風に揺られている。

 

「寝てなさいって、言ったのに」

 

 呆れた、と言いたげにフェイが額に手をやった。シャクラはむきになったように仁王立ちになる。

 

「この状況で高鼾ができますか。龍舎へゆくのでしょう。貧血でも起こしてレトが倒れれば、フェイには支えづらいでしょうから」

「いや、俺よりお前が重傷だろう。腕、一本無くなったんだぞ」

「その分、あなたがあの魔族の腕を切り落したでしょう。それで良いのです」

 

 まったく何も良くないし、俺が敵の腕を斬ったところでお前の腕は生えてこない、というレトの抗議も何のその、シャクラはずかずかと歩き出した。

 刈られた草が茂る大地に足を叩きつけるような歩き方をする青年の後を、レトとフェイは追った。

 

「……私は、正直なところジザがしたことを正しいと思っています」

 

 そうやって歩きながら、シャクラは振り返らずに言葉を継いだ。

 

「私の家は、代々ドラゴン乗りとして戦ってきました。だからでしょう。身内が戦で倒れることは名誉でこそあれ、悲しみは薄く、すぐに乗り越えるべきものと教わってきました。……そうあらねば、白銀龍に認められなかったからとも言えますが」

「回りくどいわよ御曹司。つまり、あなたはジザが死んだことも悲しくないと言いたいのかしら?」

 

 不自然な勢いのある風がフェイを中心に吹き抜け、レトの髪を揺らす。

 シャクラは立ち止まり、振り返った。

 噛み締めて歯が肉を食い破ったのか、唇の端に血が滲んでいるのが白い月光と金色の結界の光に照らされて、見えた。

 

「ええ、そう思うだろうと考えていました。ジザに限らず、私自身含めた誰がいなくなってもそう思うだろう、と。私は、父が死んだときすらも、声を上げて泣かなかった男ですから」

 

 白銀色の瞳が、濡れたように光っていた。

 

「ですが……いなくなってみて初めて思いました。私はもっと……もっと四人でいたかった。誰一人欠けることなく在りたかった、と。そして何故、もっと前にそうと気づけなかったのか、と」

 

 それが悔やまれてなりません、とシャクラは言い、また前を向いて歩き出した。

 野営地の外れにある医務室から龍舎まではやや遠く、すれ違う人は多い。

 何せ、史上初めて魔族の侵入を完全に断つことができたのだから。

 忙しく立ち働く彼らは、レトたちを見ても彼らは何も言わなかった。

 ただ無言で、道を譲ってくれた。

 その視線の中に、哀しみや労いの光でない、暗いものが混ざっているのにレトは気づいた。

 

 南大陸の意志ある者すべての脳裏に、【混沌】の姿を映像として送り込んだ、とジザは言った。

 ドラゴン乗りも【魔力持ち】も並みの人間もドラゴンも関係なく、すべてである。

 忘れることなど許さないと告げた、あの純粋すぎる怒りの中に、生きてほしい、戦い続けてでも生き延びてほしい、という祈りが込められていたことに、どれほどの人間が気づくだろうと、レトは忙しく騒がしく行き交う人を見て、思う。

 

 必ず、ジザを恨む者はいる。レグルスは話を信じてくれたが、それとこれとは話が異なるのだ。

 真実など知りたくなかった、何事もなく死ぬことすら許さないのかと、泣き喚く者もいるだろう。

 百年という時間は、長い。

 今を生きる人間のうちドラゴン乗りと【魔力持ち】以外は、魔族に怯えることなく生を全うできるのだ。

 世界は広く、人は多い。

 戦わなければならない状況にあると知っていても、皆が皆戦い続けられるわけではない。

 何もしなければ死ぬとわかっていても、破滅の瞬間まで前へと進めない者だっている。目を逸らし続けることに、全力を尽くす者もきっと、いる。

 それは何も、人に限った話ではない。

 

 その龍舎が見えてきたときには、レトはその気配に気がついていた。

 背丈を超える扉を、シャクラが開ける。

 松明に照らされる龍舎の中、身を丸めて暗がりに蹲っているのは、コクヨウだった。

 首周りの鱗が毟られ、血が滲んでいる。牙が赤く染まっているのが見て取れて、レトは顔を顰めた。

 

