第10話 最後の祈り
遠くなってしまった、もう誰も知る人間がいない過去のことだ。
一つの街に一人の平凡な少年がいた。
平凡で、だけれどとても幸せに生きていた少年である。
優しい家族と暮らし、外を駆け回って遊び、時々小さな悪戯をして叱られて、それでも次からはやるなよ、と頭を撫でられたらべそを引っ込めるような、そんな、少し人見知りなだけの、ごく普通の少年だった。
運動だって勉強だって、並みにしかできなくて、ほんのわずか人と違うことといえば、双子の姉がいたことくらい。
口下手で引っ込み思案な少年なんかとは全然違って、みんなから好かれる優しい双子の姉。可愛くて、頭だって良くて、走るのも速くて、みんなの憧れだった。
双子なのに、と思わないでもなかったけれど、姉の輝きは少年のそんな拗ねた想いも包み込むようなあたたかなもので、嫌いだなんて思ったこと、一度もなかった。
大好きだった。
お前は男なんだから体が強い分、双子のお姉ちゃんを、レテを守らないといけないよ、と、上の兄や姉たちに言われながら育った。
少年は少年で、人見知りながらも素直な性格だったから、うん、と大きく頷いていた。
だけど、少年はその約束を、守れなかった。
たまたま、偶然、空から落ちて来たほうき星に当たるみたいな不運で、故郷が魔族に襲われたからだ。
魔族という名前は聞いていた。聞いていたが、周りの大人たちはいつも言っていたのだ。
魔族は恐ろしい。襲われたらお終いだ。
だけど、自分たちのことはドラゴン乗り様が守って下さる。何百年も前からずっとそうなのだから、大丈夫なのだ、と。
何百年も続いてきたことが、明日も当然のように続くのだと、どうして無邪気に信じられたのだろう。
街は、一瞬で炎に包まれた。
屋根が崩れ、化物たちが空から押し寄せた。
時計塔は砕けて、家の前にあった花屋はお店の人ごと燃え崩れた。遊んでいた広場も、友達と駆け抜けた石畳の路地も、砕かれ、抉られ、壊された。
少年の家族の中で、最初に死んだのは父親だった。崩れた天井の下敷きになった。
次は母親。倒れた柱に挟まれた。
それから兄と姉。魔族を引きつけて走って行った。
みんな、みんな、末の双子である少年と姉を守って死んでしまった。
それでも姉の手を引いて、幼い少年は街を駆け抜けた。
もつれそうになる脚を動かして、早く早くと双子の姉を急き立てて、人が燃えて、倒れている慣れ親しんだ道を走った。
血を吐きそうになるほどの勢いで走って、走って、走って走って走って。
大通りに飛び出した瞬間、あ、と呆気ない姉の声を聞いた。
見上げればそこには、腐った顎を大きく開いた屍竜がいて、少年の横を飛び抜けて行った。
姉さん、と叫ぶ間もなかった。双子の姉は、消えていた。喰われていた。庇う暇すらなかった。
自分と姉の距離なんて、ほんの数歩しか離れていなかったのに、手だって繋いでいたのに、なのに、レテは一瞬で。
─────いなくなって、しまった。
それから起きたことは、ほとんど覚えていない。
気づいたら、少年はドラゴン乗りたちに助けられていた。
たった一頭だけ、人が乗っていないドラゴンにその場で触れられ、右手に何か模様みたいなものが刻まれたけれど、それにも気づかなかった。
周りは、契約を断ち切ったばかりのドラゴンが何故、と言っていたが、少年には聞こえていなかった。
周りの音がちゃんと聞こえるようになってからようやく、自分がドラゴンに選ばれたのだと知らされた。
選ばれたのならば、魔族と戦わなければならないと言われた。
魔族は、許せなかった。
友達を、家族を、姉を殺された。
自分たちが何をしたというのだ。姉が何をしたというのだ。
魔族という生き物がこの世に存在することが、許せなかった。
師匠となるドラゴン乗りに引き取られ、ひたすらに修行した。
でも少年は元々、何かが特別他の子よりも優れていることなんてなくて、師匠はとても厳しい人だったから、つらい修行の最中何度も、もしこれが姉だったらと考えた。
双子の姉だったなら、レテだったなら、自分よりきっと、なんだって上手くできたはずなのだ。
姉はそういう、特別な女の子だったから。
周りの人々を明るい気分にさせて、いつも楽しそうに笑っていて、人見知りで楽しく喋るのが苦手な自分と双子であることが信じられないくらいだった。
だけど、レテはもういない。
魔族に、目の前で食べられてしまって、亡骸一つ残らなかった。
死んでしまった者は、もう戻って来ない。
