第9話 最後の戦い

 例えばの話。

 悪い王様がいて、苦しんでいる国があるとする。

 だけどその国には伝説があるのだ。

 いつの日にか国を救ってくださる良い王様が現れる。

 王様の証である岩に刺さった剣を引き抜いて、それを手にしてみんなを救ってくれるのだと。

 

 今は無理でも、苦しくても、と。

 耐えて耐えて耐えて、耐えていればいいのだと。

 

 良い王様が現れるときを待ち望み、いつか、いつか、と定められていない約束の時を希望にして、苦しみながら生きていく人々。

 彼らはただ、良い王様になる誰かが、その運命を辿るために生み出された『英雄』が、剣を引き抜き、現れるそのときまで、ただひたすらに待ち続けなければならない。


 救い手が現れるまで、彼らは決して救われない。

 救われたいと努力しても、戦っても、『良い王様』が現れるまで、あらゆる努力は無為で、無価値で、無駄なのだ。

 

 だって、物語とは、伝説とは、そういうものだ。

 定められた筋があり、定められた役目を与えられた人間がいる。

 手順がなくなれば物事は解かれず、ここに来るべきと決められたパズルのピースが欠け落ちるか、形が変わってしまえば、決して完成しない。

 

 完成しないパズルに価値はなく、こうあれかしと初めに描かれたものを崩せば、遊戯は成り立たない。

 

 そんなセカイが─────壊れそうなほど脆いものに思えて、仕方がなかった。

 


■■■■■



 

 五つの船が、結晶諸共落ちた。

 それはつまり、作戦の失敗ということであり、海域から離脱しなければならないということになる。

 ぱきりと音がした懐に手を突っ込み、自分が取り出したのは二つに割れた

 それを見たときに、自分の中に生まれた衝動はなんだったのだろう。

 諦めとも覚悟ともとれない、冷たく燃えるものが胸の底に宿った瞬間だった。

 

「あんた、何してるの!速く戻って!」

 

 船べりに手をついて、叫ぶメイファの方を見た。悔しそうに唇を噛んでいる少女に、自分は首を振った。

 

「いや、オレは戻らないよ」

「は?」

「船長さん、この結晶、まだ使わなきゃならないんだ。まだ、全部が終わったわけじゃないから」

「何言ってるの!」

「ごめん、アンタと話せる時間がない。だから……おれの仲間に言っといてほしいんだ。ごめんなさい、って。頼んだよ」

 

 言うが速いか、自分は結晶から飛び降り、着水した。足裏にのみ展開した障壁を踏んで、水面を走る。

 あの黒い光線は、海中にいた魔族すら薙ぎ払ったようで人間が一人で水面を走っても、魔族に飲み込まれることはない。

 船の横を駆け抜けるとき、剣戟の音が聞こえた。先輩やシャクラにもフェイの声は聞こえたろうが、恐らく応えている暇がないのだ。

 落ち着け、と自分に言い聞かせる。

 二人の魔力の反応はまだ消えてない。まだ殺されてない。二人共、自分より強いのだから、と。

 

 だけど今から自分が失敗したら、本当にすべて終わりだった。

 

 怯えるな、止まるな、走れ、とそればかり繰り返し繰り返し、舳先の真下に辿り着く。高い空を見上げれば、龍たちが舞うように飛んでいた。

 いやよく見れば、鈍色の鱗のドラゴンを五頭のドラゴンが囲んで攻めているのだ。コクヨウたち三頭以外の、残っていたドラゴンたちが駆けつけてくれたらしい。

 だがそれだけの数で攻めていても、鈍色のドラゴンを仕留めきれない事実に背中が寒くなる。

 エラワーンよりも、体が一回り以上大きな鈍色龍を相手にしているコクヨウは、いつもよりさらに小さく華奢に見えた。

 口の横に手を当て、自分は肺一杯に吸い込んだ息で、声に魔力を乗せてその名を呼んだ。

 

!」

 