「身食いをしたのか、コクヨウ」

 

 杖を手放し、赤い剣を腰に佩く。

 動こうとしたフェイを、シャクラが止めるのが視界の隅に入った。

 小さいとはいえ、小山のような大きさの黒龍と、レトは一人で向き合った。

 ジザと同じ赤い瞳には、まったく異なる光が宿っていた。

 この龍は、自分で自分の鱗を食いちぎり、引き剥がしたのだ。

 精神的に追い詰められた馬が、毛を自分で噛みちぎって毟る、身食いと呼ばれる行動を取るのは知っていたが、龍で身食いをしたのを、レトは見たことがなかった。

 

「やるせないんだろう、お前」

 

 契約してもいない、乗り手を失ったばかりのドラゴンに語りかけるには、凡そありえないぞんざいさで、レトはコクヨウに呼び掛けた。

 ぐる、とコクヨウが低く唸った。ジザに鼻面を擦り付けるときに出すような甘えた声ではない。

 隠し切れない、獰猛さがあった。

 

「置いていかれた自分が許せなくて、あいつがいないのに戦わなければならない理由がわからなくて、だから、牙をその身に突き立てなければ、耐えられないんだろう?」

 

 赤い目が、闇の中で光る。

 構うものかと、レトはその瞳を睨み返した。

 この龍が、自分を嫌っていることなど知っている。

 大好きな姉を取られた妹のように睨んできていたのを、レトはずっと前から気づいていた。

 

「軟弱者。最強を謳う龍でありながら、お前は何をやっている。その牙も爪も、ただの飾りなのか」

 

 直後響いた咆哮が、建物の壁をびりびりと震わせた。

 隣の房で静かに身を横たえているエラワーンが、鼻を一度だけ蠢かせる。白銀の古龍に、口を挟む気は欠片も無いようだった。

 好都合だと、レトは唇を舐めた。

 

「吠えたければ吠えろ。俺に腹が立つならば、食い殺すがいい。だが、そのようなことをしても何一つ変わらない」

 

 ジザは還ってこない。

 戦いが終わったわけではない。

 百年は、龍にとって寿命を迎えるような長いものではないのだ。

 身食いでコクヨウが食らった鱗の位置は、心臓に近かった。

 

「置いていかれた身がやるせないならば、殺してやろうか?」

 

 腰の剣を、レトは抜いた。

 揺れる松明の灯りの中で、赤い刀身がめらめらと燃える炎のように光を照り返して輝く。

 その光に、コクヨウが怯んだように見えた。

 この剣を染めたのは、ジザの魔力。

 黒龍に、それが感じ取れない道理はない。

  

「これはシランの生命も奪った剣だ。お前が龍であろうと、殺せる」

 

 剣の鋒を、レトは揺らした。

 龍一頭殺したところで、おとぎ話の魔剣が生まれたわけではない。すべてを切り裂く、魔法の武器など存在しないのだ。

 だが、目の前のドラゴンはジザの魔力とシランの血を吸い、色が転じた剣へ一心に視線を注いでいた。

 

「心と心で繋がっていたお前ならば、わかるだろう。ジザが最期に何を望んだのか。なら、お前がすべきことははっきりしているはずだ」

 

 言いながら、レトは心で自分を嘲笑った。

 偉そうに言えたものではないのだ。己も、さっきまで蹲りかけていたのだから。

 自分の生命より大切な人がいなくなってしまっても、生きていくことができてしまう己にやるせなくなって、虚しさに膝を折りたくなった。

 ああ、その心は痛いほどわかるのだ。

 わかるから、レトはここにいる。

 

 この黒く幼いドラゴンの中には、レトがいる。きっと今自分は、この龍と同じ眼をしていることだろう。

 だからこそ、鏡を覗き込んだときのように見えたものがあった。

 

「俺と契約しろ、コクヨウ。すべての魔族を滅ぼし、【混沌】をこの世から消す。ジザはそれを、望んでいた」

 

 剣を鞘に戻し、片手を差し出す。

 ややあってコクヨウの鼻先が、そっと指先に触れた。

 瞬間、左手の甲と両眼に熱が集まる。

 視界が刹那の間白く弾け、また元に戻る。

 レトにとっては、二度目の感覚だった。

 