だったらせめて、自分たちと同じ思いをする子どもが、家族が、少しでもいなくなるように、魔族を殺そう。
少年が、レトが思うのはそれだけだった。
だというのに、レトは失敗した。
平常心であるようにと言われていたのに、修行の一つで赴いた場所で、怒りに任せてシランの炎を解き放ってしまったのだ。
そこは狂人が集った場所で、世界を救うためと称して子どもたちを使い、怪し気な実験を繰り返していた。
それだけなら、ドラゴン乗りが何人も赴くことはなかったはずだ。普通の兵隊だけで、事足りたはずだ。
ただ、そこのやつらはあろうことか、ドラゴンの卵を盗んでいたのだ。
相当に周到な装備を整えているのではないかと危惧され、レトの師匠とまだ見習いのレトと、あともう一人が向かった。
結論だけで言えば、そこのやつらの限界は、ドラゴンの卵を盗むまでだった。
あとは、何の役にも立たないような実験で、いたずらに子どもたちを弄り回していただけだったのだ。
彼らがしていた所業を見て、子どもを物のように扱い、殴る様を見て、魔族でない人間があそこまでの地獄を創り出せるのだという現実を叩きつけられ、レトは生まれて初めて、心の底から激昂した。
その怒りを汲み取ったシランが吐き出した炎は、建物を溶かした。
かつて自分も卵のうちに子を失ったというシランは、レトと容易く同調した。してしまったのだ。
だがその場には、一頭の龍と、一人の人間の怒りの巻き添えになった子どもが一人、いた。
炎の熱で怯えたのか、小猫のように甲高く鳴く幼いドラゴンにしがみつかれ、自分だって震えているというのに、こちらを鋭く見据えた赤い瞳に映った自分の姿を見た瞬間、レトはあらゆる感情が凍りついた。
自分は、何をしているのだと思った。
圧倒的な力を感情のままに振るって、あの日の自分たちのような小さな子どもを怯えさせる。
何ひとつ、成長していない。こんな自分は、魔族と何も変わらない。
ひゅ、と喉の奥が締まった。
ちがうんだ、そんなつもりなかったんだ、ごめん、こわがらせようとしたんじゃないんだ、ごめん、本当にごめん、と壊れたからくりみたいに繰り返して、レトはその小さな龍と子どもの怯えを拭い去ろうと奮闘した。
大騒ぎを聞きつけてすっ飛んで来た師匠に、何やってやがるこの大馬鹿弟子とすぐにぶっ飛ばされたが。
それが、アジィザと出会ったときのことだ。
うんと年下の少年と思っていたら少女で、しかもドラゴン乗りの証が首に出ているから弟子にする、と言われたとき、レトは初めて師匠に食って掛かった。
だって、あんまりじゃないか。
あんな小さな女の子が、ひどいところにずっと閉じ込められて、わけもわかっていないままドラゴンと契約して、魔族との戦いに駆り出されるなんて。
だけど師匠は頑なだった。
戦える力を持つ者が戦わずに暮らすことを、まるで罪のように考えている人だったから、ドラゴン乗りの証がでたならば、幼かろうが女であろうが戦うべきなのだと、考えを決して変えなかったのだ。
食い下がったら殴られて、考えを覆すことはできなかった。
ジザとあだ名がついた少女は、何も言わなかった。
ドラゴン乗りになりたくないとも、なりたいとも言わずに、ぴぃぴぃと鳴き続ける黒いドラゴンを、血が乾いて固まったような赤い目で見つめながら、その頭をただひたすら優しく撫でて、宥めているだけだった。
その日から、ジザはレトの妹弟子になった。
ジザが来てから、レトは変わった。
変わらざるを得なかった。
魔力容量がレトより多いジザは、制御をよくしくじり、爆発ばかり引き起こしていた。
木剣を破裂させて木屑が顔に刺さったときも、ひたすら失敗した自分を情けなく思ってか、悔し涙を流すだけだった。
レテや上の姉は、かすり傷でも顔につくことを気にしていたのに、大きなあて布で片頬全部覆われても、傷が残ると言われても、ジザは気にしない。
万事が万事これだから、危なっかしくて仕方がなかった。
「兄弟子、なんであなたのほうが痛そうな顔してるんですか?」
挙げ句、剣の素振りをしながらそんなことを言ってくる。師匠が目を見張るぐらいの鍛錬を自分からする妹弟子を、レトはこのころ理解できなかった。
だけどさすがに、年下の女の子が顔の怪我にも平気な顔をしているのを見て、切なくなるくらいの情はあったのだ。
「兄弟子は、おれのこと苦手かと思ってました。女の子……ああ確かに、おれは今女でしたね」