 輪の外にいた群青のドラゴンの瞳と、自分の瞳が交わる。

 一声高く吠えて、シランはこちらへ向かって急降下してきた。水面を滑るように飛んでくるシランの鞍に飛びつき、空中で体勢を整えた。

 上昇したシランが一度だけ、ぐるりと船の上空で円を描いた。見下ろせば、甲板の上で斬り合う三つの人影がある。涅色の髪が靡いているのが見えた。

 多分、先輩はこっちを見ようとしたと思う。

 驚いて、そんなところで何をしているんだと、何をするつもりなのかと、そんなことを叫びかけていただろう。

 けれど、視線は交わらなかった。

 シランが翼を広げるや否や、一直線に空へと昇ったからだ。

 耳が千切れるかと思うほどの風圧に、鞍の上に伏せた。

 

「急いで!」

 

 そう言ったつもりだったのだが、声は声にすらならなかった。風で吹き散らされたのだ。

 雲を裂いて、空を昇って昇り続ける。

 コクヨウより大きく、成熟しているドラゴンの力は凄まじく、脚の下で熱を発するほど筋力が激しく動いているのがわかる。

 少しでも気を抜けば、振り落とされそうだった。

 

 そうして気づけば自分たちは、雲の上へ出ていた。瞼と肺が凍りつきそうなほどに寒い。

 ドラゴン乗りとはいえ、生身で来ていい領域ではなかった。

 どうせすぐ、寒さなんて関係がなくなるのだけれど。

 白い息を吐きながら魔力を全身に回し、剣を引き抜く。鞍の上でなんとか膝立ちになって刀身を魔力で包み、鋭く輝く伸びた剣の鋒で、シランの背、心臓の真上にあたる鱗に触れた。

 

 群青のドラゴンは、静かに羽ばたきながら、静止していた。足元には雲だけが広がり、切れ目から大陸の緑が微かに覗く。

 生き物の気配が凡そ龍と自分しかない高い空の上で、自分は口を開いた。

 

「シラン。おれの願い、聞いてくれたんですね」

 

 契約していない自分では、シランの言葉を汲み取れず、誰もこの龍の最期の言葉を聞き取ることができない。

 自分には、ぼんやりとシランの感情の大まかな形と揺らぎを感じ取ることしかできない。

 豊かな海の色の鱗を持つ龍の心はただ、凪いでいた。

 そこに猛る波はなく、逆巻く渦もない。

 あらゆるすべてを飲み込み、受け止める母なる海そのもののような、静けさだけがあった。

 

 喉から口へ出かかっていた、謝罪の言葉を直前で取り消す。

 

 自分は、自分だけは、この誇り高い龍に謝ってはならない。それは縋る行為で、赦しを求めるものだからだ。

 自分たちは同じ感情を綱にし、翼に乗せてここに至った。

 なのに己だけが謝るのは、筋を違えた行いだ。

 

 自分が、望みを聞いてくれた龍に対して告げていい言葉があるとするならば、たった一つだけ。

 

「ありがとう、ございました」

 

 鋼の色に輝く剣を、自分は真っ直ぐに振り下ろす。

 狙いはドラゴンの魔力の源であり、急所たる心臓、ただ一つだった。

 

 果てなき白雲が連なる海の上で、蒼き光が炸裂した。

























 大気に魔力が満ち満ちるこの世界には、生命体の中に多くの特異な法則がある。

 生き物の雌雄に関わる特性などは、その一つ。

 

 精を受けて子を孕む雌、つまり女性は、魔力を体内に取り込みやすく、取り込むための精製回路が発達している。

 逆に雄、つまり男性は、魔力を取り込み溜める能力が女性よりは劣るが、魔力を放出するのに優れている。

 これは、ドラゴンや人間に限らず、体に雌雄の区別を持つすべての生物に共通する。だから、女の【魔力持ち】のほうが胎内に魔力を溜めやすいのだと、殊更婚姻話が盛んになったりする。

 とはいえこの体質も、一概には言えない。

 フェイの魔力の扱いはそこらの男の【魔力持ち】の追随を許さないほどだし、男であっても魔力容量が女の【魔力持ち】より優れた者はいる。

 

 だが少なくとも、ドラゴン乗りの中においては、魔力の吸収、精製能力が最も高いのは、一人しかいないの乗り手であり、それが、自分なのだ。

 

 仮にそのドラゴン乗りが、魔力の吸収力と精製量が高すぎるせいで放出のコツを掴むのが上手くいかず、何度も何度も木剣を破裂させるような下ッ手クソであろうと、だ。

 