「レト、その眼は……」

 

 駆け寄って来たシャクラが、レトの眼を覗き込んで息を呑む。

 問題なく広がる視界のまま、レトは首を傾げた。

 

「俺の眼、何かおかしくなったのか?」

「瞳が紫色になっているわ。赤と青が混ざったみたい。ちゃんと見えてるの?」

「問題はない」

 

 ふらついた体を直し、改めて前を向けばコクヨウと視線が交わった。

 赤い瞳の奥には、拭えぬ反感とそれに勝る闘志が渦を巻いていた。

 どうにかなった、とほっと息を吐く。左の手の甲には、龍の鱗に似た痣が浮き出ていた。

 今はまだろくにコクヨウの意志も感じ取れないが、契約が成されたという手応えがあった。心の一部が自分の意識の外へと繋がれているように感じる、あの独特の感覚が戻って来ていたのだ。

 また来る、と言ってレトたちは龍舎を出る。コクヨウは鼻を鳴らして、エラワーンは鼻から煙を一筋吐き出して、それを見送った。

 出た瞬間、レトの後頭部にシャクラの平手が入った。

 

「馬鹿をやるのは何度目ですか!契約もしていないドラゴンを真っ向から挑発など、いよいよ以て頭がどうにかなったのか!!」

 

 ひどい言われようである。

 ああ言う以外にどうできたと言うのかと、レトはじとりとシャクラを睨んだ。

 

「嫌われている自覚があるならば、相応に頭を使いなさい。確かにコクヨウを立ち上がらせてほしかったのは本当だけれど、肝が冷えたわ」

 

 フェイにまで揃って言われれば、さすがにレトは黙るしかなかった。

 誰からと言うでもなく、三人は龍舎の近くに座る。

 月と星の光以外に、結界が放つ淡い金色の光が、夜を彩っていた。

 ふわふわと座ったまま宙に浮いているフェイが、首を傾げた。

 

「レト、あなたはこれから、どうするの?」

「……北大陸を、調べようと思う」

 

 言葉にすれば、案外すんなりとその考えは落ちてきた。

 コクヨウの瞳を覗き込むと、その答えはまるで自然なもののように見つけられたのだ。

 

「ジザは【混沌】が、空から来たと言っていた。空から来て、北大陸に落ちたと。……だが、俺たちはその座標すら知らない」

 

 魔族との戦いは、生まれる前からずっと続いて来た。戦いとは、終わらせられるものなのだとすら、思ったことがなかった。

 魔族が南大陸を襲い続ける原因も理由もわからず、ただしのぎ続けるしかない歴史の中で、何人もが犠牲になった。犠牲になった彼らを、振り返る時間すらなかった。

 だが今ならば、足を止めて振り返る余裕がある。それができるだけの時間を、ジザが与えてくれた。

 

「北大陸を襲う天災というのも、いつ起こるのか、もっとはっきりとした情報が必要だろうし、レグルスは、北大陸に調査隊を送るつもりだと聞いた。そこに入る」

 

 契約し直したばかりの、傷もまともに癒えていないドラゴン乗りに、身食いをするような幼さが抜けきれないドラゴンの一人と一頭などは受け入れられないかもしれないと、そんな弱気が胸を掠める。

 だが、やるしかなかった。断られたなら、あのメイファという船長に頼る方法もある。

 あの、ドラゴン乗りを名乗った魔族の剣技も、シャクラとレトの二人がかりで倒せないほどだった。

 シャクラは腕を斬り落とされたし、レトもジザの念話の割り込みがなければ、危ういところだった。

 まだ、どうしようもなく自分は弱いのだ。

 

「フェイは、どうするんだ?」

「わたしは……わたしも中央部に行くわ。あそこ、魔術の研究が一番盛んだから。二人とも、前にわたしが未来について言ったこと、覚えている?」

「未来の観測など有り得ない、というあれですか?……ああ、なるほど。それなのにジザは確かに未来を告げていましたね」

「ええ。変えられる未来として、ね」

 

 どうして知っていたのか、どこまでを知っていたのか、告げることなくジザは逝ってしまった。

 