男のままが良かった、とまるで自分が女でないときがあったかのような口調で言ったジザの顔には、暗い色があった。
「……どうしてだ?」
「だって、女の体って弱いじゃないですか。おれ、兄弟子より筋肉がつきにくいし、体もぐにゃぐにゃしてる。腕力だって、低いです。ドラゴンって、強いやつじゃないと仲間ってみとめないんでしょ?おれがザコだと、コクヨウがみじめになる」
卵のまま盗まれた先で生まれた黒い龍は、師匠のドラゴンが呆れ返るほど人間のジザに依存していた。
魔族と戦うための乗り手ではなく、母親を求めたから、契約者が女になったのではないかと言われるほどだ。
最強と自負するドラゴンたちにとって、それは認められないことであるらしい。
過去に、自分の卵を失くしたことのあるシランはコクヨウを気にかけていたが、それは例外なのだ。
「なんにも悪いことしてないコクヨウが、弱いってだけで仲間に嫌われるの、ムカつきます。おれが弱いせいで嫌われるの、もっとムカつきます。……今のあいつが頼りにできるの、おれだけみたいだから」
いつも何かに対して怒っているようなジザは、そう言ってまた鍛錬に戻った。
怪我をしても、悔し涙を浮かべても、弱音を吐かずに鍛錬する妹弟子よりも、何があったって絶対に『先』に立つ、とレトが誓ったのはこのときだ。
才能だけで言ったらきっと、レトよりもジザのほうがある。
木剣が爆発するのだって、魔力が多いから起きることで、特に取り得なんてないレトより、ジザはきっと、もっと強くなれるのだ。師匠もそうとわかっているから、手加減なくジザを鍛えている。
強くなったら、ジザはレトを置いて先へ行くだろう。弱い兄弟子なんて、なんの役に立たないのだから。
だけど一人になったらきっと、この女の子はどこかに一人で行ってしまう。
レトは魔族に何もかもを奪われた。奪われたから、その怒りで剣を取ることができた。
見知らぬ誰かを守りたいという綺麗な思いだけでは、戦えない。
自分から大切なものを奪ったやつらを殺したいというどろどろと溶けた鉄のような思いが、いつも胸の底には燻っていた。
でもジザは、魔族に直接何かをされたわけじゃない。彼女を一番苦しめたのは、あの研究所の人間たちだったのだ。
ジザは自分じゃない誰か、それも勝手に自分に縋りついて来た、人間ですらないドラゴンのために剣を取った。
自分しか頼りにできないドラゴンのために自分がやるというのは、凄いことだと思う。ジザは同情も憐憫も、大して感じていなかった。自分がやるべきだと思ったことを選んだだけ、という透徹した感情があったのだ。
だけどそれなら、ジザは一体、誰を頼りにできるのだ。
優しすぎるこの子を、絶対に一人にしたらだめなんだと自分に誓った。
いなくなってしまった家族の分まで、レテの分まで、守ろうと思ったのだ。
誰かに誓ったわけじゃない。レトがレトに、誓ったのだ。
兄弟子という呼び方が、先輩に変わったのは、二人の師匠が魔族との戦いで亡くなったときからだった。
お前があの子の師になれと遺言が残っていたから、ジザの師匠はレトになった。だが今更師匠呼びがやりづらいから先輩呼びがいいと、ジザのほうから言ってきたのだ。
前のように、レテと自分を比べて卑下する間もなく必死で鍛錬し続けたから、まだレトはジザより強くあれた。
だけど、やればやった分、ジザの才能は感じ取れた。
女の体はやわくて脆いと本人は不服な顔をしていたが、体のしなやかさを生かした動きは人間というより猫のようで剣筋が読みにくく、厄介なのだ。元々乏しかった表情のおかげで、ジザには気づかれなかったが。
見習いでなくなったジザとレトは、やはり同じ場所でずっと戦っていた。
一人しかいない女性のドラゴン乗りは、やはり監視というか監督の必要性があると判断されて、それが兄弟子の自分が適任と判断されたらしかった。
「オレがちゃんと正式に契約したか疑ってるとこもあるんじゃないですかねぇ。あんなイカれた状況で契約したやつ、今までいなかったろうし、女のドラゴン乗りはオレ一人しかいないし、混ざりモンみたいに思われてんじゃないですか?」
「腹は立たないのか?俺は許せないのだが」
「全然ムカつかないわけじゃないスけど、なんも知らん他人さんからしたら、妥当な判断じゃないですかねぇ。先輩はちゃんとコクヨウとオレのこと知ってくれてるでしょ?」
そんなことより魔族を倒しましょう、とジザは本気で気にしていないふうだった。