 【黒】のアジィザに最も可能性があるならば、賭けるしかない。

 結晶とドラゴン乗りたちによる結界展開にしくじった場合の、謂わばバックアップがないほうがおかしいのだ。

 

「……あぁ」

 

 ドラゴンの心臓に剣を突き立てるという、ドラゴン乗り史上誰も試みたことすらもないような蛮行をやったせいか、意識が一瞬飛んでいたらしかった。

 目を開けばそこはまだ空の上。

 自分の手は真赤に染まり、けれどそれ以上の勢いで可視化できるほどの濃度の群青の魔力が、辺りに吹き荒れていた。

 魔族すら焼き尽くす、海に落ちても消えない魔力の炎を吐くドラゴンの力の源、それは心臓にある。

 ドラゴンたちをこの世界の最強種族たらしめているだけの魔力が、心臓を軸に巨大な体を駆け巡っているのだ。

 自分はそこに剣を突き立て、抉った。

 

 当然、弾けた心臓から、堰を切られた大河のような勢いで魔力が流出する。

 ニ百年を超す歳月を経たドラゴンの、生きている心臓が放つ魔力の勢いは、屍となった龍の結晶に溜め込まれた魔力に比べ、遥かに激しい。

 加えて、生きているのだから生き続けるだけで魔力を発生し続けられる。心臓を抉られても、即死しないのがドラゴンなのだ。

 その量と勢いは、砕け落ちた五つの石に込められていた魔力の穴を埋められるほどだ。本当に、紙一重ではあるけれど。

 

 だけどこれだけでは、単に莫大な量のエネルギーが大爆発を起こし、周囲を吹き飛ばした後に四散するだけだ。

 魔力を回し、流れを整え、要石と繋ぎ、結界を編み上げるための変換装置が必要不可欠なのだ。

 そしてその操作は、破壊へ特化した能力を持つ龍種には、繊細過ぎて不可能。

 

 だから、変換装置となれるだけの精製能力を持つ人間が、どうしたって必要であった。

 

「ッ……!」

 

 爆発し、火山噴火のように荒れ狂う魔力を抑えて不可視の回路で以て体内に取り込み、変換し、結界の形へと転じさせる。

 それはさながら、濁流に生身で放り出されて揉まれながら、無数の綱を結びつけようとする行いだ。指は上手く動かず、体自体が水の流れに持っていかれそうになり、呼吸すらままならない。いや本当、本気でキツい。軽率な羽虫みたいに死にそうだ。

 変換し続けながら、大海原の各所へ散っている魔力結晶同士を繋ぐのだから。

 導とするのは、懐の中で割れた黄金龍の鱗。これと同じ魔力を帯びた鱗が仕込まれている結晶を、魔力探知能力で探り当て、結界を編むのが自分の任務だった。

 同時に、鱗が割れたときこそ、結界の回路となれという司令が下った報せだった。

 

 すべてのドラゴン乗りの中で、最もやり通せる可能性があるのが自分であった。自分が選ばれた理由、任が下された理由はそれだけだ。

 だけれど、生きたドラゴンとドラゴン乗りとが生体回路と起爆剤となるこの方法は、礎となる彼らにかかる負担が集中し、しかも一度一人と一頭が挫ければ成功しようのないという、抜群の不安定さ。

 だからレグルスは最初、より安定した複数人による結界展開を試みた。

 

 それが成功していたならば、自分なんて要らなかった。

 でも、船は落ち、一つ目の方法は潰された。

 起点者となるドラゴン乗りたちが足りないとなれば、次善の策を使うより他ない。

 

 ぱきぱき、ぴきぴき、と自身の手足の先から不穏な音がする。

 

 生命体にある魔力限界。いのちが持つ、定められた器の容量。

 その器が掬い取れるだけの量を超えた魔力を浴び続ければ、生きていようと細胞は変質し、結晶化する。

 それが、この世の法則だ。

 

 剣の柄を握る指が、風で暴れる髪の先が、しがみついている脚の先が水晶体となり、凍りついて行くのだ。

 痛みは、ない。

 ないのだが、末端から感覚が喪失していくというのは、恐怖でしかなかった。

 最悪的に最悪な発想だが、魔力を操る脳さえ最後に残ればいいと、捨て鉢を極めた考えが過る。

 大体、容量が多い自分だから耐えて結界を編めるのだ。自分以外だと術を編み上げる前に脳まで結晶化が進み、失敗してしまうと言われた。

 