「【混沌】も宇宙から来たと言っていたけれど、それにしても規模が桁違いすぎるわ。それこそ、神様とでも呼べてしまいそうなくらい」

「神は、存在していないのではなかったのか。お前は無神論者だろう」

「だけど、いないと証明されたわけでもないのよ。祈ることでわたしたちを助けてくれるようなものではないのだろうけれど、神様としか呼べないような生命体は。ジザがもし、それと出会っていて、だから未来を知っていた、なんて考えてしまうわ」

 

 地脈に取りついた宇宙から来た化物であり、天災で地脈から剥がれたときにしか、倒すことができない不死身の存在。

 それもまた、人知を超えた存在だ。

 その人知を超えた存在を倒す方法をジザは言い残したが、本当にそれ以外の方法は、ないのだろうか。

 

「【混沌】の中にあるという魂もね、調べなければならないわ。魂は、観測されたことがない。確かに、遺された魔力に術者の残留思念が宿る場合もあるけれど、何年にも渡って残るほど強いものではない。じゃあ、ジザが言う『魂』とはなんなのかしら」

 

 【混沌】の中に囚われている『魂』がある。それと対話し、僅かでもかつてを思い出させることで【混沌】を内側から攻撃できるようになる。

 そう言っていた。だが、それだけの思念を伝えることのできる人間も、探さなければならない。

 

「だが、そう都合のいい人間が、百年後に現れるとは限りませんね」

「ええ。限らない。限らないならば、誰もがやれるようになる方法を考えなければならないでしょう?わたしはそれをするわ」

 

 なるほど、とレトは頷いた。

 フェイほどの器を持つ【魔力持ち】ならば、百年で寿命が来るようなことはない。余裕で生きていられる。

 正直、魔術のことに疎いレトには何をすればいいのやらわからないのだが、フェイには何か、道筋が見えているようだった。

 ふと、いつかにジザと交わした言葉が蘇る。

 百年先はどうなっているんでしょうね、とジザは問うてきて、何事も無ければお互い生きているだろう、とレトは返した。

 あのときジザは、何と答えたのだろう。

 明るく笑っていた顔しか、もう思い出せなかった。あのときから、まだ数日しか経っていないのに。

 

 ずっと続くと思っていた戦いが、唐突に一度止められた。

 もっと長く一緒にいられると思っていた仲間と、離れていくことになった。

 今でも、気を緩めば足が折れそうになる。つらくてつらくて、堪らない。蹲って身を振り絞って、泣きたくなる。

 もう二度とあの笑顔が見られないのかと思うと、何故何もできなかった自分が生きていてジザがいなくなってしまったのかと、叫びたくなる。

 

 それでも、生きているから。

 生かされて、いるのだから。

 

 約束を果たす。もう一度、あの空を見るために。

 そのためだけに、生きる。

 

 ─────つ、と誰かの指が、頬に触れた気がした。

 

「……」

 

 ふと視線を落とせば、抜いた覚えもないのに剣の刀身が鞘から僅かに覗いていた。

 赤く染まった鋼の刃紋が、波のように揺れたかに見えた。

 

「レト?」

「……なんでもない」

 

 剣を鞘に戻し、空を見た。

 月と星と金色の膜の向こうに見えるのは、瘴気に閉ざされた半分の空だった。

 

「フェイ、シャクラ」

 

 空から地上へ目を移し、名前を呼ぶと、二人は揃ってこちらを向いた。

 

「また、会おう」

 

 失くしたものは取り戻せない。レテも、シランも、そしてジザも。

 いくら強く望もうとも、時は逆さまには流れない。やり直しなど、あるはずがない。

 そう思っているのは自分だけではなくて、悔しさも哀しさもやるせなさも、自分だけの感情ではない。

 分かち合って助け合って、駆け抜けなければ、あの闇の塊を滅ぼせる未来も、遥かな蒼穹にも辿り着けない。

 それでもジザは、自分たちがそこに辿り着けると、信じてくれた。信じていたから、きっと最期に微笑んでいたのだ。

 

 ええ、と金色の少女が微笑み、無論です、と白銀の瞳の青年は深く頷いた。

 

 金色の光に護られた世界の夜の片隅で、そうして、確かな誓いが結ばれたのだった。

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