コクヨウも、ぐるぐる唸っているだけだ。黒いドラゴンは、体は立派になったものの、乗り手がいいならそれでいいという、特大の甘えん坊になっていたからである。
「初めまして。あなたたちと組むことになったから、よろしくね」
「よろしくお願いします」
ふわふわと浮いて飛ぶのが好きな少女と、堅物真面目を絵に描いたような青年と、四人一組になることが増えたのはそれからすぐのことだ。
絶対にジザより先にいる兄弟子であろうと肉が骨から剥がれそうなほどの鍛錬に打ち込んだため、自分のことをよく知ってくれている師匠と妹弟子以外との会話がとことん下手になっていたレトには、二人は新しい風のような存在だった。
口数が足りない、何を考えているかわかりづらい、後先考えずに結果だけ口にするな、過程を喋れ、もう少し表情を動かせ、妹弟子にいつまで通訳してもらうつもりだ、と結構容赦なく青年、シャクラに説かれまくったのである。
ジザはそれを見て、にこにこしていた。
初めての同性の友達ができたという少女、フェイと並んでシランの背中に座り、シャクラに滾々と説教される兄弟子を楽しそうに眺めていたのだ。
兄弟子の危機をちょっとは助けてほしかったのだが、戦うときの、自分を鼓舞するための引き攣れたような笑顔でなく、心底からの微笑みだと言うことがわかったから、レトは文句も何もかも消えてしまうのだ。
嬉しかった。
戦い続ける毎日に何も変わりなんてなく、終わりなんて見えない。誰かが傷つかない日はなかった。
師匠やその先代たちがそうだったように、きっと自分たちは一生ドラゴン乗りとして戦い続けて終わるのだろうが、それでも終わりに辿り着く前のあたたかい日が、失った昔が、戻って来たように思ったのだ。
──────そう、思っていたのに。
これ以上、何も奪われくない。
願うことなど、それだけだった。
昔と同じだ。
今日ある幸せが明日続くと、何故、無邪気に信じていられたのだろう。
「やめて!やめなさい、ジザ!お願い、お願いだからやめて!そんなことどうでもいいの!あなたがやらなくたっていいから!だから……だから、戻って、戻ってよぉ!」
泣いている。
届かない声を上げて、フェイが空に向かって叫んでいる。
片腕を斬り落とされた傷を押さえ、シャクラが悔し気に天を睨み据えている。
青年は─────レトは、歯をぎりりと食い縛った。
目の前には人間の形をした魔族。だがそいつすらも、今眼前で起きている事態に戸惑っているのか、動きを寸の間止めていた。
たった今、この場の全員の脳裏に直接、暴力的なまでの唐突さで割り込んできた光景は、この敵にとっても予想外の代物だったのだ。
その明確な隙に、レトは斬りかかる。
過たず、剣が片腕を斬り落とした。
だが、相手は首を狙った一撃を最小の動きで躱し、一歩で背後で羽ばたいている鈍色の龍の背に飛び乗った。
「群青の瞳の剣士、その顔を覚えたぞ。必ずその首、叩き落す」
言うが速いか、敵は一直線にこちらのドラゴンたちの囲みを突き破り、海上の彼方へと飛び去って行った。
形成されかけている黄金の揺らめきを、淡く輝く光の膜を突き抜け、一目散に。
その、あまりに見事な逃走などどうでもよかった。呪詛のような怨念が籠められた宣言に心底価値はない。
何がどうして、どうなった。どうしてフェイが泣いている。
どうして、どうしてジザがシランと共に空の高みへ駆け昇って行ってしまったのだ。
止めなければならないと思った。理屈も理性も蹴とばして、レトの本能がそう叫んでいた。
今すぐに追いかけて引き留めなければ、あの子が、絶対に失わないと誓った少女が、二度と手の届かない所へ行ってしまうとわかった。
なのに、レトには翼がない。
シランがいなければ、地を這うばかりで空を駆けることすらできない。
「エラワーン、そいつを運んでください!」
応えるかのような咆哮が、空から聞こえた。
先程の人型の魔族に斬り落とされた腕を押さえ、止血をしながらのシャクラがエラワーンを呼んだのだ。
「何を呆けているこの馬鹿者!この場で今、お前以外に誰が行ける!」
張り飛ばされるような声に、レトは既に走り出していた。船べりを蹴って異常な高さを踏み越え、エラワーンの背の鞍に飛びつく。
通常なら、契約下にないドラゴンの背には乗れたものではないのだが、エラワーンはこちらの意を汲んだかのように一声吠えるや否や、白銀の翼を大きく広げた。
空へ上る直前、黒龍の哭き唄が耳を劈いた。
やめろ、と叫びたくなった。