 自爆特攻どころの話でない。

 自爆して自分の体を砕き続けながら、結界を創造しなければならないのだ。人体の限界の踏破を前提にしてやがる。

 

 せり上がって口から出た血も、風に叩かれ続けることで生理的に出る涙も、外気へと触れた瞬間に、輝く結晶体へと姿を変え、空へと散っていく。

 空へ散った自分の欠片同士にまで感覚を伸ばし、海へ設置された石を繋いでいく。

 

 『自分』という認識の境目が薄く薄く、世界全体へと広がっていくのを感じた。

 

 自分の体が結晶へ変質し、砕けて行くのに任せ、砕けたその破片一つ一つを糸として織物をつくり上げていく。

 

 誰だ、こんな大規模馬鹿魔術を組み上げたやつは。

 素体単体の根性論を要にしなければ成功しない作戦なんて、三流参謀どころの騒ぎじゃ無かろうが。

 

 ぽつりと胸の中に浮かんだ愚痴を引き金にしたかのように、感情が吹き上がる。

 それは他人から隠し、自分自身からも隠していた、なんら生産性のない喚きだった。

 

 ふざけるな、ふざけるなよ馬鹿野郎。

 なんなんだ本当、意味がわからない。

 なんで自分が頑張らなければ、世界が滅びそうになるのだ。

 ちっぽけな人間が単体で体を張ったの頑張りで世界なんて、強度が足りない。強さが足りない。脆弱に過ぎる。

 この世はガラス細工か、カゲロウの翅なのか。

 世界なんて、そんなもんじゃないだろう。

 もっと大勢が蠢いて、意味不明で理解不能で、どちらを向いて歩いているのかすら定かでない混沌極めた煉獄魔境。

 矛盾だらけで底がない、一人で担いきれるわけがない熱の塊であるはずだ。

 そうであるべきだ。そうでなければならない。

 

 これほど重いものを、一人に背負わせるな。それで世界を成り立たせるな。

 一人が背負って立って成立する世界のほうがおかしいと、何故誰も思ってくれない。

 

 たった一人が頑張って、たかが生命一つをかけるだけの頑張り通しで護れてしまうなんて、嗚呼、なんて脆い。

 

 ──────耐えられない、耐えられない、耐えられない!!

 

 自分のいのちよりも大切な人がいると叫びながら戦う、数多の英雄ヒーローがいる世界が、何故こんな、世界にどうしようもなく馴染めない塵屑の肩に載せられるのだ。

 

 こんなセカイ、自分は大嫌いだ。

 あの子のように、群青の髪の聖女の如き女の子のように、綺麗なものに恋焦がれる眼をして守ることなんてできない。

 到底無理だ。

 自分では優しい夢が見られない。そんな余裕すらない。

 違和感に苦しみ、現実しか目に入らず、その現実にすら脆い脆いと慟哭する獣だ。

 理想を愛せる恋心が、自分には徹底的に欠落している。

 

 未だ生まれてすらいない子ども、これから母や父になるはずの、自分の友人たちのいとし子がいなければ、究極的に救われもしない人々。

 百年後を待たなければ、決して星喰らいの魔を打ち払えないと定められた世界。

 未来を知っているからこその絶望を燃料に生きている人間の背に、どうして。

 

 それでも。

 どうして、どうしてと心で泣き叫びながらも、自分の頭は、体は、ひたすらに世界を守るための壁をつくり続けていく。

 砕けていくことで自分の意識領域を拡張し、手繰り寄せた結晶同士を繋ぎ、黄金色の膜を編み上げる。

 

 心は少しも納得していない。魂の渇きは癒されない。

 だけど。

 

 ちっぽけなおれの心なんて、本当はどうでもよかったのだ。

 置き去りにして、乾いて砕けて吹き散らされたって構わない。

 

 だから。

 もしいるならば、神様、どうかお願いします。

 

 おれの大事なものだけは、どうか、壊れないで。

 

