「イントロ」その3

 巡査部長の腹部に鈍痛が走った。


 同時に彼の体はホームランボールのように大きく

 そのまま壁に勢いよく背中を打ちつける。

 腹部の痛みと背中の痛みに板挟みにされた彼は思わず吐き気をもよおした。

 壁のフックに添えられたハンガーがガラガラと揺れた。


 騒然とする室内で巡査部長が眼を開けると、目の前には拳を握りしめて起き上がる女性従業員の姿があった。彼女は右手を左手首から離していた。


 ああ、まさか。

 驚嘆の言葉が浮かぶ。


 彼女の左手首には引っ掻き傷があった。



 そう、Aの推理は当たっていたのだ。



 現場にいた誰もが驚愕し、固まった。まるで時が止まったかのように。

 ——その一瞬を彼女は逃さない。


 入り口には制服警官が数名いたため、女性は窓に向かって走り出した。そして、あっという間に窓から外へ飛び降りた。ここは四階である。飛び降りてただで済むはずがない。


 ところが、腹を押さえながら巡査部長が窓から上半身を乗り出して見ると、まるでアクション俳優よろしく綺麗に着地を決めて走り出す女性従業員の姿があった。

 入り口で待機していた警察官らも慌てて追いかけるが、彼女との距離は離れるばかりである。



「いやあ、これは大変なことになったなぁ」



 隣から声が聞こえた。振り向くと、果たしてAがいた。彼は窓から顔を少し出す程度で、この非常事態を軽視しているようだった。


「そんな呑気なことを言ってる場合か! 君のせいで犯人が逃げ出したんだぞ!」


 巡査部長は思わず声を荒らげた。今すぐ緊急配備をしなければ大ごとになる。そうなれば、この現場にいた全員が処分を受けることになる。彼の胸中は鳴門の渦潮のごとく興奮していた


 しかし、Aはいたって冷静だった。この現場に入った時も、彼女を追い詰めた時も、そして今も。先ほどと変わらない調子で彼は口を開いた。


「安心したまえ。彼女はもうじき転ぶ。そこで一斉に飛びかかって取り押さえれば良い。そう、ちょうどあの鳥居の前で」


 巡査部長は女の走っていく方を見た。ビジネスホテルのある往来と甲州街道のちょうど交差するところには雷電稲荷神社と呼ばれる神社があった。都会の真ん中に立地し、多くの旗の先にそびえる拝殿は、都心の裏道の中でも異色の雰囲気をまとっている。

 だが、あたりに障害物など何もなく、彼女が転ぶ気配もない。いったい、Aは何を根拠にそんなことを言ってるのだろうか。


「ほら、もうすぐだ。3、2、1——」


 そんな巡査部長の心境など気にせずに、Aは唐突にカウントダウンを始めた。



 そして、カウントダウンが終わるとき——



 踏み込んだ彼女の右足は、突如として地面から離れて空高く舞い上がった。それに連なって、彼女の身体は空中で大きく半回転する。宙に放り出された女性の四肢は、さながら四つの針を持つ時計のようだった。


 そのまま彼女は顔から落下した。顔はアスファルトの凹凸に擦られて赤く滲む。

 だがアスファルトの摩擦係数もむなしく、女性は体幹を軸にしながら地面の上を転がり続けた。


 ようやく止まったのは神社の左隣にある駐車場の前だった。



 誰もが疑いようがなかった。Aの言った通り、女は転んだのだ。



 たちまち警官たちが女性の上にまたがり、後ろ手で手錠をかけた。


「午前十時二分、公務執行妨害の容疑で緊急逮捕する!」


 警官の声が路地に響き渡った。通行人はなにごとだ、なにごとだと人だかりを作るが、すぐに規制テープの外に押し出された。


「しっかりと拘束しておくれ。万が一にも暴れ出すと、男一人では抑えられないかもしれない」


 優雅にホテルから出てきたAは女性従業員を取り押さえている警官たちに声をかけた。往来に詰めかけた群衆が彼のことに注目するも、Aが動じる様子はまったくない。

 最初から最後まで平生を貫き通していた。そこには横着とは違う、一種の普遍があった。「落ち着いている」と表現すればいいだろうか。いや、それにしては彼の表情は満足げであった。


「それじゃ」


 Aは短く別れの挨拶を述べると、甲州街道の方へ向かって歩き出した。

 ちょうどその時、巡査部長が腹を抑えながらホテルから出たところだった。


「おい、君。まちたまえ!」


 巡査部長は彼に呼びかけた。声を出すと、先ほど女性従業員に殴られた箇所がズキリと痛む。しかし、そんな巡査部長が振り絞った声に、Aが振り返る様子はない。もっと大きな声を出してみようか。巡査部長が覚悟を決めて息を吸うと、



「やめておけ。あいつとは関わらない方がいい」



 ホテルの入り口から警部補が出てきてそう言った。彼も事件現場でことの一部始終を見届けた一人である。警部補にはAの正体が予想できているようだった。


「あれは本庁のだ」

「特別捜査官?」


「ああ。俺も噂でしか聞いたことはないが、を圧倒する秀でた才能を持った警察官に与えられる役職らしい。彼らはどこかの部署に所属することはなく、気になった事件を次々と解決していく。まさに日本の警察が持つ切り札トランプ、とりわけジョーカーといったところだ」


「つまり、探偵みたいな存在ですか?」


 中年の巡査部長の問いかけに若い警部補は顔をしかめた。


「さあね。詳しい話は本庁で仕事したことのある俺でもよく分からん。ただ、に関してこれ以上、立ち入ってはいけないということは確実に言えるな。俺もまだこの仕事で飯を食っていきたいんでね」


 そう言って警部補は今どきの長い髪を揺らしてホテルに戻っていった。巡査部長はもう一度、金髪の警官を見た。彼はいま、雷電神社の前を歩いている。ちょうど、女が確保されたところだ。


 逃走を図った女性従業員は聞き取れない罵声を彼に浴びせていた。しかし、金髪の警官はそれに動じることはなく、優雅に歩を進める。この現場に入ったときと同じように。もしくは事件が解決したときと同じように。



 男の名をAといった。

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