そんな声で泣くな。お前の乗り手は死んだわけじゃないのに、何故末路をとうに知っているかのような、哀し気な声を出す。
夢の中で聞いていた唄と同じ声を背に、レトはエラワーンと共に空を昇る。
空気がどんどん薄くなり、手綱を握る手が凍りつく。
敵の見慣れぬ形の武器に斬られた傷からこぼれる血が、赤い線を引いて後ろへと凄まじい勢いで吹き散らされて行く。
ふと、輝く何かがくるくると回りながら空から落ちて来るのが見えた。咄嗟に身を乗り出して腕を伸ばし、何も考えていないままレトは掴み取った。
掴んだそれは、剣、だった。
使い込まれて柄に巻かれた革が手ずれしている、見慣れた形の剣である。
真っ直ぐな刀身だけが、薄い赤色に染まっていた。
「ジザ!」
鋼の色から淡紅色に変じた剣を握ったまま、レトはその名を叫んだ。
どこにいる。この広く虚しい空の、一体どこに消えてしまった。
エラワーンが首を巡らせ、翼を広げた。そちらを見れば群青の鱗をきらめかせた龍が一頭、落ちていた。
翼を畳み、まるで石ころのように墜ちていく。それはどう見ても、見間違えようのないレトの相棒だった。
「シラン!」
心と声の両方で叫べども、シランからの応えがない。全身が冷たくなった。
エラワーンが近寄って、翼と翼が触れ合うほどの距離になったとき、レトはシランの脇にそれを見つけた。
始めそれは、歪な形の透明な赤い水晶に見えた。
だけど次の瞬間、それが何なのか、誰なのかが、わかってしまった。
人と結晶が混ざり合い、溶け合って固まった姿。
壊れかけた人形と、砕けた宝石の塊を組み合わせたかのようなカタチのそれは、ジザだった。
手を伸ばして、レトは墜ちるジザの体を受け止める。
声も上げられなかった。息もできない。目の前で起きている現象を受け入れることを、脳が拒絶していた。
ジザの腰から下は、結晶となって砕け散ってしまったのか既にない。
傷口すらも結晶と化し、風に食まれて見る見るうちに崩れていく。赤い髪は細い氷柱のような塊へ変わり、砕け散って零れる。
空へ飛ばされて行く赤い結晶が、まるで血のようだった。
腕もない。足もない。貌も、左半分が欠けている。
重度の魔力汚染。それに伴う、生体の急速結晶化。
そんな言葉が浮かんだ。そして結晶化した生き物を元に戻す術は、ない。
それでも、下へ、地上へ帰ろうとしたときだ。
哀しいほどに小さく軽い、澄み切ったひと塊の結晶になってしまった体の、僅かに残った血の通う部分が動いた。
綺麗な一つの目。宝石のように残った赤い瞳の片方は、まだ生きていた。
口元が、微かに動く。
そこから漏れている言葉を聞きとろうとして、顔を寄せたその刹那、レトの前で白い光が弾けた。
レトの意識が、束の間揺らぐ。
水に沈んだときのような、前後左右を見失う浮遊感に絡め取られたのだ。
それが晴れたその後に、レトは見知らぬ景色に立っていた。
「……は?」
場所は海岸。足元には寄せては返す波が打ち寄せ、目の前には果てがない青い海。
頭の上には、あり得ない青く澄んだ空。
それだけでここが、幻なのだとわかってしまった。
空と海がどこまでも青いなど、あり得ない。空とは半分が黒く、海は暗い青と黒に彩られているものなのだ。
こんな、おとぎ話の中の天の国にしかないような蒼穹と蒼海は、この世には存在しない。
それならここは、あの世なのだろうか。
もう一度、辺りを見回したときだ。
「存在していないのは当たり前です、先輩」
すぐ間近、背中で聞こえた声に、レトは鞭のような俊敏さで振り向く。
褐色の頬を縁取る赤い髪と欠けのない四肢が揃った少女が、アジィザがそこにいた。
その姿に向けて、レトは一歩ふらりと踏み出した。
「帰ろう」
ここはどこだとか、何が起きているんだとか、もっと言うべき言葉はあったはずなのに、レトの口から出たのは、その一言だった。
帰ろう、地上へ帰ろう。ここはおかしいから、だから早く戻らなければならないんだと、手を伸ばした。
なのに、ジザは首を振った。小さく、しかしきっぱりと拒絶したのだ。
「帰れません。ここはおれのセカイで、おれにはもう、時間がないんです」
レトにももう、わかっていた。
この世界は、思念能力を持つドラゴン乗りや【魔力持ち】が頭の中に生み出すものだ。
帰れない故郷を、心に描いた思い出を、相手に伝えるために生み出された、ただ巧みに作り込まれたまほろば。