 ここが壊れそうな世界だなんて思うことなく、ただひたむきに真っ直ぐに生きる仲間。

 決して壊れてほしくないと自分が願った人と、龍たち。セカイなんてどうだっていいけど、世界に生きる人は違うのだ。

 皆に死んでほしくない、生きていてほしい、笑っていてほしい、誰かの盾になんて、なってほしくない。

 

 自分がこうなることが、彼らの哀しみになることなんて、わかっている。

 自分が彼らを大切に思っているのと同じくらい、大切に思われていることなんて理解できているのだ。

 そこまで鈍い愚か者になったつもりはない。

 

 それでも、彼らの哀しみと引き換えにしてでも、自分にはやらなければならないことがあったのだ。

 ごめんなさい、ごめんなさい、本当のことを言えなくてごめんなさい、あなたたちを悲しませる結果しか導けないおれを赦してくださいと泣き喚きながら、体を砕き魔力を編み続ける。

 

 このときこの瞬間、自分は世界で一番の愚かものだった。

 

 ─────否。

 

 拡散し、惑星全体へと広がっていく自意識と自我の中、否定の感情が芽生えた。

 黒く覆われた北の大陸へと、目を向ける。

 人体に不可能なほどの莫大な魔力を扱える、生体回路となりつつある自分には、そこにあるモノが雲を透かして見えていた。

 そこにあると初めから知っていたのならば、見つけるのも容易い。

 

 大地に開いた大穴の、底の底にへばりつく黒くおぞましい塊。

 それが、視覚情報として捉えた【混沌】の姿だった。

 『眼』などないはずの【混沌】が、こちらを見た、ような気がした。

 ならば、睨み返すだけだ。 

 お前さえ、意地汚い大喰らいのお前さえ来なければよかったのに、本当の愚か者はお前のほうだ、と。

 

 純粋なる憎しみと八つ当たりで見据えたそれを、その姿を、自分は思念情報へと変える。 

 南大陸と海の一部を覆いつつある結界、その中へ、自分は思念情報を

 

 南大陸に生きるすべての人間、すべての知性と自我ある生きものの脳裏に【混沌】の姿を映した視覚情報を、届ける。

 分にも満たない映像を届けた次にやることは、言葉を送ることだった。

 

『聞こえていますか、が、すべての元凶です』

 

 魔族を生む原因、魔に纏わるすべての災厄の生みの親。それを斃さなければ、決してこの世は救われないのだと酷薄に言った。

 

『百年。百年間、この結界は世界を守ります。あなたたちの今の生活が脅かされることは、ない。おれが、おれたちがこの身を捧げて、魔を防ぐからです』

 

 しかしそれは、救済ではない。

 何故なら、これは所詮百年しかもたないからだ。百年経てば、自分の体と結界自体が、耐えられなくなるのだから。

 百年を短いと取るか、長いと取るか、それは種族によって異なるだろう。

 だが。

 

『理解できましたか、それが敵です。それがすべての元凶です。おれたちが打ち倒さなければならない、魔の源です。自らの子が、孫が、子々孫々が、その絶望に食らいつくされるいつかの未来を認めないというならば』

 

 ─────戦い続けろ、と自分は無慈悲に告げた。

 

 百年の安寧を、無為に消費し尽くすことは許さない。忘れるなど以ての外。

 いつか壊れるとわかりきっている平穏を浪費し、ただひたすらに安穏と生涯を終えることなど認めない。

 

 本当の意味で生き残りたいならば、大切な者を守りたいと願うならば、決して油断をするな。魂を腐らせるな。質を落とすな。

 平穏の中で、生涯を終わらせることができると思うな。

 

 この世界は何も、何も救われていないのだから。

 自分はただ、途絶えそうな焚き火に、薪としてこの身を投じただけ。

 周囲から、押し潰さんと押し寄せてくる闇を晴らすには余りにも弱弱しい光を、ほんの僅かに永らえさせただけ。

 焚火が与えてくれるぬくもりに縋るだけの人生など、いつか生まれ来る幼い生命たちに世界の命運をすべて預けるなど、決して許しはしない。

 

 自分は世界に、紛れもない呪いをかけたのだ。

 

 そして呪いが成就すると同時に、結界が完成する。

 南の大陸と、海原の一部を囲い護る、薄く淡く輝く金色こんじきのヴェール。

 魔を寄せ付けない、最後の守りだった。

 