目すら見えなくなった仲間へ、最期に優しい風景を届けるためだけに習得することになっている、終焉を安らかに迎える鎮魂の技だった。
欠けたところのないジザの姿は幻でしかないのだ。
このセカイを創ったのはジザで、レトは招かれた。彼女の言葉を、聞くために。
時間を一秒も無駄にできないと、ジザの燃えるような赤い瞳が言っていた。
知らない知らない聞きたくないそれを聞いたら世界が終わってしまうと、そうと分かっていて、レトはそんな自分を抑えつけた。
「先輩は、見ましたか?さっきおれが南の大陸の全員に送ったもの」
「……ああ。あれが敵、なんだな」
説明するまでもない禍々しさ。魔族に通じる、しかし彼らよりも濃い何かの気配。
見ているだけでこちらの正気を削って来そうな、目を背けたくなる悍ましさを放っていたあの黒い泥のような塊の姿は、船の上にいた全員の脳裏と、魔族にまで伝わっていた。
それから続けて放たれた、ジザの言葉も。
「あれが元凶で、魔族を生む元だということは伝わった。俺たちにも、あの魔族のドラゴン乗りにもだ」
「なら、よかった。おれ、間違わずにやれたんですね」
「よくない。……お前は、一体お前自身に何をしたんだ?」
途端、ジザの表情が毀れた。
「……おれは、結界を張る石が壊されたときの、保険だったんです。そういう命令が下ってました。だけど、あなたたちに言えなかった」
「それは……その役目は、絶対にお前でなければならなかったのか?俺では、代われなかったのか」
「無理でした。先輩にも他の誰にも、適性がないから」
単純に、才能の有無の問題だったと、ジザが言った。
他の誰にもできないから自分がやったという、あの透徹した感情が、そこに透けて見えていた。
「本当ならコクヨウを連れてくはずでした。だって、あいつがおれの契約龍だから。だけど、コクヨウは幼すぎて魔力が足りなかった。こんな高くまで飛べないから、シランに頼んだんです。……おれと一緒に、死んでくれって」
ごめんなさい、とジザが頭を下げた。
あなたの相棒を道連れにしたのだと、謝っていた。
言うべきことなどいくらでもあるはずなのに、頭の中は空回りするばかりで何一つ言葉が出てこなかった。
昔から、自分はいつもこうなのだ。
言うべき言葉が上手く選べなくて、人を怒らせてしまう。人を怒らせたいわけじゃないから黙ってしまって、今度は何を考えているかわからないとまた怒られる。
それで何度も間違えて来て─────きっと今、自分は悔やんでも悔やみきれないほどの間違いを犯したのだとレトは悟ってしまった。
「あの夢は、予知夢ではなかったんだな。……あれは、本当はお前が見ていた夢だったんだろう」
唐突に、天から落ちてきたようにその考えが浮かんだ。フェイに叱り飛ばされたときの言葉が蘇る。
予知夢はあり得ないが、魔力を操ることができる者は精神感応力を持つ。
それこそ、無意識に自分が見ている夢を、他人へ伝えてしまうようなことだって起こり得る。
「あれはお前の夢を、俺が見ていたんだな。あそこに流れていた、哀しみの感情は」
「おれの感情です。先輩、夢の中でおれの姿が見えなかったって言ったでしょう。あれも当然です。だってあの夢は、おれの眼で見ていたものだから」
夢の中に、夢を見ている本人の姿は、映りようがない。
あれは真実ただの夢で、だからこそあの夢が孕んでいた感情も本物だったのだ。
先回りするように、ジザが口を開いた。
「長に斬りかかったりしたら、駄目ですよ。あの人もつらいんです。おれたちの誰より強いばっかりに、仲間が沢山死ぬのを見ないといけないんだから。選択肢、なかったわけでもなかったし」
そもそも臆病風に吹かれるような輩には任せられないって話でしたけど、と赤毛の少女は、言う。
その姿の向こうに、蒼い空と海が広がっているのが見えた。砂粒が崩れていくように、時間がなくなっているのだ。
「俺に、何ができる?」
お前に対して、俺に何ができるのかと、青年は問いかけた。それは間違いなく、あまりに遅すぎた。
青年に、少女の人間としての崩壊を止めることはできない。
嫌だとかやめろとか、そんな言葉がもう届かないことが理解できてしまった。
何かができると思うことさえ、欺瞞なのだ。
聞こえるはずの声を聞きとり損ねて、見当違いの気遣いをして、一体何をした。何をしてやれた。
それなのに、そんな取り返しがつかない間違いを犯した青年に、少女はただ、淡く微笑んだ。
ありがとう、とでも言うように。
「それなら、先輩。お願いします。今からおれが言うことを、全部信じてくれませんか?あり得ないとか、そんなこと不可能だ、とかそういうあなたの中の当たり前を一切合切捨てきって、おれの話を聞いてくれますか?」
「わかった」
「あのぉ、オレが言うのもあれですが、もう少し躊躇いとかあってもいいんですよ」
「必要ない」
きっぱりと言い切ると、ジザはあー、と額に手を当てた。
そういう仕草は、いつも通りだった。龍舎でくだらない話をして、呆れたときのジザの癖だった。
強く唇を噛んで、レトは叫びたくなるような衝動に耐えた。
「じゃあ結論を言います。……あれ、あの黒い塊は、百年後でなければ何があっても滅ぼせません。あれは地脈にへばりついているから、いくら攻撃しようが無駄です。星一つ、壊せるだけの威力の攻撃を叩きこめば話は別ですが、無理でしょう」
あれは星喰らい。
目についた生き物すべてを飲み込み喰らう貪食者だと、ジザは続けた。
「魔族は、あれに喰われてから吐き出された、北大陸の生き物たちです。今日おれたちが戦った人間の魔族、あれも元は、おれたちと同じ人でした」
「人?……もとに、戻るのか?」
「不可能です。彼らはもう死んでいる。胃袋の中の溶けた肉を取り出して泥人形みたいにこねて形を作ったって、そこに生命なんて宿りようがないでしょう。吐き出す言葉も自我も全部が全部、ただ昔をなぞって吐き出されているだけです」
その光景をありありと想像してしまった。確かにそれは不可能だ。
あの魔族が、仲間のドラゴン乗りを騎龍諸共一撃で幾人も屠った敵が、元は同じなど、聞く者が違えばば何を馬鹿なと激昂していただろう。
だが、レトにそんな考えは微塵もなかった。信じると、言ったからだ。
「百年後、北大陸に地震が起きます。同時に山が火を噴きます。その衝撃で【混沌】の核がごく短い時間だけ地脈から剥がれます。その瞬間だけが、あれを滅ぼせる隙です」
「【混沌】?」
あ、とジザが口元を押さえた。
「あれの名前です。だけどもう一つ要素がなければ、【混沌】は殺せません」
桁違いの精神感応能力を持つ人間がいる、とジザは言った。
「【混沌】の中にある『魂』。今まであれに喰らわれた人々の意識の残滓に自分の声を届け、その声を聞きとれるだけの誰かが必要なんです。外からの攻撃と、内側からの攻撃。その二つがないと、【混沌】は決して滅ぼせないから」
魂、とジザは口にした。
「魂ってものがこの世にどういう形であるのかは、おれにもわかりません。生まれ変わりは本当にあるけど。だけど、【混沌】の中には喰らわれた人々の意志……思念が、その僅かな体と共に残留しています。彼らが内側から【混沌】に抗うことが必要です。胃袋の中からつつかれたら、喰ったやつは苦しむでしょう?」
百年という時間の先に訪れる僅かな好機と、精神感応能力。その二つが揃っていなければならない。
何度も見て覚えた、決められた芝居の筋書きを告げるように、ジザは言い切った。
「その精神感応能力は、フェイよりも上なのか?」
「もっと上です。あの子でもまったく足りません」
やはりそれは、決められた上限を、確かに知っている口調だった。
言い切って、ジザは頭を押さえてよろめいた。同時に、ザザ、と耳障りな音が走り、空間がぶれる。
レトは、足元の砂を蹴飛ばして少女に駆け寄っていた。幻の海辺にあるのは思念体同士だから、互いに触れようと思えば触れられる。
だから、レトは腕の中に少女の体を抱き留めることができた。
乾いた体には、何の重さもない。
「おれの話は、終わりです。……先輩、信じますか?」
「信じる」
「……先輩、あの、やっぱりその結論しか言わない口下手、もう少しどうにかしましょうよ。一体どこでそんな話を聞いたのかとか、聞かなきゃならないことあるでしょ」
「必要ない。この状況下のお前が、つまらないことなど言う訳ないのはわかっている。……それだけでいいのか?」
ジザは、深く息を吐いた。
「よくはないですよ。なぁんにも、良いことなんかない。フェイは泣かせたし、シャクラさんはひどい怪我してたし、先輩にはひどい顔させるし」
ああおれ、本当に何やってるんだろう、とジザは蒼い空を見上げて呟いた。
「あなたたちに、死んでほしくなかったし……悲しませたくもなかった。だけどどっちか一つしか選べなくなって……。そういう顔をさせるんだってわかってたのに、傷ついてほしくなかったのに……おれが傷になってちゃ世話ないですよ」
ねぇ、とジザの手が頬に触れた。