 ふと、気がつく。

 結界となって世界へと広がった意識が、起点となったそもそもの体に収束される。

 自分の体は上半身だけの半分になって、雲を突っ切って落ちていた。

 半ば以上水晶のようになっている腕を伸ばし、間近にある龍の鱗に触れる。

 シランはもう、とうの昔に冷たい屍となっていた。


 自分が、殺したのだ。

 

 最期に彼女が何を想ったのかもうわからず、遺言すら届けられない己が、恨めしかった。

 

 墜ちていきながら、開いたままだった龍の瞼を、閉じた。

 片目にしかできないことが、申し訳なかった。

 

 こちらも腰から下はとうに結晶と化し、砂のように細かく砕けて風の中へ吹き散らされて、結界となっている。

 左腕は肩から先がなくなっており、右手は動かした拍子に肘から先が砕けた。

 最後まで手放さなかった剣が、使い手である自分より速く、礫のように落ちていくのが、半分になった視界に映っていた。

 

 は、と残っていた息を吐く。

 呼吸のための肺すらも粒子となって砕けていくのだから、今のが最後の吐息になる。

 

 これから自分はどうなるのだろう、と漠然と思った。

 自分がこの手で心臓を抉り、殺したシランと違って、自分の意識はある。

 だが、意識の拠り所である身体そのものが砕けて散らばっていくのだ。

 『自分』が『自分』の体の枠を超えて、希釈され、広がっていく。結界を維持し続けるという機能を残した、回路へと変わっていくのだ。

 どこにでもいて、どこにもいない存在へと、自身が変わりつつあるのを感じた。

 恐らくこれから百年ずっと、そうやって希釈された自我で以て自分は世界に存在し続けるのだろう。

 人の器を失っただけで、ある意味では死んでいないのだ。尚、簡単に死ねなくなったとも言う。

 

 そうでなければ、生体回路を百年続けることなど、できはしない。

 生きたまま結晶化し、その身を砕いて術式を組んだならば、肉体の欠片が消費され尽くされるまで、術者は大気の魔力から結界を維持できるだけの魔力を、汲み取り続けられるパーツとなる。

 理論上はそうなる、はずだ。

 試したやつがいないから、確証はない。

 

 欠けた五つの結晶含む十個の結晶が内包する魔力を消費していく形式が、謂わば第一案であった。

 それが失敗したときのために用意された、人間とドラゴンを生きたまま起爆剤と魔力精製回路とし、結晶を単なる目印と補助電池に変えて行う疑似的永久機関形式の結界術が、第二案。

 

 今更過ぎるが、第二案を考えついたどっかの魔術師たちも、実行するために人選を真面目に選定したドラゴン乗りの長も、間違いなく世界最高レベルの馬鹿だと思うのだ。

 素体の精神力とか個体値とか、その他諸々に依存し過ぎである。作戦行動として危うい。

 泣き喚きながらも、曲がりになりにこうやって成功させた素体本人が、だらだらと文句をつけるのはなんだかおかしいが。

 

 まぁ、立案者が素体の数値上の可能性しか見ない相手だったからこそ、できたこともある。

 

 自分は結界を編むついでに、世界全体へと思念的に干渉した。レグルスにとっては、想定外の行為だ。

 これから百年休まず働くのだから、その程度の我儘勝手はやったって文句は言わせない。

 真実という名の絶望と恐怖を南大陸へとまき散らすことに、罪悪感がないではなかった。心の弱い者ならば、折れてしまったかもしれない。

 が、安穏としていれば牙を研ぐのをやめてしまうのが、人の性というものだ。

 百年の平和が続くとなれば、克己心を続けられる人間などほんの一握り。そうでない者は、恐怖で以て尻を蹴とばしてでもやらせるしかない。

 人間同士で争って、喰い合っている暇などあるわけがない。

 

 これからの未来で生まれる子どもたちが背負うものが、少しでも軽くなるように。

 自分のかけがえのない友達二人の間にできるだろう子どもが、ほんの僅かでもいいから救われるように。

 

 そんな祈りを、想った。

 

 想って願って、瞼を閉じようとしたとき、目方が随分減った自分の体が、何かに受け止められる。

 唐突に、落下が止まった。

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