悪戯っ子のような顔ではない、静かな、もう自分の終わりを見ている者の、やさしくてかなしい、透き通った微笑みだった。
「先輩、おれのこと、もしも思い出すのがつらくなったら、忘れていいです。だけど」
おれの話だけは、真実だけは、忘れないで、とレトの頬をなぞりながら、ジザは呟いた。
「おれの顔も声も、どんなやつだったかも、好きなものも嫌いなものも、そんなこと皆、忘れていいです。前に歩けなくなるほどつらいものは、置いて行っても構わないです。生きてる人がつらくなる思い出なら、なくったっていい」
だけど、倒してください、とジザの赤い瞳が強く輝いた。
「あれを、滅ぼしてください。おれが出会った人たちがみんな、あんなやつに喰われるために、生きてきたんじゃないって、信じてるから。何にも生み出せない泥に呑み込まれるために生きるなんて、そんな終わり方、おれは、絶対に認めないから」
わかった、という自分の声を、レトはどこか遠いところから聞いた。
「おれが言うのもあれですけど……一人じゃあ、絶対に無理ですからね。ドラゴンと、人と、助け合って、ください」
あとは、と続けようとしてジザの輪郭が、またぶれた。
きっとこれは脳まで結晶化が進んだからなのだ。幻を生み出しこの風景を創り出しているのは、ジザの頭なのだから。
「ジザ、ここはどこなんだ?」
何か少しでもこの子が楽になれるような、そんな話がしたかった。
蒼い空にとけていきそうな吐息を吐きながら、ジザは頬を緩めた。
「ここは、えっと、まぁおれの故郷です。……おれね、本当は人生が二回目なんです。こことは全然違う世界に生きてて、さっき話したことも全部、そこで知ったことでした」
そこじゃおれ、女じゃなかったんです、と何でもないことのように告げた。
実際そんなこと、レトにとってもどうでもよかった。
人生が二回目だとか、男だったとか、どうでもよい。ジザがジザであるならば、何だって。
そんな告白は口下手な自分の真似をしたわけでもあるまいに、どうしてこの妹弟子が闊達な少年そのものな振る舞いができていたのか、という些細な謎が解けた程度でしか、なかった。
「そうか。……うつくしい空と海だな」
泣いてはならなかった。どんな涙も、この少女の前で見せることは、許されなかった。
笑って見送ることができないならば、せめて涙は堪える。
レトが涙を流せば必ず、ジザはその涙を拭おうとする。
喩えそれで、自分の腕が砕け落ちてしまったとしても。
「でしょ?……どこも黒くない蒼い空って、それだけで綺麗なんですよ。みんなと、こういう空、飛んでみたかったです」
でも生まれ変わってこの方、一度もそんな空を見ることができなかった。
世界の空の半分にはいつも、魔族の瘴気が蟠っていたから。
きっと【混沌】が来る前の世界なら、違っていたのだろうけれど。
だけど人間の誰も、その時代を知らないのだ。
ジザの肩を抱いた腕に、レトは力を込めた。
「だったら、俺が空を取り戻す」
「……え?」
「見たかったんだろう。青い空が」
「見たかったです、けど……」
「なら、俺が取り戻す。絶対に。約束だ。皆にも、フェイにもシャクラにもそれを見せる、から」
─────安心しろ、と言った。
取り戻したとしても、その空の下に、この少女はいない。
それでも、ジザは安心したようにそっと瞼を閉じて、最期の息を吐きつくした。
蒼い世界に、ひびが入る。幻が崩れ去る。
元に戻った世界の中、レトの手に残っていたのは、一欠けらの結晶と冷たい鋼の剣。
それだけだった。
透明な欠片は、硝子より儚い音を立てて、砕け散る。
風に乗り、海を分かち空を割き、南の大陸を覆う黄金色の膜へと取り込まれて行った。
く、と喉が鳴る。
悲鳴のような浅い息を何度も、何度も吸った。それでも、押し殺せなかった。
白銀の龍の鞍の上、赤く染まった剣を胸の前に抱きしめて、レトは吼えるように泣いた。
泣く資格がないのは、わかっていた。
だけど今だけ、泣くことを許してほしいと、腕の中で砕け散った少女の面影に呼びかけた。
これを最後にするから、もう二度と、涙など流さないから。
約束を果たすまで、虚しくも果てのない青空を取り戻すまで、決して泣かないから、だから、今だけは、どうか。
茫漠たる雲の海の上に響く人の哭き唄を、白銀の龍だけが静かに聞いていた。
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